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カンパニーあれこれ(2) [┣公演内容の考察・検証]

「あれこれ」の(1)は、こちらです。
なんか、まだまだ色々出てきてしまった…


[9]原作では、高野悠(美弥るりか)は海外在住というのに、“ショートカットペア”(美人ランナーと美人トレーナーのコンビが珍しかったのか、鈴木舞(美園さくら)がマイマイ、瀬川由衣(海乃美月)がユイユイ、二人そろってショートカットペアといつの間にか言われるようになっていた。舞も由衣を“ユイユイ”と呼んでいる。)を知っていた。そして、マラソンランナーのトレーナーをやっていたキミにダンサーの何が分かるの[exclamation&question]という意味で、最初から由衣を「ユイユイ」と呼ぶ。あんな形で、プロジェクトMAIを解散し、今やリストラ対象になっている由衣には、ユイユイの名はつらいだけだ。
からかうのをやめてからは、名前を呼ばれない日々…それが、ウィーンから帰国する時、「瀬川」と呼ばれる。その時の、原作の由衣の喜びを思うと、「由衣」と呼ばれて喜ぶのは、全然違う…と感じてしまう。


[1][0]高野が突然ウィーンに戻ってしまった時、後を追って、由衣は一人、ウィーンに飛ぶ。原作の青柳誠一は、由衣が飛んでいる間も、日本で寝ずに様々な準備をしてくれる。由衣の宿泊先の手配、高野を説得できた時の帰りの便の手配、そして由衣が空港に降り立った時には、高野の住所とホテルのURLが由衣のスマホに送ってあった。何かあった時のために、有明F&Pの現地駐在員にも連絡してくれたり、さすが総務のベテラン…という細やかな対応。
サラリーマンのカッコよさって、こういうとこじゃないかと思う。だから、由衣に同行してウィーンに来た舞台の青柳誠二(珠城りょう)には、すごーく失望した。


[1][1]盆踊りのフラッシュモブ、あれ、なに[exclamation&question]
フラッシュモブについては、原作の中で、参加者にしつこいくらい注意している。
「これが何よりも大事です。終わったら、即、その場から立ち去ってください。フラッシュモブとは、一瞬きらめく集団という意味です。みんなで踊ってキラッと光ったあとは、何事もなかったように通行人に戻る。そこが一番大事です」
普通の通行人が、突然踊り出す。みんなが注目する中、ものすごいパフォーマンスをして、何事もなく消える。それがフラッシュモブの真髄だ。盆踊りの途中で、灯りを消して、一斉にバッチリコスチュームで決めた集団が現れるとか、どう考えても違うんだけど。


[1][2]「白鳥の湖」の公演は3回。木曜日に初日、一日あけて土曜日、日曜日の3公演だ。初日のネット上での感想を気にして、休演日にバーバリアン側から振付変更の申し出がある。そして、王子役の水上那由多(月城かなと)は土曜日に無事リフトを成功させた。で、最終日の日曜に事故が起きた…というのが、原作の設定だ。
それが、最終日の前に振付変更をして、そのただ一度の公演で失敗するなんて、那由っち、ちょっと可哀想というか…バーバリアン、口だけのダメんずになっちゃうんだけど…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][爆弾]


[1][3]原作では、「白鳥の湖」のあと、高野はさらに高い評価を得て、この作品を「ロットバルト」として海外公演が決まるなど、順風満帆。由衣は会社をやめ、高野には、有明F&Pのプロジェクトの一環で優秀な男性トレーナーが付けられた。まだまだ引退は先のことになりそうだ。
しかし、舞台では、ラストシーンのダンスパーティーで、バレエ団の田中乃亜(憧花ゆりの)が高野に声を掛ける、その言葉をまっすぐに受け取ると、なにやら高野は引退したみたいな雰囲気。そして、ヨーロッパで新しい事業をやるのに由衣を誘う。
高野が引退するってことは、由衣は、彼の引退を伸ばすという目的を果たせなかったということで、そんな由衣を新しい事業のパートナーに選んでもいいの[exclamation&question]っていうより、好きになっただけじゃないの[exclamation&question]
これって、そういう話じゃないと思うんだけどな…
原作では、高野と由衣の間には、何も起こらない。でも、それ以上の素晴らしいシーンがある。ぜひ、原作を読んでほしい。


[1][4]紗良お嬢様(早乙女わかば)や、美波(愛希れいか)など、バレリーナたちは、原作では、みんなとても積極的で、さばさばしている。ライバルが幽霊じゃないので、青柳の元妻にガン飛ばしたりしている。紗良お嬢様は、ハルカチン(高野の幼少時の愛称)に、結婚を迫るのではなく、「遺伝子」を迫る。
優秀な遺伝子は、瑞穂先生が立派なダンサーに育てるし、生物学上の孫の父親なんだから、パパもハルカチンを一生大事にするだろうし、とかあっけらかんと言う紗良は、なんだか可愛い。
実は、そっちの方が、結婚を迫るより印象は悪くなかったりする。私が女性だからかな。


ネットで言われている「孕ませ…」「ファンもアンチも根っこは一緒」とかは、原作にもある台詞なので、そんなに気にならなかったが、主人公の性格や物語の流れ方が、あんまり好きじゃなかった。てか、舞台の青柳さん、わりと苦手かも。


しかし、あの浴衣姿を見ただけで、すべてがチャラになるような気がしている。 そして、「月が綺麗ですね」の台詞。
浴衣と「月が綺麗」で別作品作った方が、石田先生の印象、良かったんじゃないかな…[あせあせ(飛び散る汗)]


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「カンパニー」あれこれ [┣公演内容の考察・検証]

月組公演「カンパニー」、脚本へのバッシングが止まらない。
主にネット上のつぶやきなので、黒髪の貴公子・高野悠(美弥るりか)のように悠々と構えていればいい気もするが、石田先生、無駄に叩かれているような気もして、ちょっと気になっている。


「カンパニー」は原作の小説がある。
書いたのは女性の作家・伊吹有喜だが、主人公の青柳が、奥さんに愛想尽かされた40代半ばのサラリーマンで、会社人間が多く登場するため、非常におっさんくさい雰囲気の作品である。実のところ、宝塚で上演すると決まった翌日に原作本を購入し、半分まで読んだが、そんなに面白くないな…と思って途中で投げ出してしまった。
この手の話(サラリーマンの意に沿わぬ出向と、その先での奮闘記)なら、池井戸潤の方が数倍面白い。
しかし、実際に上演されてからあらためて読むと、これがどういうわけか、数ヶ月放置されて発酵・醸造したかのように面白くなっているからビックリする。
石田先生が物語の交通整理をしてくれたことで、紆余曲折する小説のポイントがハッキリしたのかもしれない。


でも、設定は、原作小説の方が全部味があってよかった、とは思う。というか、ストーリーは同じでも、キャラ設定が変わると、そのストーリに納得性が低くなる…というか。その辺が、塩梅っていうヤツかもしれない。


[1]青柳誠二(珠城りょう)は、「バツ1の40代半ば、しがないサラリーマン」という設定(原作では誠一。バレエ団での愛称は、それゆえにイチさん)だったはずが、なぜか、妻に先立たれた若きイケメンになっていた。珠城が演じる以上、若きイケメンになってしまうのは仕方ないが、妻に先立たれた…という設定は、逆効果だったのではないか、と思った。奥さんと別れている方が、実は、美波(愛希れいか)に惹かれていく過程が自然になるのではないだろうか。
舞台での彼は、亡妻を今でもものすごく愛していて、そんな思い出は美化されるものだから、別の女性に惹かれていくのを1時間半のミュージカルで創るのは難しい。なんだか、唐突な気がした。
それとも、男性である石田先生的には、離婚の方が創りづらいのかな[exclamation&question]


[2]青柳の出向の原因は、「可もなく不可もなくの仕事ぶりと、離婚」という設定が、脇坂専務(光月るう)から由衣(海乃美月)を庇ったことになっていた。合併に当たり、総務や経理のような、両社ともに存在する部門は当然、人がダブつくのでリストラの対象になりやすい。そうすると、やる気のなさそうな人材から、無体な異動=体のいいリストラをすることになる。
これは、時間的な制約上の変更かもしれないと思うが、青柳の成長物語にするためには、ちょっと残念な変更かな、と思う。
最初から、スリを捕まえたり、異動に対する発言も前向きだったり、彼をリストラする意味がわからないだけでなく、「彼が変わる物語」ではなく「彼が周囲を変える物語」になっている。それじゃ、この作品をやる意味さえ、もうないんじゃないだろうか。


[3]鈴木舞(美園さくら)の結婚相手は、イベントで対談したことがあるチャラチャラしたカタカナ職業(インナービューティー・アプロ―チャー)の男だったが、これが、幼馴染のやさしい芸人に変更された。このことで、由衣の「お前が孕ませたんだろうが!」(原作では心の声だけど)の意味が変わってくる。
そもそも、この原作、舞の授かり婚について、それほど肯定的な設定になっていない。
それをそのまま舞台に反映すれば、由衣のあの台詞も、あそこまでいやーな空気の中で言う羽目にはならなかっただろう。もう、ホントに見ててつらいわ…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]リピーターの99%があの台詞が発せられる前から、拒否反応を示す中、絶叫する海乃を思うと涙が出る。が、原作を読んでいる私としては、その99%のうち、90%くらいが、石田先生だからああいう無神経な台詞になっていて、それがイヤ…的な拒否反応に思えて、いや、それ、原作にあるから[exclamation]と、擁護したくなってしまう。
たぶん、石田先生は、この、間内澄人を演じた千海華蘭のキャラも考えて、心優しい幼馴染の芸人にしたんだろうな、と思う。それは石田先生のやさしさなのだと思っている。
でもね、原作の間内は、「有名人の鈴木舞と付き合うオレすげぇ」的なチャラい男だから。出産後の舞が世間から忘れ去られそうになると、復帰のアプローチをするような男だから。舞と二人三脚で頑張って来た由衣にとっては、本当にこの男に舞を任せられるのか…一瞬考えてしまうような相手なのだ。だから、「結婚しますよ」と言われてキレるのだ。
その間内のキャラを変えると、由衣が酷い女になってしまう。
実際、女性の作家であっても、「お前が孕ませたんだろうが!」や、「ナマでやったの?」(「阪急電車」)というあからさまな台詞を書く。そこに至る当然の前提がある時に。原作にあるからと、そのまま使うとこのように火傷することを、石田先生には肝に銘じてほしいと思う。


[4]由衣は、全日本に入れるような実力ではなかったが、小学校の先生が唱えた「努力、情熱、仲間」を信じていた。それが幻想かもしれないと中学で気づき、推薦でバレーの名門校に入った時に確信する。努力に努力を重ね、ようやくレギュラーになった時、練習のし過ぎが原因で故障引退を余儀なくされた。それが彼女のアイデンティティの根源になっている。
全日本のセッター出身では、由衣のキャラが変わってしまう。彼女は世界を見たことになる。それは、鈴木舞や、高野と同じレベルだ。
そこに到達した人の見る世界を由衣は知らない、としなければ。世界を前にした時の心理状況もわからない。そこが重要なのだ。だから、あれだけの情熱で高野の後を追い、彼を知ろうとするのだ。
これ、けっこう大事なことなんだけどな。


[5]水上那由多(月城かなと)は、人気ユニットのバーバリアン・Jのメンバーではなく、下部組織である“スピリット”のメンバーで、この舞台を機にステップアップして、Jメンバー入りを狙っている。また、バーバリアンの事務所も那由多の下剋上を話題にしたくて、ドキュメンタリー撮影班をバレエの稽古場にまで派遣している。
これが原作のリアリティーだ。スピリットは、J事務所でいうところの「ジュニア」みたいなもので、スケジュールも分刻みでなく、ピンで動けるので、舞台出演なども簡単に組める。
忙しいアイドルがバレエの王子様を演じるというのは、無理がある。ヘリコプターを使ったとしても、バーバリアンとしての活動と両立はできない。少なくとも、本番に関しては、他のメンバーが彼一人のために、休演日も含めた4日間、オフになってしまうわけだし。
また、この「白鳥の湖」が3日間の公演なのに休演日を設けているのは、バレエの主役が連日踊れるものではないことに起因している。バレエ全幕に出演することは、それだけのダメージを身体に与えるのだ。
普通は、Wキャストで公演を組むのだが、有明が後援することから、社長令嬢・有明紗良(早乙女わかば)と、有明のCMキャラクターである高野と、イメージソングを歌うバーバリアングループの那由多というトリオを動かせない。それで、3日間の公演なのに休演日を入れて、ギリギリ三人が全公演出演するということにしたのだ。
せっかくバレエをテーマにした舞台なのに、観に来たバレエ関係者が、「ちょっとねー」って思っちゃったら、宝塚も損だし、原作者も損するんじゃないかなぁ。


[7]紗良と青柳は、原作では、あまり面識がない。あくまでも社長令嬢。青柳の妻は、そもそも有明の社員だったが、縁故採用で、その縁故というのが、紗良のおばあちゃん(社長の母)と、彼女の母親が同じフラワーアレンジメント教室に通っていた、というものだった。母が亡くなった後は、妻が通っていて、娘のように可愛がられているので、青柳の悪口をあることないこと吹き込んでおり、それが異動の一因にもなっている。紗良は、バレエ団に出向となった青柳の本当の人柄を知り、それをおばあちゃんにも伝えてくれたが、その程度の付き合いだったりする。
舞台では、青柳の亡妻と親友ということになっているので、「ともちゃん」とか呼んで、青柳がどれだけステキかということを説明する一端を担っている。でも、それ、必要だったかな…[exclamation&question]見れば、青柳さんがステキなのは、わかるんだけど。


[8]敷島版「白鳥の湖」の原型は、敷島瑞穂(京三紗)が、ヨーロッパで活動していた時に、自ら考案し出演した作品。
この作品で、瑞穂先生は、ロットバルトとオディールを踊って人気に。「エリザベート」でトート閣下が一瞬ベールを被ってマリー・ヴェッツェラになる演出みたいなもんですかね。敷島先生、原作では長身の女性だったようです。
でも、このままでは、敷島先生しかやれない「白鳥…」になってしまうので、内容を改変し、当時ケガのため引退を考えていた年下の旦那様にプレゼントした。作品は好評だったのに、旦那様はその直後、自ら命を絶ってしまう。それで瑞穂先生は、この作品を封印してしまった。
この作品におけるロットバルトは、主役以上に主役というか、作品テーマを背負った人物なのだが、やはり、故障を抱えた旦那様にプレゼントしただけのことはあり、出番は少ない。だから、体調に不安のある高野が、この作品の上演とロットバルト役を願ったわけだ。
なんだけど、宝塚版では、この作品で、先生の旦那様がロットバルトとオディールを踊ったという設定になっていて、当然、高野もそれを踊ろうとしている。
もしもーし[exclamation×2]
3幕でオディールのナンバーを踊るくらいなら、王子を踊ってもいいんじゃね[exclamation&question]


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ネモ船長に物申す! [┣公演内容の考察・検証]

「CAPTAIN NEMO」、青年館公演を観て、非常にもやもや。
まだ、ドラマシティ公演が始まっていないので、ネタバレしたくないけど、もうとっても黙っていられないので、書かせてください。


知りたくない方は、以下の「続きを読む」は決してクリックしないでくださいね。


 

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ヘアフォード家のみなさん [┣公演内容の考察・検証]

ヘアフォード家のメンバーとして紹介されるみなさん。

マリア公爵夫人(桜咲彩花/仙名彩世
ジョン卿(芹香斗亜/瀬戸かずや
ジャッキー(柚香光/鳳月杏
ジェラルド(水美舞斗/芹香斗亜
バターズビー卿(高翔みず希
バターズビー夫人(花野じゅりあ
ジャスパー卿(夕霧らい

このうちジョン卿は「古いお友達」という扱いなので一家の人間ではない。

しかし、関係性が紹介されない、バターズビー卿夫人は、「私達1ペニーだってもらえませんわ」と言っているところを見ると、血縁関係があるっぽい。

ジャスパー卿は、まったく謎の存在だ。

それにそもそも、この人たちの身分は、どうなってるの[exclamation&question]

と突然気になり、海外版の舞台HPを探してみた。で、出てきたのがこちらのサイト

マリアはもちろん、ディーン公爵夫人。未亡人と思われる。Duchess of Deneと、定冠詞がついてない(The Duchess…じゃない)のは、もしかしたら、既に息子に嫁がいるのかもしれない。(その場合は、正式なディーン公爵夫人(定冠詞が付く[ひらめき])が、長男の嫁のものになるため。ただ、前公爵の妻は、死ぬまで公爵夫人を名乗ることができる。)
でも、そしたら、ずいぶんなおばあちゃんなのでは[exclamation&question]とも考えられるが、友人のTさまが、「後妻ということもある」と助け船を出してくれました。なるほど[ひらめき]

ジョン卿は、Sir John Tremayneなので、準男爵かナイト爵。これじゃ、そもそも身分違いで、ヘアフォード伯爵令嬢(マリア)とは結婚できない。一族の人間なら、当然もっと上の身分のはずなので、伯爵家の果樹園の近くに住む豪農のジェントルマンの息子だったのかな…などと想像。そして、第一次世界大戦での活躍によってナイト爵に任じられたとか。
ジョン卿とマリアの複雑な恋愛模様は、それだけでひとつのドラマになりそう[黒ハート]

バターズビー卿は、Lord Battersbyなので、侯爵か、伯爵か、子爵か、男爵か、ということになる。
Lordと呼ばれるためには、色々と条件があるのだ。
親族ということは、妻のLady Battersbyが、マリアの妹なのかもしれない。(バターズビー卿自身が前伯爵の息子なら、ビルが見つかるまでの間、仮のヘアフォード伯爵になっているだろうから。)

ジャクリーンは、Lady Jacquelineなので、父親は、公爵か、侯爵か、伯爵か。
マリアの姪という設定だが、両親のどちらがマリアのきょうだいなのかは不明。そもそもは、マリアの娘という設定の公演もある。父親がヘアフォード伯爵の息子なら存命ではない。(バターズビー卿と同じ理由)母親がヘアフォード伯爵の娘なら、父親は存命でも大丈夫。

ジェラルドは、The Hon Jerald Bolingbokeなので、父親は伯爵で、本人は長男じゃないってとこかな。(The Honは、オナラブルという敬称の略で、Lordと呼ばれない身分。LordとHonorableの間には、細かい線引きがある。)
父親がヘアフォード伯爵の息子なら存命ではない。(バターズビー卿と同じ理由)母親がヘアフォード伯爵の娘なら、父親は存命でも大丈夫。

ジャスパー卿も、Sir Jasper Tringなので、準男爵かナイト爵。いったい、この一家にとってどういう関係の人なのか、この人に関しては全然わからない。

あれ、パーチェスターはセドリックじゃないみたいですね。(ここには、ハーバートと書いてある。)

“今日は何の日”
【7月18日】
鎌倉幕府第2代将軍源頼家が、幽閉先の修善寺で殺害される(1204=元久元年)。

跡継ぎ問題でしょうがなかったとはいえ、このことが、将軍が3代で終わる原因になってしまったかな。


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別箱公演のフィナーレナンバー [┣公演内容の考察・検証]

宙組KAAT公演を観劇した。
作品については、別途ゆっくりと感想を述べるとして、フィナーレ・ナンバーについて、感じたことがあったので、その話を書いておきたい。

大劇場本公演は、組子全員が出演するし、ある程度「番手」に忠実な作りになる。まだ正確に序列が決まっていない生徒も学年順においしい役が振られるようになっている。ゆえに、逆になにかあったら「大抜擢」⇒「一気に下剋上」が確定することにもなる。
別箱公演は、もう少し自由な設定ができて、過去にバウ主演している生徒を、別の生徒の主演公演の小さな役で使うこともあったりする。(『風の次郎吉』の柚香光など。)そういう時、一瞬、序列も逆転したように見えたりする。(『風の次郎吉』を例にとると、公演2番手としてポスターに載っていたのは、瀬戸かずやだった。)これはおそらく、別箱公演に関しては、主演以外の序列は意味がない、という定義が裏で動いているからなのだろう。
ヒロインに関しても、トップコンビがそのまま別箱で主演しない限りは、かなり自由。主演者の相手役を模索するという動きが陰で動いていることはあるにせよ、ヒロインを演じたから、即トップ娘役候補になるなんてことは、決してない。

ただし、今現在、その娘役が劇団にどう認識されているか、というバロメータは存在するんだな、と思った。
それは、別箱公演のフィナーレ・ナンバーでの扱いだ。

お芝居の中で、ヒロインではなかったけど、重要な役を演じた娘役。どんなポジションで、どんな衣装で、誰と踊っていたか。
今回、ヒロインではないが重要な役を演じたのは、豊富なヒロイン経験を持つ伶美うららだ。
彼女は、フィナーレ・ナンバーにおいて、他の娘役とは差別化された衣装を一人だけ着用し、主演の真風涼帆と対等に歌い踊る場面を与えられていた。これは、宙組における伶美のポジションの高さを表している。
同じ宙組の昨年のバウホール公演で、難役を見事にものにして喝采を浴びた純矢ちとせは、フィナーレ・ナンバーでは、その他の娘役と同じ衣装で群舞を踊っていた。お芝居の役としての重要さは、あくまでも作品への貢献度であって、通常、ヒロイン以外の娘役は、フィナーレでは「その他大勢」の扱いになる。
だからこそ、このフィナーレでの伶美の破格の扱いは、注目に値する。
かつて、伶美は、「ロバート・キャパ」のフィナーレナンバーで、主演の凰稀かなめとデュエットダンスを踊ったが、衣装は他の娘役と同じもので、群舞の中に紛れてしまう…という扱いを受けた。トップ確定の凰稀のバウ公演での相手役ということで、すわ[exclamation×2]という声もあった中、この扱いは…[爆弾]と思っていると、やはりトップ娘役にはなれなかった。
そんな伶美が、時を経て、これだけの存在になっていることを思うと、感慨深い。
既に研8となった伶美なので、この先のことはわからないが、やはりただものではない、と強く感じる。次回公演でも伶美に注目したい。

一方、ヒロイン役の星風まどか。100期の若手ではあるが、一人だけまったく違う色の衣装を身にまとい、真風と二人きりのデュエットダンスタイムを設けてもらっていることから、トップ娘役としていつでも出動OKと感じた。
星風に関しては、完成度も高いし、あまり待たせない方がいいような気がしている。

“今日は何の日”
【5月22日】
細川護熙が日本新党を結成(1992=平成4年)。

かしちゃんが入団して初めてのお誕生日を迎えた時、こんなことが起きていたんですね。


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やっぱり気になる生田シェイクスピア [┣公演内容の考察・検証]

宙組東京公演「Shakespeare」、出演者の熱演もあって、素晴らしい[exclamation]という声しか聴こえてこない。私のような感想は少数派なんだろうと思いつつ、なんかなー[爆弾]という気持ちは晴れない。
大劇場で観た時の、親子の確執だったり、夫婦の軋轢だったり…のややあっけない解消感は、出演者の演技が深まったことで、それほど気にならなくなったが、サブタイトル「空に満つるは、尽きせぬ言の葉」が、“ホントか[exclamation&question]という印象を受けるところは、いまだ解消しない。だって、脚本が変わっていないんだから[爆弾]
宝塚は、出演者ありきの舞台なので、脚本ありきで語るのは、あんまりメジャーな観劇法ではない。楽しかった、素晴らしかったという感想に水を差すつもりはさらさらなく、まあ、なんつーか、単なるシェイクスピアファンの愚痴なので、お気に召さなかったら、途中でUターンしてくださいませ。

ウィリアム・シェイクスピアの人生を舞台化する―そんな壮大な夢をかなえられるとしたら、どんな脚本を書くだろうか?
シェイクスピアの作品を劇中劇に入れたい!
まず、そう考えるだろう。でも、劇中劇は、そんなにたくさん入らない。芝居の尺の問題もある[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
となると、次に考えるのは、シェイクスピア作品の台詞をできるだけちりばめたい!ということになる。
生田先生も、おそらくそういう思考を辿ったのじゃないかと思う。
そういうわけで、本作品の中にも、著名なシェイクスピア作品の台詞やシチュエーションがちりばめられている。
しかし、ここで、大きな問題が発生する。
生田先生は、シェイクスピア作品が時を越え、400年後の我々の心をも魅了するのは、『彼の言葉(台詞)が特別だから』という定義をしている。私もこれにはまったく同意。シェイクスピアの「言葉」には、力がある[exclamation×2]そして、シェイクスピア自身、自分の「言葉」に相当の自信を持っていたことは疑いがない。
「リチャード三世」「ジュリアス・シーザー」など、膨大な言葉の羅列により、人の心をひっくり返したり、「オセロー」や「冬物語」のように、言葉だけで火のないところに煙を立たせて人を死に追いやったり、「言葉」を操ることで、彼はなんでもやってのける。
シェイクスピアの「言葉」は、無双なのだ。
こんなことは、もちろん、シェイクスピア以外の誰にもなし得ない。

ところが、本作では、シェイクスピアテイストを作品のすみずみに行きわたらせようとするあまり、さまざまな登場人物が芝居の外側でシェイクスピアの台詞を口にする。自分の言葉として[爆弾]
これじゃ、シェイクスピアのすごさが伝わらないよ~[もうやだ~(悲しい顔)]
みんなが、詩人で役者になってる[exclamation]

さらに、せっかくの劇中劇が「言葉」に重きを置いていないため、素晴らしさが伝わりづらい。せめて「ロミオとジュリエット」のバルコニーの場面だけでも、そのまま小田島訳で1分半でいいから突っ走れなかったのか。あのジュリエットの独白だけで、シェイクスピアが400年残った意味がわかるのに、なんだあの省略は![むかっ(怒り)][むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]
まあね、ヒロインでもない純矢ちとせに、そんないい場面与えてる時間はなかったのかもしれない。かといって、史実版でみりおんに長々言わせるんじゃ意味がないし。それじゃ、アンが発案した台詞になっちゃうもんね…。
生田先生の苦悩は、察するに余りあるが、でも、あんな刈り込み方は、同じシェイクスピアファンとして、まったく納得いかないぞ[ちっ(怒った顔)]

まあそもそもシェイクスピア出奔に絡む回想シーンは、現実の過去と芝居がごっちゃになっているので、どっちがどうとも言い難いシーンではあるのだが、それゆえにシェイクスピアの「言葉」の素晴らしさが彼の作品から伝わるチャンスを奪っているように思う。
芝居としては面白いシーンだと思うので、どっちも取りに行くのは難しい、ということだろう。

また、劇中劇もすべてワンシーンで、「言葉」にフィーチャーしてはいないので、女王から反逆罪で死刑を言い渡された時、なぜ、サンサンプトンやエセックスが、自分達の命はともかく、シェイクスピアを殺すことは世界の損失とまで言えるのかが、ここまで提示されたものでは伝わらないのだ。
まあ、とはいえ、よく考えてみれば、ある架空の人物について、その人の才能をあれこれ述べ立てる場面があったとして、そこまでの経緯で彼の天才性がよくわからなかったとしても、そのシーンを見たら、ふーん天才なのね!と素直に思うかもしれないので、この辺も、シェイクスピアを愛する私から、シェイクスピアを愛する生田先生への無理な要望なのかもしれない。
でもね、せっかく没後400年メモリアルなんだから、もっとシェイクスピア作品を「言葉」込みで取り上げてほしかったな~[ふらふら]と思う。ファーストフォリオまで舞台装置にしてるんだから。

ちなみに、生田先生は、プログラムの作者言の中で、シェイクスピア自身を取り上げた先行作品として2本の映画を提示している。「恋に落ちたシェイクスピア」「もうひとりのシェイクスピア」という作品だ。
本作は、「もうひとりのシェイクスピア」に登場する魅力的なエピソードがいくつか採用されているし、「ロミオとジュリエット」の台詞が実体験からきているというプロットは、「恋に落ちたシェイクスピア」と同じ。決して真似しているわけではなく、先行作品へのオマージュなのだろうと思う。
サウサンプトンの見事な金髪は、まさに「もうひとりのシェイクスピア」に登場するヘンリー・リズリーそのもの。この作品では、サウサンプトンとエセックスの反乱から、エセックスの処刑、サウサンプトンの助命が描かれる。そして、生田先生の本作でも、「時の霊」役の(ちがう[あせあせ(飛び散る汗)])リチャード・バーベッジが、その後の二人の運命を説明する。
でも、エリザベス女王の前であんなに可愛くじゃれてた二人が、どうして反乱を起こすのか…少なくともこの芝居の中にはその要因は描かれていないので、それは、とっても蛇足だと思うんだな[爆弾]

と、とりあえず、言いたいことは言えたので、作品の感想は、シェイクスピアの言葉に関する部分には触れないようにしよーっと。

“今日は何の日”
【3月7日】
1948=昭和23年
のこの日、消防組織法が施行されたことから、「消防記念日」となりました。


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「Ernest in Love」で突然の執事萌え? [┣公演内容の考察・検証]

2015年1月に東京国際フォーラムホールCで上演された「Ernest in Love」が、梅田芸術劇場メインホールと中日劇場で再演されることとなった。上演場所は違うが、再演には違いない。こういう“間をあけての再演”の場合、主なキャストを入れ替えることで、観客の「また観ようかな」気分を醸成するという手法が取られるのだが、そもそも、この作品、主要人物以外の“主なキャスト”がほとんどない。そこで、伝家の宝刀“役替り”が導入された。
2番手スター芹香斗亜が演じるアルジャノン役と彼の執事・レイン役を鳳月杏との役替りで、そしてサブヒロインとなるセシリー役を城妃美伶音くり寿の役替りで。その他、物語のキーになるミス・プリズム役に花野じゅりあを持ってくるなど、キャストの入れ替えは思った以上に多かったが、新たに投入された出演者が作品をフレッシュに蘇らせた舞台となった。

で、今回は、役替りで、アルジャノンとレインという大きな役を演じた鳳月から話を始めたい。
昨年の上演時は、一応、花組生ではあったが、月組東京公演が終わったばかりで、アーネスト・次郎吉どちらのチームにも入っていなかった。
そして、異動先の花組は、鳳月が入った公演から、2番手芹香、3番手柚香光…と、下級生がすでに番手スターをガッチリと務めることとなった[バッド(下向き矢印)]と思ったら、突然バウ主演が飛び込んでくる[グッド(上向き矢印)]など、鳳月のジェンヌ人生どっちに転ぶ予定なのか、まったく予想がつかない。
今回の2番手との役替り、そして、次のミーマイ・ジャッキー役、を考えると、本人の努力次第、運次第ということなのかもしれない。

さて、そんな鳳月のレイン役、今回、スター仕様になっている。
当然っちゃー、当然である。鳳月がアルジャノンを演じる時は、2番手スターの芹香がレインを演じる。それなりの役にしなければ、劇団の番手制度って何?ってことになる。
しかし、スター仕様になったといっても、大幅な変更があるわけではない。レインは、アルジャノンの執事であり、物語の解説役である。私は、先に芹香のレインを観たが、そこは、1年間の正2番手経験からか、「執事だけどスター」感満載だった。
で、それ以上、考えてはいなかったのだが、木村先生の細かい演出が、レインのスター性を支えているということが、今回、よくわかった。
常にスポットライトを当てるとか、執拗にセンターを取らせるとか、主要メンバーがいない場面では、レインがスターであることをこれでもか!と印象付ける形になっていた。なるほど[ひらめき]
こうして、スターに格上げされたレイン鳳月がどう演じるか[exclamation&question]というと、見事に執事だった[ぴかぴか(新しい)]

かつて「メイちゃんの執事」というバウ公演が上演された時も、そして腐女子を中心に執事ブームが起きても、NHKの海外ドラマ「ダウントン・アビー」がずっと高視聴率を続けていても、執事が気になったことはなかった[わーい(嬉しい顔)]
しかし、中日劇場からの帰り道、気がついたら、「執事」でネット検索している私[爆弾]
生まれて初めて、「執事」に興味を持った瞬間だった[exclamation×2]
さて、どうして、突然ネット検索なんかしちゃったか、というと、2幕冒頭の場面を観て、突然、

あー、そうか、執事って、恋愛も結婚もできないかもしれないんだなー[もうやだ~(悲しい顔)]

と、ひらめいちゃったから。
2幕で羽目を外したっぽいように、アバンチュールならあり得ても…と。
で、実際どうなんだろう?と気になって、検索しみたわけ。

結果…やっぱり当時の執事の人生は、だいたいそんな感じ。ご主人様第一、結婚して家を構えるなんてありえない…[たらーっ(汗)]

こんなふうに、台詞を越えて勝手に以心伝心しちゃう表現者…というと、私にとっては、大空祐飛さん以来なわけで、前例に従えば、8年後には、ちなつちゃんのところで立ったり座ったりしているかもしれない。それまで在団していることを祈るばかりだ[わーい(嬉しい顔)]

で、がぜん執事に興味が湧いてしまいながら、観劇した「Ernest in Love」。そうすると、こののどかな物語の外側の世界がすごく気になってくる。
そう、ヴィクトリア朝時代のイギリス。
ヴィクトリア女王の葬儀と共に20世紀の幕が開いた(1901年1月22日死去)。これ、覚えやすい英国史の目安です。
ヴィクトリア時代の英国は、大英帝国全盛期。そして、産業革命という変革期でもあった。都市部の人間の貧困のピークとして、フランス革命後のパリと、産業革命後のロンドンが挙げられる。切り裂きジャックが暗躍した時代でもあった。
「Ernest in Love」はそんな時代の物語なのだ。
えー、全然、そんな雰囲気ないじゃん[exclamation]
宝塚での初演から11年…今頃気づくこの現実。
なぜ、そんなことが気になるかといえば、これは、厳密に貴族様たちだけの物語ではないからだ。冒頭には、ロンドンの一般庶民が登場するし、2幕では、カントリーの農民たちが登場する。みんな、バイタリティーに溢れている。
どうやら、産業革命後のロンドンで貧困に喘いでいた人々は、「農村からロンドンへ働きに来た人々」であるらしい。子だくさんだったりして、農村ではよい暮らしができなかった人々が、産業革命後の好景気に期待してロンドンに出稼ぎにやって来る。そして資本家に毟り取られて食うや食わずの生活に陥るが、田舎に帰る金もない…という。
だから、生粋のロンドンっ子だったり、カントリーで優雅に暮らせる農民は、そんなに生活に困っていなかったということなのだろうか。
「Ernest in Love」のすぐ近くにありながら、決して登場しない、そんな現実にも、ちょっとだけ、想像の翼を広げながら、このハッピーな罪のないミュージカルを楽しみたいな…などと思った執事萌え初心者のワタクシなのでした。

今回、「執事」を検索ワードとして、あちこちのぞいた挙句、とってもお世話になったサイトがこちらです。

執事は…というか、貴族やお金持ちのお邸の中で働く男性は、背が高くてハンサムな方がいい、最低170cmはほしいそうです。そして、執事になれば、お仕着せの制服ではなく私服で主人に仕えるとか。ただ、主人との差を明らかにするためにわざと流行おくれの服装をするそうですよ[わーい(嬉しい顔)]

“今日は何の日”
【2月21日】
平清盛の孫であり、高倉天皇の子、言仁親王が践祚、安徳天皇となった(1180=治承4年)。
(←旧暦。新暦では3月18日となる。)

満1歳になったばかりで天皇になり、7歳の誕生日を迎える前に海に沈んだ安徳天皇。そういえば、スタジオライフの及川健さんが安徳天皇役を演じた能舞台を観に行ったことがあったな~。


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享保の改革 [┣公演内容の考察・検証]

ケミ取り法から定免法への変更により、豊作だろうと凶作だろうと一定の年貢を納めることになった。
これは幕府にとって、毎年の予算を一定に組めるという点において有効であるばかりか、お代官様の差配次第なケミ取りは賄賂の温床となり、結果、税が中間蓄財されてしまうという弊害にNOを突きつけたことも大きい。
しかし、農民にとっては、この変更がよくなかった。
お代官様への差配部分はさておくと、これは、定率から定額への変更である。
三日月藩のような、土地の貧しい藩の農民は、もちろん、年貢を納めたら自分達の食べる米がない=餓死するしかない…という悲劇を産むが、もっと多くの米が取れる藩の農民も裕福にはなれなかった。
農民が、年貢を納め、自分達が食べる分を確保したら、余った米はどうするか。売ることになる。
年貢は、藩の武士たちの扶持(給料)になる。農民は、自給自足。残る工商身分の人々は、市場から米を買っていた。
ケミ取り法時代は、豊作の時は年貢も多く取れるので、それらは藩の倉庫に納められ、凶作の時用に備蓄された。
しかし、定免法となると、豊作でも一定量しか年貢に取られないので、残りの米が市場に出る。豊作だからといって工商の人々の人口が突然増えるわけではないので、当然、需要<供給…供給過多となった米の相場は下落するのだ。
というわけで、定免法下では、すべての農民が等しく貧乏になってしまった…らしい。貧しい農民は、凶作でも年貢を納めるため、満足に食事ができない。裕福な農民は、豊作でも米が高く売れないので貯えが遺せない…[爆弾][爆弾][爆弾]
江戸時代の三大改革は、この調子ですべて失敗に終わっている。
そもそも、贅沢を慎む(倹約する)という改革方法なので、幕藩の財政はそれで健全化するかもしれないが、市民の生活は、悪化してしまう。幕府や諸藩は冗費を抑え、その分、商業を活性化させて金回りをよくすればよかったのに[ひらめき]
できなかったんでしょうね、お侍さんは清貧で、商人は羽振りがいいなんて、幕府としては許せなかったんでしょう[ダッシュ(走り出すさま)]
今、日本の学校では、「士農工商」を教えないんだとか。士⇒農⇒工⇒商というカースト制度があったような印象を与えないため、(実際には、士⇒農・工・商という並立関係だったという研究結果がでているとか)だそうですが、こういう政策の失敗を見るにつけ、その原因に「士農工商」は絶対にあったと思うんですよね、私は。そこを教えるためにも、「士農工商」は外しちゃいけないワードだと思う。だいたい、「士農工商」を教えないと、「四民平等」も出てこないじゃん。
こういう改革を考える人の頭の中に(お芝居で言えば清興の中に)、士の次は農、という考え方があるから、まず農業改革に行く。で、工と商を意識しないから、経済が歪む。工・商があるから、貨幣経済が必要なんですよ。武士と農民しかいなかったら、物々交換でも成り立つんだから。でも実際には、この人たちの衣食住には、工・商は不可欠だったはず。家にも住まなきゃならないし、着物も着るでしょ?だけど、そこに目を向けない。だって、「下だから」。カーストではない。越えられない壁はない。でも、「農民の方が商人より上」っていうランクはあった。江戸時代の改革の失敗は、商業軽視が原因で、それは、「士農工商」という考え方に起因する、と、ここで大声で主張したいです。
商業の大切さは、明治時代になってようやく世間の認知するところとなり、日本は近代国家への道を歩み始める。もちろん江戸時代にも、先見の明があった偉い人もいるにはいる。が、なかなか周囲の理解は得られなかったようで…
享保の改革下、尾張藩主の徳川宗春は、商業を重視し、城下を豊かにすることに成功したものの、吉宗に蟄居を命じられてしまったとか。
士農工商というピラミッドで統治することにより、国家の安定化を図った徳川幕府は、その拠所を儒教(朱子学)に求めた。国の安定には役立ったかもしれないが、質素を重んじる儒教精神が、現実を歪めてしまったのかも…。
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ロベスピエール [┣公演内容の考察・検証]

月組公演「1789」には、「ベルサイユのばら」にも登場する人物がたくさん出てくる。

その一人に、ロベスピエール(珠城りょう)がいる。凪七瑠海が演じるカミーユ・デムーランは、「ベルサイユのばら」に登場する架空の人物、ベルナール・シャトレのモデルである、と作者が明言している。
ロベスピエールとデムーランは、ルイ・ル・グラン学院の同級生だったと、「1789」でも語られている。

それを聞いて、主人公のロナン(龍真咲)が、勝手にブルジョワと断定し、責めるのだが…

そんなことない…ロベスピエールは貧乏だったはず…と、私は、ずっと、唇を噛んでいた。

「ベルサイユのばら」において、ベルナールは、ロベスピエールをこう語っている。ちょっと長いが引用させていただく。


ロベスピエールはな わずか6歳のとき 母に死に別れ
そしてすぐに 3人の妹や弟とともに 父親にさえ すてられて しまったんだ

いいか 6歳だぞ! わずか 6歳で
ロベスピエールは 親におきざりにされ……
お…幼い妹や 弟といっしょに 世の中にほうりだされたんだ
あたたかい いたわりも 愛も……
すべてを もぎとられてな!

頭がよかったため 奨学金をうけて ルイ・ル・グラン学院に 入学した彼は
いつも ひとりぽっちで…… ほかの子どものように 両親のやさしい 心づかいさえも うけられず
すりきれた ぼろぼろの服を着て……
お金もなく 外出もせずに……

よろこびといえば 勉強だけだった
はてしないほどの さびしさを 胸に満ちる涙を
マクシミリアン・マリー・イジドル・ド・ロベスピエールの血は とりつかれたように 学問へ 知識へ むけるしかなかった

おまえたちに 分かるか[exclamation&question]
どんなに彼が 孤独だったか
どんなに みすぼらしい ぼろ服が 子ども心に はずかしかったか

親にさえ すてられた 11歳の少年の
すりきれた ぼろ服につつまれた 胸の中に どんな思いが たぎっていたか

おまえら 貴族に わかるか[exclamation&question]


(以上、引用おわり)

私の知っているロベスピエールが、どんなに悲惨な少年時代を送ったか、知っていただきたくて、長々と引用させていただきました。
なお、ベルナールの台詞は、<愛蔵版>を参照しております。

言えよ、ロベスピエール[exclamation]

「勘違いしてるみたいだけど、俺だって相当、貧乏だったんだぜ」

そして、同級生、カミーユ・デムーランだって、公務員の息子で、奨学金をもらって、ルイ・ル・グラン学院に入学している。

みんな苦労している。決して、金持ちのボンボンの「革命ごっこ」ではないのだ。

こんな風に、ロベスピエールの証を立てたくて、胸が苦しくなってしまうのは、恋なのでしょうか[ハートたち(複数ハート)]


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電流の衝撃 [┣公演内容の考察・検証]

その昔、クラッシュギャルズというスターがいた。ダンプ松本がバリバリのヒールだった頃、ベビーフェイスの大スターで、リングで歌も歌ったりしていた。(もう少し上の世代だと、ビューティー・ペアを思い浮かべていただけたらいいんではないかと…)

最近、友人から、そのクラッシュギャルズの一人、長与千種の話を聞いた。

ちこさん、今は何をしているのかな[exclamation&question]と思ったら、なんと、電流爆破マッチに出ていた[あせあせ(飛び散る汗)]

普通プロレスのリングの周囲には3本ロープがめぐらされていて、このロープに相手を振って戻ってきたところをラリアートとか、まあ、そんな技が出てくるのが、普通のプロレス。

しかし、電流爆破デスマッチは、そうではない。ロープの代わりに「有刺鉄線」がめぐらされている。しかも、その有刺鉄線に電流が流されている。触れたら電流が流れる。それだけじゃない。小型の爆薬があちこちに仕掛けられていて、そこに当たると爆発する。

初めてこのタイプのプロレスを見た時、これは、素人でも痛みがわかるな、と思った。
それだけじゃない。リングに近い席なら、爆風を感じる。火花が飛ぶ。痛みはひとごとではない。
この電流爆破というスタイルを確立したのは、大仁田厚。その大仁田が、なんと長与を電流爆破の世界に呼び寄せたらしい。

電流流すなんて、どこかの芝居の拷問かよ…と思ったけど、自ら電流爆破に挑む女もいるのね…[爆弾][爆弾][爆弾]

ちなみに、試合のタイトル、正確には、“ノーロープ有刺鉄線電流爆破~爆破バット&電気イス四面楚歌地獄デスマッチ”だそうで。
爆破バット以下は、想像できません…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]

こちらに関係記事をリンクしてみました。よかったらどうぞ。

ちょっとだけ、電流爆破に挑むY・Oさんを想像してしまいました…いやいや、ポーリナは嫌がってたから…[たらーっ(汗)]


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