志苔館 [┣続百名城]
五稜郭に行った後、ホテルをチェックアウトし、荷物を持って今回最後の訪問地、志苔館に向かいました。箱館駅からバスの旅。しかも、続百名城なので、知名度も若干少なめ…行き方が分からず、バスを降りてからしばらく右往左往してしまいました。
この志苔館は、津軽方面で南北朝の戦いに敗れた南朝方の武士たちが、蝦夷地に逃れて移り住んだ場所のひとつのようです。
その後、アイヌの蜂起により、道内各地の館が次々と落とされていったようです。
志苔館の主、小林氏はコシャマインの戦いで亡くなったとか。
ここでは、コシャマインの戦いで亡くなった、小林氏一族のほか、和人殉難御霊、阿伊努(アイヌ)悵魂御霊双方を同一座で祀っているとのこと。(石崎地主海神社様)
逃れてきた南朝武士と、この地に住むアイヌの間で、どのような諍いがあったのか、知る由もないが、どちらも一緒に祀られていることに、少しだけ心が慰められる。
土塁と薬研堀からなる、自然の地形を生かした、原始的な館跡という感じ。
すぐ近くまで海が迫っていて、風が強いけれど、不思議に落ち着く場所だった。
14世紀末から15世紀にかけて存在していた建物の跡は、発掘され、遺構が杭で表現されている。
正面が建物のあった部分らしい。
あまりにも荒涼としているので、30分くらいしか滞在できなかった。
で、ここから函館空港に徒歩で行けるはず…という今回の旅最大の冒険に出ることに。
地図上、ここは繋がっている(たぶんトンネル)という場所があり、問題は、ここを徒歩で通れるかどうか。通れないと信じられない遠回りをすることになる。
まずは、地図を見てみましょう。
この、赤い楕円で囲んだ、いかにもトンネルらしき部分、本当にトンネルでした
問題は、このトンネルに歩道が存在しているか、ですが、存在してました
けっこう長い距離でしたが、無事、函館空港に到着
お土産を買って、搭乗前にビールで乾杯して、機上の人になりました。
一緒に旅をしてくれた友人には感謝でいっぱい。たくさんの城と桜の思いでができました。
五稜郭 [┣百名城]
函館2日目は、もちろん、五稜郭オープンと同時に五稜郭タワーへ。
タワーの上から見ると、五角形の形がよくわかりますね。
(端がちょっと切れてますけど…)
タワーの上に、土方さんがいらっしゃったので、和泉守兼定(極)と2ショット撮影をさせていただきました。
逆光だったので、色味の加工をしております。
日米和親条約によって箱館港が開港したことに伴い、箱館奉行所を設置したものの、地理的に防御に適さなかったことから、箱館湾内から仮に砲撃されても届かない位置に、防御に強い土塁を作って、その中に奉行所を置くことになったーそれが、ここ、五稜郭。五角形の稜堡となったのは、箱館に入港したフランスの軍艦の副館長の指導を受け、箱館奉行所の武田斐三郎の設計によるもの。
すごいですね。
桜+兼さん
似合いすぎる
さて、大政奉還の後、箱館奉行所は、新政府の箱館府として使用されていたが、半年後に榎本武揚率いる旧幕府軍の攻撃を受け、箱館知事が逃走。無人の五稜郭は、旧幕府軍に占領された。
こうして本格的に箱館戦争が始まったが、新政府軍は、各地に大砲を並べて五稜郭を攻撃、奉行所にも命中するなどする中、とうとう幕府軍は降伏することとなった。
そんな悲しい歴史のある五稜郭ですが、ご覧の通り、見渡す限りの桜・桜・桜
ここまでずっと桜を追いかけてきたのは、ここで、この桜に出合うためだったのかもしれない…と、ムネアツになりました
ちなみに、「刀剣乱舞」関係なく、昔から榎本武揚ファンだったもので、そういう意味でも、ここに来れたのは嬉しかったです。
降伏した後、榎本は、投獄されますが、後に第二代総理大臣になる黒田清隆らの除名嘆願もあり、やがて出獄、後に逓信大臣や文部大臣を務め、子爵に叙せられたりしています。
隕石を材料に「流星刀」を鍛刀させたことでも知られているので、いずれ、流星刀が顕現することになった暁には、榎本さんっぽいキャラになるのではないか…と期待しております。
とはいえ、世間的には、土方歳三様人気がすごいので、1階ロビーにも土方さんの像がありました。
五稜郭タワーを降りて、五稜郭本体の方に向かいます。
桜が映える晴天でした。
独立した稜堡なので、橋が架かっているのは3か所だけ。そのひとつを渡って、中へ入っていきます。わくわく
でも、まあ、圧倒的なのは、桜です。五稜郭の桜が見たい、と思っていたのに、来てみたら、桜に圧倒されて、花見に来たみたいな雰囲気になってしまい、城とか歴史的建造物とか、そういう一切のことが、頭から抜け落ちました。
今まで見たことがない、圧倒的な桜でした
あ、ちなみに、オンラインゲーム「刀剣乱舞」をご存じない方へ。和泉守兼定(刀剣男士)の足元にいるのは、「こんのすけ」です。ゲームのナビゲーターみたいな存在です。なんか、撮影時に呼び出してしまったみたいです。
五稜郭のほぼ中央に箱館奉行所があります。ここは、その門に当たる部分です。ここからまだまだ桜の洗礼を受けないと、箱館奉行所に到達しません。
直線的に奉行所に行くのは無理でしたね。桜に誘われふらふらしながら、時の経つのも忘れて、光景に浸っていました。
ようやく、箱館奉行所に到着。
ホンモノは箱館戦争の折に砲撃を受け、敵の砲撃の的になっている(中央に突き出している太鼓櫓がかっこうの標的になっていた…)ことを察知した味方の手によって破壊されたとのこと。
現在の建物は、平成22(2010)年に復元されたもの。
こちらは、箱館奉行所の前に咲いていた「桃」です。
あまりにも桜の洪水だったので、ちょっとホッとしてしまいました。
もう、こんな感じで、いたるところ、桜、それもほぼ染井吉野なので、なにかもう、別世界にいるような感じなのです。
たまに枝垂桜もあったりすますが、ほんとうに「たまに」でした。
いったい誰がこれだけの桜を植えたのか、1600本ほど桜の木があるそうです。
今年の桜の総決算、箱館で満喫しました
城好きとしては、桜に惑わされない季節にもう一度訪れたいな…という気持ちにもなっています。
五稜郭の稜堡の外側(タワーの下の辺りなど)は、この時期だけ、コンロの使用がOKになっているそうで、なぜそんなにコンロが重要なんだろうと思っていたら、皆さん、桜の下でジンギスカンを召し上がっていました。
箱館では、桜とジンギスカンなんですね
松前城 [┣百名城]
根城に行った後、八戸から新幹線に乗り、函館へ。
北海道の終点駅は「新函館北斗」という名前で、一応「函館」の名前は入っているものの、「横浜」と「新横浜」とか、「大阪」と「新大阪」の距離感ではないということを初めて知りました。
うわ…けっこう距離あるな…と思いながら、函館駅へ。
函館本線の0キロポストがあったので、撮影してみました。
で、函館で一泊し、温泉にも入り、翌朝早々、松前城を目指すことになりました。
函館から、木古内駅まで行き、そこから松前城行きのバスに乗る…というコースなのですが、JR北海道の駅は、函館の次の「五稜郭」までで、そこからは、「道南いさりび鉄道」という第三セクターの線になります。
一方、目的地の木古内駅は、北海道新幹線の停車駅になっている…という、脳がこんがらがるような旅路でした。
木古内駅は、新幹線の駅でもあるので、立派なんですよね。そこに間借りするような形で停まっている、道南いさりび鉄道の電車
可愛いですね。車体のぐるぐるマークが、イカ釣り漁の「漁火」を表現しているようです。
道南いさりび鉄道には、一日乗車券というのがあって、函館駅のJRイン(ホテル)のカウンター等で販売していて、木古内との往復だと数百円安くあがるようです。
木古内駅を降りると、駅前がロータリーになっていて、その向かい側に道の駅「みそぎの郷きこない」というのがあります。ここの塩パンが人気のようで、朝からたくさんの人が並んでいました。
松前ではお昼を食べる場所もなさげ…ということだったので、ここで、ブランチ的に軽食をいただき、バスに乗車。
バスはずっと海沿いを進み、目的の「松城」停留所に到着しても、そこは海でした。え、海城なん
分かりやすい案内図があったので、迷わずに城方向へ。
おお、桜が…
これは、「南殿(なでん)」という桜だそうで、松前城の桜は、この南殿と染井吉野がほとんどでした。
それもそのはず、南殿の和名は、「松前早咲(まつまえはやざき)」。まさに松前の桜だったのですね。別名が「血脈桜(けちみゃくざくら)」で、京都から持ち帰られた原木の血脈を有するという意味だそうです。南殿とは、紫宸殿。京都御所の南庭に植栽されていたから。
左近の桜はこの桜であるとも言われて、盆栽でも広く栽培されているようです。
一方、染井吉野の咲き具合は、こんな感じ。
少し葉も出ていますが、どうやら、この松前の地で、ようやく桜前線に追いついたようです。
桜の中の松前城。
こういう写真を撮りたくて、ずっとずっと北上してきたので、感無量です。
(次に行く五稜郭は、いわゆる城ではないので、絵的には、ここがラストチャンスでした。)
松前城は、江戸時代末期、海防強化のため、幕府の命によって、松前藩によって築城されたもの。
以前は、同じ位置に、福山館という藩主の館が建っていた。
函館戦争では、明治元年に土方歳三に攻め落とされたものの、翌年、新政府軍が奪還。
一応、江戸時代の建物なので、「現存天守」になれる可能性はあったが、昭和24(1949)年、火事で焼失してしまったとのこと。
現在の天守は、昭和36(1961)年に再建されたもの。現在、鉄筋コンクリート製天守の老朽化により、木造天守復元計画が立ち上げられているようです。
染井吉野、少し葉桜になってしまっていますね。そういえば、「松前城」という文字の入った写真がなかったな…と思って、ここに入れておきます。
天守閣からの景色です。
本当に海が目の前。桜+海+青空=最高
先ほど、土方歳三により落とされたという書き方をしましたが、そもそも、この松前城は、幕末に、外国船対策として築城されたものなので、旧幕府軍による海上からの攻撃は、見事に撃退しています。
土方軍は、陸路で防衛線を突破、彰義隊を中心とする兵力で松前藩を圧倒、藩兵は、城に火をかけて撤退、この戦闘で、街の3/4が焼失したそうです。
約半年後に政府軍が反転攻勢、明治2(1969)年4月に、松前城は奪還されました。
函館戦争終結後の松前藩は、家臣の俸禄維持のため、城内の銅瓦を売却したり、苦労していたみたいです。
天守は、それほど高くない(三層)うえ、海側しか窓を開けていないので、天守からの写真はこれだけ。
桜の季節は、桜園側の景色も開放してくれると嬉しい気がする。寒いのかな…
こちらの門は、国の重要文化財、本丸御門。天守との2ショット写真が人気とのことで、さっそく私も1枚。
観光客は普通に写真を撮りまくってましたが、写真撮らずに、のんびりと散策している方々は、桜を見に来た地元の方でしょうか
自慢の桜スポットであり、お気に入りの散策コースなんだろうなーと、羨ましく感じました。
(地元に城がないので、こういう風景は、地元では見られない。桜はありますが…。)
海の景色をもう少し。
海の向こうに陸地の影がありますが、
ご覧、あれが竜飛岬でございます。
津軽海峡は、青函トンネルで超えてきてしまったので、こうやって眺めるのは、北海道から…ということになりました。
こちらは、たぶん、染井吉野だと思います。アップ写真、可愛いんですよね。
南殿のおかげで、華やかな城前です。
ここの桜は、立ち入り禁止にして大事に育てられているようです。まだ若い桜を立ち入り禁止区域で育て、大きな木に育てているのだとか。
松前が南殿を大事にしているのがよくわかります。
光善寺白八重桜です。
このお寺に「血脈桜」(松前の南殿すべての原木)があると聞いてやってきて、別の桜にひっかかってしまいました。
そのまま、少し離れた「松前藩屋敷」へ。
武家屋敷を見るんだろうなと思ったら、これが、なんと、テーマパークでした
江戸村みたい
旧幕府軍との戦いの折に、街の多くが焼失してしまったため、当時の武家屋敷などは残っていなくて、往事を知ってもらうために、特徴的な建物を再現し、松前の歴史を知ってもらおうとした施設のようです。
奉行所も、あくまでも松前藩の奉行所の再現、というわけですね。
こういうの、すごく、時代劇に出てきそうな風景。
てか、時代劇の撮影もできそう。(松前まで撮影に来ることができれば…ですが。)
あ、こういう使い方もあるみたいですね。
桜と赤い橋、そして二振りの強き刀。絶好の撮影ポイントですね。
2023年公演ラインアップ(星組) [┣宝塚情報]
現在、お稽古中の大劇場公演「1789」終了後の星組別箱公園が発表された。
2023年 公演ラインアップ【博多座公演】
2023.04.25
2023年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【博多座公演】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。
星組公演
主演・・・水美 舞斗(専科)/暁 千星、舞空 瞳
博多座:2023年10月9日(月・祝)~11月2日(木)
ミュージカル 『ME AND MY GIRL』
Book and Lyrics by L.ARTHUR ROSE and DOUGLAS FURBER Music by NOEL GAY Book revised by STEPHEN FRY Contributions to revisions by MIKE OCKRENT
作詞・脚本:L・アーサー・ローズ&ダグラス・ファーバー
作曲:ノエル・ゲイ、改訂:スティーブン・フライ、改訂協力:マイク・オクレント
脚色:小原 弘稔、脚色・演出:三木 章雄
博多座でのミーマイといえば、2008年に月組で上演されたのが記憶に新しい…と思ったら、15年も前のことなんですね
あの時も、異例の2番手主演だったなーと思いきや、今回は、専科の水美舞斗と星組の暁千星のW主演(役替り)という変則パターン。ひっとんは、別箱2作品連続専科性と組むのね~など、思うところいろいろ…
※なお、星組トップスター礼真琴は、この期間を休養期間とさせていただくことといたしますので、何卒ご理解下さいますようお願い申し上げます。
この一文が、衝撃でした。
宝塚の新しい働き方でしょうか
2023年 公演ラインアップ【宝塚バウホール公演】
2023.04.25
2023年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【宝塚バウホール公演】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。
星組公演
主演・・・天飛 華音
宝塚バウホール:2023年10月18日(水)~10月29日(日)
バウ・ゴシック・ロマンス 『My Last Joke-虚構に生きる-』
作・演出/竹田 悠一郎
華音くん、バウホール初主演ですね、おめでとうございます
楽しみだ~配信でいいから、観たいな~
根城 [┣百名城]
弘前から八戸に行き、百名城のひとつ、根城に向かいました。今回も強行軍でございます。
まず、スタンプをいただきに、八戸市博物館へ。
入口にこちらの銅像。
根城も、北東北の名士、南部一族の城です。銅像になった南部師行は、北畠顕家に従って奥州での南部氏の拠点を確立した人物のようです。
あの、公家将軍・北畠顕家(「桜嵐記」では、夢奈瑠音くんが演じていましたね)ですそして、最期は、北畠顕家と共に泉州石津(堺市)で討死したとのこと。ただ、根城は、その後も南部氏の居城であったそうです。
14世紀から17世紀まで300年間、一度も落城することなく、城としての役目を終えた名城だったとのこと。さあ、どんな城なのでしょうか。
こちらは、旧八戸城東門を移築したものだそうです。伝承によると、もとは根城の門だったものが、八戸城に移築され、安政6(1857)年に強風で倒れた後、家臣の門として建て替えられたものとのこと。
ずいぶん、長い旅をして戻って来たということでしょうか。
堀切のようになっていますが、地図には、記載がなく、現在、この辺りは、公園のような扱いになっている感じです。
(本丸だけ、再現されている。)
でも、もったいないくらい、広くて、気持ちいい場所でした。
この辺は「中館」と呼ばれていたようです。家臣たちが住んでいた場所のようですね。
この時期は「桜祭り」が開催されている時期だったようですが、ここでも桜は既に…果たして、私たちは、桜前線に追いつくことができるのでしょうか
こちらは、中館にあった「東屋」です。
時々、中で、イベントなどを開催しているようです。(八幡馬に絵付けをしたり…みたいな。)
こちらは、「身延の桜」。枝垂桜ですね。
山梨県にある身延山久遠寺の境内に樹齢400年を超える枝垂桜が2本咲いているとのことですが、そこから種子か枝をいただいたのでしょうか。根城の枝垂桜も大樹になるとよいですね。
本丸からは、有料(大人250円)必要になります。
その分、できる限り建物の復原を行っていて、見ごたえがありました。
こちらは、「納屋」。
半地下の竪穴式で、食糧庫になっていたようです。
復原は、とても丁寧に行われている印象です。
井戸の復原です。
こちらは、馬小屋の復原です。(馬の模型もいました)
主殿など、復原できる建物はしっかり復原され、どのような建物だったか不明なものについては、柱位置に木を打ち込んでイメージが分かるようになっていました。
派手さはないけど、誠実で、気持ちの良い施設でした。
石田正宗実装! [┣本・映画・テレビその他エンタメ紹介]
2.5次元舞台だけでなく、ゲームも楽しんでいる「刀剣乱舞」、なんと、石田三成が持っていたことから「石田正宗」と呼ばれる刀が実装されることになりました
三日月宗近を見るためにトーハクに行った時、ちゃんと撮影してました
無事お迎えできますように…
弘前城 [┣百名城]
弘前に一泊して、翌朝、早朝、再び弘前城へ。朝は、駅前にバスも停まっていなかったので、タクシーで弘前城へ。1,000円ちょっとかかったかな。
青空に八重紅枝垂がよく似合います。
さっそく、東門から入場。
空襲を受けなかった弘前城では、多くの施設が現存しています。この東門も重要文化財の指定を受けています。
建物(門や櫓)だけでなく、城内の樹木にもそれは言えるわけで、弘前城内には、樹齢百年を超す古木がいくつも存在していました。特に、平均寿命60年といわれる染井吉野の古木(樹齢百年以上)がたくさんあって、もしかしたら、都会の街路樹になっている染井吉野が60年くらいでバタバタと枯死しているだけで、本当は、けっこう強い木なのではなんて思いました。
こちらの霞桜は、正徳5(1715)年に藩士が苗木を城内に植えたものの1本ということで、樹齢は300年を超えています。
こちらの染井吉野は、明治15(1882)年に旧藩士から寄贈されたもので、現存するソメイヨシノとしては、国内最古級とのこと。弘前公園内には、樹齢百年以上の染井吉野が400本以上立派に花を咲かせているとのこと。少しだけ、花も残ってますね。
こちらは、二の丸東門与力番所。
江戸時代初期に建てられ、江戸時代中期に一度改修されたものと推察されている。
廃藩以降は、取り壊されることもなく放置されていたのを、大正4年頃に曳家移築し、以後、公園管理人宿舎や、作業員詰所として使用していたとか。
現在の建物は、昭和54(1979)年から3年をかけて復元移築したものだそうです。
こちらは、二の丸馬場。
元禄7(1694)年に完成、明治4(1871)年の廃藩まで使用されていたとのこと。
復元整備は、絵図を参考に実施されたとのこと。
馬場は、この二の丸以外にも、本丸、三の丸、四の丸、西の郭、西外の郭、場外にもあったそうです。たくさんの馬がこの弘前城に轡を並べていたんですね。
二の丸辰巳櫓です。南東にあたる辰巳櫓のほか、南西の未申櫓、北東の丑寅櫓が現存しています。
櫓といえば、この弘前城の天守も最初は、「三層櫓」として建設されたものなのだそうです。そもそも、弘前城(当時の名前は高岡城)の天守は、城の完成後15年で焼失(天守の中に火薬が保存されていたため、爆発したと伝わる)してしまったそうで、以後200年、天守のない状態だったのが、文化3(1810)年に、幕府に「本丸内に三層櫓を新築」願いを出して認められ、あくまでも「櫓」の体で作ったのが、現在の天守。
平和な時代に天守や櫓は不要なので、今あるものを取り壊せとは言わないものの、新たに作るのって、なかなか大変だったみたいですね。
こちらは、二の丸大シダレ。
大正3(1914)年というから、宝塚歌劇団が生まれた年に、宮城県人会から寄付されたうちの1本だそうで、写真スポットとして人気だったそうです。
平成23(2011)年の大雪で根元から倒れてしまったそうですが、翌年、主幹の1/3を切除して立て直し、現在も治療中とのこと。
枝垂桜は、八重紅枝垂より早く咲くので、現在は、かなり花が散ってしまっていますが、由緒ある木を見られて、よかったです。
中濠の辺りだと、少し花筏らしいものができています。
石垣、全力で修復中。近くまで寄って見られる足場も作ってくださっていて、手厚いなーと思いました。
こちらも花筏。
こちらの松は、鶴の松と呼ばれているアイグロマツ。老鶴形に仕立てられているそうで、向かいの石垣の巨石「亀の石」と並び称されているとのこと。
亀の石は、こちらでしょうか。
ここから先は「本丸」ということで、入園料(大人320円)がかかるのですが、4月15日~22日の間は、有料時間が午前9時~ということで、それ以前にこの辺りを抜けた場合は、天守内部も含め無料になるということでした。私が行ったの、4月22日だよ、ラッキーすぎんか
弘前城天守。
バックに(左後方)岩木山が写りこんでいるの、見えますか
天守は、石垣修理のため、現在曳家となっていますが、この曳家状態だからこそ、岩木山とのコラボ写真が撮れるみたいです。
(青い空と白い雲を背景に、白い雪をかぶった青い山が写っているので、難易度高いですが、目を凝らして、ぜひぜひご確認ください→もし無理だった場合も、コラボじゃないですが、別途岩木山の写真もありますので、ご安心ください。)
ちなみに、破風や懸魚がついているのは、この位置から見える濠側の「東・南」の面だけで、本丸側の北・西面にはついていません。(前日記事の八重紅枝垂越しの天守をご覧ください。)
こちらの幟の「卍」は、藩主津軽家の家紋ではなく、旗印として使われていたもので、そのまま弘前市の市章になっています。
卍というと、蜂須賀家を思い出してしまいますが、津軽家も使用していたんですね。
さて、櫓のところで書きましたが、現天守は、三層櫓として幕府の許可を受けて新築され、「御三階櫓」と呼称されることになりました。
御三階櫓とはいえ、この時代に天守の新築が許可された理由としては、幕末となり、ロシア船が津軽海峡を航行するようになったため、防備のために必要だということだったようです。
そして、なんだかんだうやむやのうちに、いつの間にか「天守」っていうことになって、今に至っているそうです。まあ、実質天守ですからね、最初から、そのつもりですからね。
その天守に登って撮影した岩木山の写真です。
岩木山を背景に天守前広場に咲き誇る八重紅枝垂、壮観ですね
ちなみに最初の天守が焼失というか、爆発四散した翌年、当時の「高岡城」から「弘前城」に改称されています。この「弘前(ひろさき)」は、かの天海大僧正の命名によるものなのだそうです。
それなら、縁起がよさそう…
もうひとつ岩木山の写真を。
天守の近くにあったこの木は、鬱金ですね。かわいらしい花が咲いています。
これが、天守があった元の場所。実際には石段とかがあって、少し高い位置に置かれているっぽいですね。石垣工事が終われば、曳家から元の場所に戻されるそうです。
こちらの桜は「糸括(いとくくり)」。古くからある品種らしいですが、「手毬」に似ているのか、別名「大手毬」と古い書物に書かれているそうです。
こちらは「雨宿(あまやどり)」。大島桜系の里桜らしいです。でも八重ですね。
こちらは「天の川」。丸みのある花弁が可愛いですね。
弘前城を堪能した後は、弘前駅へ。駅構内にねぷた祭りの山車が飾られていました。
遮光器土偶の山車もあるんだ~
弘前さくらまつり [┣行ってきました!(旅・花・名所・展覧会)]
移動中のバスから見た岩手山。吉村寛一郎さんも絶賛の見事な岩手の景色です。
弘前に移動し、ホテルにチェックイン後、さっそく「さくらまつり」開催中の弘前城に行ってきました。
弘前駅から弘前城までは、普通循環バスが走っているのですが、期間中は、駅から弘前城への直行バスがあって便利でした
外堀に植えられた染井吉野は既に葉桜で、花筏もなかったです
バスを降りると、いきなり満開の八重紅枝垂がお出迎え。これが、象徴的な出合いでした
東門。お城の紹介は別記事でやりたいので、ここはスルーしますね。
愛する陽光様に、こんなところで再びお目にかかれるとは。
もう散り始めですが、逢えてよかった
御車返し(みくるまがえし)。一重と八重の混在した珍しい花(しかも花弁が大きい)で、その確認のために車を返して、もう一度見た故事に因むのだとか。(後水尾天皇があまりの美しさに御車を返して御覧になったとの言い伝えもあり。)
思川(おもいがわ)。こちらは、半八重桜という変わった形状。可憐な薄ピンクです。
気多(けた)の白菊桜。石川県の天然記念物に指定されているそうです。菊桜の中では、大ぶりな気がします。
弘前雪明かり。
白く見えますが、満開時には、もう少しピンクになるようです。
手毬。17世紀には存在を確認されている古い品種だそうです。
横浜緋桜。この時期に満開になるらしく、まとまって咲いている様は、迫力がありました。
こちらは、新宿御苑や大阪城公園にも咲いていた、白妙。
夕暮れの弘前城公園にグラデーションを作っている八重紅枝垂。
そう、染井吉野だけが桜じゃない…ようやく、それを思い出し始めました。
大沢桜。これは京都の大沢池の辺りに咲いていた桜だそうです。
八重紅枝垂、華やかですよね。
新宿御苑でもおなじみの一葉。さすがに、まだ莟が多かったです。
こんなフォトスポットもありました。
八重紅枝垂が主流の中濠では、花筏っぽい雰囲気も…。
楊貴妃は、やはり気品があります。
咲耶姫。園内には、咲耶姫だけでなく衣通姫もあるそうです。そういえば、宝塚には、昔、木花咲耶さん、衣通月子さんという生徒さんがいらっしゃいましたね。
天守です。
天守の周りは、八重紅枝垂が大量に植えられてました。
花影の天守。この向きは、破風がないので、桜が華やかさをプラスしているようです。
てか、むしろ、天守に限って言えば、この時期が大正解なんじゃない(決して負け惜しみではありません)
フォトスポット。
夜のライトアップ。幻想的で素敵なのですが、写真だと、こんな感じ。ちょっと怖いですね。
お城詳細は別記事で。
盛岡城 [┣百名城]
日本百名城をめぐる旅、今年は、東北&北海道の旅となりました。まずは、東北新幹線に乗り、盛岡へ。
盛岡駅で新幹線を降り、駅前に停まっていた循環バス「でんでんむし」号に乗って盛岡城へ。今回の東北旅は、いい感じにバスを楽しめた旅でした。
バス停に到着すると、いきなり、こちらの枝垂桜。これは素晴らしいと気分が上がったのもつかの間、どうやら、盛岡城ご自慢の石垣が、現在大修復中なんだそうです。
石垣好きとしては、とても残念…と思いつつ、気を取り直して少し遠回りをして盛岡城公園に向かうこととなりました。
ぐるりと外堀沿いに回って、看板を発見
園内には、たくさんの池があって、緑も多く、城に興味がなくても、散策を楽しめるつくりになっているようです。
まずは、いつものように、スタンプをいただくため、隣接する「もりおか歴史文化館」へ。
スタンプは、受付兼お土産コーナーの係の方に出していただきます。レジを使用しないため、接客中でも応対可能なようです。御城印希望の場合は、レジ列に並ぶ必要があります。
こちらは、会館庭の桜。八重紅枝垂でしょうか。まだ、蕾も多くて、これから満開の時を迎えるのでしょうね。
東北は枝垂桜が多くて、弘前城でも染井吉野と同じくらいの本数を見かけました。
特に今年は、予想外に染井吉野が早く咲き、通常の花見を期待していた観光客には残念でしたが、その残念さを補って余りある、美しい枝垂桜に各地で癒されました。
庭には、横に長く伸びた古い五葉松の木があり、(上に伸びる方の枝は枯れて切られており、横に伸びた脇枝の方が育ってしまったのでしょうね…)その立派さに、しばらくじっくり鑑賞してしまいました。これ、城と桜の旅行だったはずなのに。
枝が自重を支えきれないので、藤棚のようなもので保護していて、手厚さを感じました。
園内には、もちろん、染井吉野もあったのですが、今年は桜前線が史上最速で北上していて、盛岡の染井吉野は、わずかに咲き残った花が、こんな感じでした。
さて、盛岡城の城主は代々南部氏ですが、奥州南部氏は、南北朝時代から江戸時代まで、北東北の主に太平洋側の広い地域を一族で治めていたそうです。
※「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるくらいの領土。
その城跡は、全部で14あり、御城印を集める「南部お城めぐり」という企画もあるようです。
その南部氏、明治とともに当然藩主ではなくなるのですが、地元の名士ではあり、その42代当主・南部利祥が日露戦争で戦死したことを顕彰する騎馬像が、城内本丸に建立されたとのこと。
こちらが、その台座です。
青銅製の像だったため、太平洋戦争の時に、金属供出となり、現在は大きな台座だけがむなしく残されています。
本丸の景色です。
建物はすべて明治の初めごろに取り壊されているので、広々としています。
天守台はあったのですが、天守は築かれず、代用の櫓が建っていたそうです。(のちに天守と改称。)
本丸の桜(染井吉野)はほぼ散っていて、既に新緑の季節に移行しているのを強く感じました。残念だけど、こればっかりは、自然のなせる業なので。
門の台座とおぼしき部分。(道の両サイドにこれくらいの高さの石垣があった場合、門だった可能性が高いです。)
ここの石は大きめだし、隅石(角の部分)から左は、切込みハギ(巨石をまっすぐに切って、必要なサイズにして重ねる手法。新しい工法)になっていますね。その向こう側は、打ち込みハギ(石を加工しつつも本来のサイズ感を大事にする工法)なので、見栄えを考えて両方の工法を採用している感じですね。
こちらは二の丸の「石川啄木歌碑」。文字は、親交のあった国文学者の金田一京助博士によるものだそうです。
私の幼少の頃は、辞書の編集でおなじみでしたが、今は、金田一くんの「じっちゃん」の名前のモデルと言った方が通りがいいのかな。
「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」
と書いてあるそうです。
不来方(こずかた)城は、盛岡城の前身の城の名とのことですが、一般的に盛岡城の別名と言われているそうなので、啄木もその意味で使っていると思われます。盛岡城は17世紀には完成しているため、啄木が行ったのは、当然、盛岡城のはずなので。
修復中の石垣の石には、お目にかかれました。石を洗って天日干しにしているところだそうです。
大きな石は、こんな風に天日干しにして、ひとつひとつに番号をつけて、再び組み合わされていくようです。
石のつなぎ目に詰めてある小石については、こんな風に山になっていました。いつか、美しく修復された石垣にも会いに来なければ…
※三日月の丸くなるまで南部領 というのは、南部氏の治めていた地域が、東北に三日月状に分布していて、三日月(の端が接近して)円になるようなくらいの領地という意味のようです。いただいたチラシに南部氏の城一覧が載っていたので、「三日月」を作ってみました。
圧巻の南部領ですね
星組退団者… [┣宝塚人事]
星組 退団者のお知らせ
2023.04.19
下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。
星組
音咲 いつき
有沙 瞳
天路 そら
2023年8月27日(星組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団
退団発表はいつも切ないものだけど、思い入れのある上級生の退団は、切なさも一入ですね。
男役・女役両方で活躍したいーちゃん。「阿弖流為」の諸絞、素敵だったなぁ~「モーツァルト」のヨーゼファ、綺麗だったなぁ~パキパキの星娘の中にあって、公演を観に行くたびに、不思議な癒しをくれる、そんな娘役さんでした
雪組→星組で大活躍のくらっち。ヒロイン以上に輝く役どころもたくさん演じていたけど、だからいいよね、というわけではないのが、宝塚。昔は、こういう別格の功労者は、サヨナラショーで報いるということをしていたんだけどなあ…
あまじぃ。みつるくん(華形ひかる)がよくお茶会で名前を出していて、そこで覚えたあまじぃ。でも、星組でサヨナラだったみつるくんの最後の公演で休演しちゃって。
…と、もしかして、三人とも「阿弖流為」組じゃん…