和歌山城 [┣百名城]
毎年、12月に一緒に城納めに行く友人と、「今年はどこに行こうか」と9月ごろに話していたら、和歌山に行きたいとか。城というよりは、アドベンチャーワールドに行きたいということだったが、それじゃ、近場の城ではなく、和歌山に行こうと決まり、あたふたと準備して行ってきました。
新幹線で新大阪まで行き、特急くろしおに乗り換え、和歌山へ。旅程としては、まず、和歌山城に行き、その後、白浜温泉で一泊、翌日、アドベンチャーワールドという流れ。
長い鉄道旅の果てにJR和歌山駅に着いたら、階段に歓迎されました。
ありがとうございます
まずは、腹ごなし。
昼からすみません…
まだ電車に乗っただけなのに、いきなりご褒美でいいのだろうかと思いながらも、ほかの選択肢はなく、昼から乾杯となりました。
食事は、和歌山名物…なのかな
醤油ラーメンです。さっぱりとして、めちゃくちゃ美味しかったです。
和歌山って醤油の産地で有名なんですね…全然知らなかった…
写真は、「紀州湯浅吟醸醤油ラーメン」です。吟醸…トッピングで煮卵をチョイスしたのも正解でした
駅に戻り、タクシーで和歌山城に。
タクシーの運転手さんもとても温かく、和歌山城について、歴代城主の話など、色々教えてくれました。写真は、タクシーの車窓から撮影した和歌山城。
運転手さんがシャッターチャンスを教えてくれました。
タクシーで天守の真下につけていただくと、案内人の忍者さんが丁寧に順路を教えてくれました。観光客に優しいとこだなぁ~
まっすぐ天守閣に向かう階段の道をチョイスし、ラーメンパワーで登り切ったのが、ここ。ほんとに真下につくんですね。
こちらが、天守閣入口になります。中は、「撮影禁止」の札がない限り、撮影OKという体になってます。
とはいえ、あちこち眺めるのに忙しくて、なかなかスマホ出せない…
なので、入口付近で撮影したものをこちらにアップしておきます。白虎の像です。
下の方にお金が散らばっているの、わかりますでしょうか
白虎の背中にお金が乗ったらラッキーっていうことらしいです。(乗りづらそう…)
天守閣のてっぺんは望楼になっていて、市内をくまなく眺めることができます。
こちらは、海側ですね。思ったより、海が近い
こちらは、NHKの大河ドラマで使用された襖の虎の絵。寄贈されたみたいですね。
なんだかんだ、どこの城も、NHKの恩恵を受けているんだな~
帰りは、最短ルートではなく、ちょっと遠回りルートで。
上から見ると、ハート型。
いわゆる、映えスポット
お濠。現在は、こちらの側だけ、水を湛えています。
珍しく今回の旅は、一日一目的だったので、お濠を見ながら、ゆっくり過ごす時間もあったりしました。
おかげさまで、この和歌山城で日本百名城は、70城踏破となりました。
もう少し、大事に城を観なきゃいけないですね。
こちらにも虎がいました。和歌山城は、虎伏山という山をベースに築城されているので、「伏した虎」の像がいるのでしょう。
戦前には、「立った」虎の銅像があったそうですが、銅製だったため、供出の憂き目に遭い、二代目の虎は「伏した」石造の虎に。
二の丸庭園から見た天守。
やはり、これくらいの距離があると、天守の大きさがわかりますね。
お天気もよく、気分のいい散策となりました。
こちらは、すでに城外に出て、市役所前の通りから撮影したものです。
二の丸と西の丸を結ぶ「御橋廊下」も一緒に写る唯一のスポットなのだそうです。
御橋廊下は、平成18年に復元されたものだそうです。
和歌山駅までは、市役所前からバスで戻り、そこから「くろしお」に再び乗って、白浜へ。
到着したのは、夜の6時だったんですけど…店がない…
ほぼ唯一やっていた駅近のお店で、ハンバーガーをいただきました。
お店の前では、お好み焼きを売っていて、それもこの店で食べてもよくて…みたいな、自由なお店でしたが、お腹いっぱいいただきました。
美味しかった
満足の和歌山の旅でした。
八王子城 [┣百名城]
東京都にありながら、いまだに訪れていなかった八王子城、満を持して行ってきました
中央線高尾駅で下車、祝日は、八王子城直通のバスが出ているので、そのバスを利用しました。1時間に1本しか出ていないので、時間を調べて行った方がいいです。ただ、八王子駅北口には、ショップ併設の喫茶があって、食事もできるので、助かりました。
高尾駅からバスで15分くらいでしょうか。
降りてすぐのところにガイダンス施設があり、そこで北条氏の歴史などを学びつつ、スタンプを押して、いよいよ、八王子城へ。
え、なんか、山(今頃、気づいたヒト)
この日は、夏のような暑い日。こんな日に山登りですか
若干引きながら、帰りのバスの時間を計算し、山頂の本丸まで行けなくても、時間通りに戻ってこようと決める。
まだ、まったく山に行ってませんが、既にこの時点で、深い濠発見。さすが、北条の城ですね。
八王子城は、小田原征伐の一環として、秀吉軍に攻められ、女子供を含む多くの犠牲者を出した城でもあります。
北条の城は、どこも鉄壁の防御網で、それを秀吉軍は人海戦術で打ち破っていくんですよね。いったいどれだけの兵を犠牲にして戦っていたのか…と思うと、胸が痛みます。
こちらは、川の斜面に作られた「橋を架けるための橋台石垣」の跡とのことです。ここに簡単な木橋を架け、敵が侵入する際には、橋を壊して侵入を防いでいたとか。
こちらは、築城当時の石垣。
400年前に積まれた時と同じ状態とのことです。
素朴な野面積みが素敵ですね。
いつまでも眺めていられます
では、ここから主殿に向かいます。
ご主殿虎口最後の門です。
石畳のようになっているのは、階段状であることも含め、当時のものを正確に復刻したものです。
こちらが、ご主殿になります。
通常の城でいうところの、本丸ですかね。
ちょうどよい広さで、居心地のよい場所でした。
ここに、城主・北条氏照の居館があったとのこと。
発掘作業により、多くの遺構がどんなふうに存在していたかがわかり、それを今度は、訪れる人のために、わかりやすい形で紹介する…大変な作業をされてきたことが伝わるご主殿の様子でした。
こちらは、会所(宴会場みたいな?)部分の景色。
同じ小田原征伐でやられたけど、山中城の方が、戦闘に特化していた感じで、こちらは、まだ城主の安らぎの場、みたいな空気を感じる。
と、ご主殿を散策して、まだ、時間があったので、山頂のホンモノの本丸に行くことに。
すごく暑い日だったので、躊躇はしたのですが…勇気を振り絞って
登山…と言ったら、さすがに盛り過ぎですが、息が…(もちろん、さすがに、ここではマスクを外しました。マスクしてる方は、さすがにいらっしゃらなかった)
そして、登ること20分、とうとう、この光景が。
うわー、絶景
うっそうとした木の間をひたすら歩いていたので、ここで視界が開けた時は、感動で言葉になりませんでした。
前後を行く方達とも、自然に言葉を交わし合い、和気藹々とした登山でした。黙々と登ることも多いので、土地柄なのでしょうか。行き交う時に、自然に挨拶し合うような空気感で…
こちらが、山頂の少し下にある八王子神社。
延喜13(913)年に華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と8人の王子に会ったので、延喜16(916年に八王子権現を祀った…という伝説に基づき、氏照は、八王子権現を城の守護神にしたとのこと。
それが八王子という地名の元になったそうなので、氏照は滅びても、関東に北条の名残は今でも残っているということなんですね。
今は、もう神社としての機能は終わっているとのことです。
さらにひと登りして、ようやく山頂の本丸に到着。
「八王子城本丸址」という石碑がありました。
本丸といっても、山頂のスペースはとても狭くて、ここにある程度のサイズの建物が建っていたとは思えない感じです。
山頂にも祠があり、こちらは、銭函があったので、無事登頂できたお礼を込めて、お賽銭を入れてきました。
下りは一気に降りることができ、帰りの直通バスにも無事乗れて、楽しい小旅行となりました。
五稜郭 [┣百名城]
函館2日目は、もちろん、五稜郭オープンと同時に五稜郭タワーへ。
タワーの上から見ると、五角形の形がよくわかりますね。
(端がちょっと切れてますけど…)
タワーの上に、土方さんがいらっしゃったので、和泉守兼定(極)と2ショット撮影をさせていただきました。
逆光だったので、色味の加工をしております。
日米和親条約によって箱館港が開港したことに伴い、箱館奉行所を設置したものの、地理的に防御に適さなかったことから、箱館湾内から仮に砲撃されても届かない位置に、防御に強い土塁を作って、その中に奉行所を置くことになったーそれが、ここ、五稜郭。五角形の稜堡となったのは、箱館に入港したフランスの軍艦の副館長の指導を受け、箱館奉行所の武田斐三郎の設計によるもの。
すごいですね。
桜+兼さん
似合いすぎる
さて、大政奉還の後、箱館奉行所は、新政府の箱館府として使用されていたが、半年後に榎本武揚率いる旧幕府軍の攻撃を受け、箱館知事が逃走。無人の五稜郭は、旧幕府軍に占領された。
こうして本格的に箱館戦争が始まったが、新政府軍は、各地に大砲を並べて五稜郭を攻撃、奉行所にも命中するなどする中、とうとう幕府軍は降伏することとなった。
そんな悲しい歴史のある五稜郭ですが、ご覧の通り、見渡す限りの桜・桜・桜
ここまでずっと桜を追いかけてきたのは、ここで、この桜に出合うためだったのかもしれない…と、ムネアツになりました
ちなみに、「刀剣乱舞」関係なく、昔から榎本武揚ファンだったもので、そういう意味でも、ここに来れたのは嬉しかったです。
降伏した後、榎本は、投獄されますが、後に第二代総理大臣になる黒田清隆らの除名嘆願もあり、やがて出獄、後に逓信大臣や文部大臣を務め、子爵に叙せられたりしています。
隕石を材料に「流星刀」を鍛刀させたことでも知られているので、いずれ、流星刀が顕現することになった暁には、榎本さんっぽいキャラになるのではないか…と期待しております。
とはいえ、世間的には、土方歳三様人気がすごいので、1階ロビーにも土方さんの像がありました。
五稜郭タワーを降りて、五稜郭本体の方に向かいます。
桜が映える晴天でした。
独立した稜堡なので、橋が架かっているのは3か所だけ。そのひとつを渡って、中へ入っていきます。わくわく
でも、まあ、圧倒的なのは、桜です。五稜郭の桜が見たい、と思っていたのに、来てみたら、桜に圧倒されて、花見に来たみたいな雰囲気になってしまい、城とか歴史的建造物とか、そういう一切のことが、頭から抜け落ちました。
今まで見たことがない、圧倒的な桜でした
あ、ちなみに、オンラインゲーム「刀剣乱舞」をご存じない方へ。和泉守兼定(刀剣男士)の足元にいるのは、「こんのすけ」です。ゲームのナビゲーターみたいな存在です。なんか、撮影時に呼び出してしまったみたいです。
五稜郭のほぼ中央に箱館奉行所があります。ここは、その門に当たる部分です。ここからまだまだ桜の洗礼を受けないと、箱館奉行所に到達しません。
直線的に奉行所に行くのは無理でしたね。桜に誘われふらふらしながら、時の経つのも忘れて、光景に浸っていました。
ようやく、箱館奉行所に到着。
ホンモノは箱館戦争の折に砲撃を受け、敵の砲撃の的になっている(中央に突き出している太鼓櫓がかっこうの標的になっていた…)ことを察知した味方の手によって破壊されたとのこと。
現在の建物は、平成22(2010)年に復元されたもの。
こちらは、箱館奉行所の前に咲いていた「桃」です。
あまりにも桜の洪水だったので、ちょっとホッとしてしまいました。
もう、こんな感じで、いたるところ、桜、それもほぼ染井吉野なので、なにかもう、別世界にいるような感じなのです。
たまに枝垂桜もあったりすますが、ほんとうに「たまに」でした。
いったい誰がこれだけの桜を植えたのか、1600本ほど桜の木があるそうです。
今年の桜の総決算、箱館で満喫しました
城好きとしては、桜に惑わされない季節にもう一度訪れたいな…という気持ちにもなっています。
五稜郭の稜堡の外側(タワーの下の辺りなど)は、この時期だけ、コンロの使用がOKになっているそうで、なぜそんなにコンロが重要なんだろうと思っていたら、皆さん、桜の下でジンギスカンを召し上がっていました。
箱館では、桜とジンギスカンなんですね
松前城 [┣百名城]
根城に行った後、八戸から新幹線に乗り、函館へ。
北海道の終点駅は「新函館北斗」という名前で、一応「函館」の名前は入っているものの、「横浜」と「新横浜」とか、「大阪」と「新大阪」の距離感ではないということを初めて知りました。
うわ…けっこう距離あるな…と思いながら、函館駅へ。
函館本線の0キロポストがあったので、撮影してみました。
で、函館で一泊し、温泉にも入り、翌朝早々、松前城を目指すことになりました。
函館から、木古内駅まで行き、そこから松前城行きのバスに乗る…というコースなのですが、JR北海道の駅は、函館の次の「五稜郭」までで、そこからは、「道南いさりび鉄道」という第三セクターの線になります。
一方、目的地の木古内駅は、北海道新幹線の停車駅になっている…という、脳がこんがらがるような旅路でした。
木古内駅は、新幹線の駅でもあるので、立派なんですよね。そこに間借りするような形で停まっている、道南いさりび鉄道の電車
可愛いですね。車体のぐるぐるマークが、イカ釣り漁の「漁火」を表現しているようです。
道南いさりび鉄道には、一日乗車券というのがあって、函館駅のJRイン(ホテル)のカウンター等で販売していて、木古内との往復だと数百円安くあがるようです。
木古内駅を降りると、駅前がロータリーになっていて、その向かい側に道の駅「みそぎの郷きこない」というのがあります。ここの塩パンが人気のようで、朝からたくさんの人が並んでいました。
松前ではお昼を食べる場所もなさげ…ということだったので、ここで、ブランチ的に軽食をいただき、バスに乗車。
バスはずっと海沿いを進み、目的の「松城」停留所に到着しても、そこは海でした。え、海城なん
分かりやすい案内図があったので、迷わずに城方向へ。
おお、桜が…
これは、「南殿(なでん)」という桜だそうで、松前城の桜は、この南殿と染井吉野がほとんどでした。
それもそのはず、南殿の和名は、「松前早咲(まつまえはやざき)」。まさに松前の桜だったのですね。別名が「血脈桜(けちみゃくざくら)」で、京都から持ち帰られた原木の血脈を有するという意味だそうです。南殿とは、紫宸殿。京都御所の南庭に植栽されていたから。
左近の桜はこの桜であるとも言われて、盆栽でも広く栽培されているようです。
一方、染井吉野の咲き具合は、こんな感じ。
少し葉も出ていますが、どうやら、この松前の地で、ようやく桜前線に追いついたようです。
桜の中の松前城。
こういう写真を撮りたくて、ずっとずっと北上してきたので、感無量です。
(次に行く五稜郭は、いわゆる城ではないので、絵的には、ここがラストチャンスでした。)
松前城は、江戸時代末期、海防強化のため、幕府の命によって、松前藩によって築城されたもの。
以前は、同じ位置に、福山館という藩主の館が建っていた。
函館戦争では、明治元年に土方歳三に攻め落とされたものの、翌年、新政府軍が奪還。
一応、江戸時代の建物なので、「現存天守」になれる可能性はあったが、昭和24(1949)年、火事で焼失してしまったとのこと。
現在の天守は、昭和36(1961)年に再建されたもの。現在、鉄筋コンクリート製天守の老朽化により、木造天守復元計画が立ち上げられているようです。
染井吉野、少し葉桜になってしまっていますね。そういえば、「松前城」という文字の入った写真がなかったな…と思って、ここに入れておきます。
天守閣からの景色です。
本当に海が目の前。桜+海+青空=最高
先ほど、土方歳三により落とされたという書き方をしましたが、そもそも、この松前城は、幕末に、外国船対策として築城されたものなので、旧幕府軍による海上からの攻撃は、見事に撃退しています。
土方軍は、陸路で防衛線を突破、彰義隊を中心とする兵力で松前藩を圧倒、藩兵は、城に火をかけて撤退、この戦闘で、街の3/4が焼失したそうです。
約半年後に政府軍が反転攻勢、明治2(1969)年4月に、松前城は奪還されました。
函館戦争終結後の松前藩は、家臣の俸禄維持のため、城内の銅瓦を売却したり、苦労していたみたいです。
天守は、それほど高くない(三層)うえ、海側しか窓を開けていないので、天守からの写真はこれだけ。
桜の季節は、桜園側の景色も開放してくれると嬉しい気がする。寒いのかな…
こちらの門は、国の重要文化財、本丸御門。天守との2ショット写真が人気とのことで、さっそく私も1枚。
観光客は普通に写真を撮りまくってましたが、写真撮らずに、のんびりと散策している方々は、桜を見に来た地元の方でしょうか
自慢の桜スポットであり、お気に入りの散策コースなんだろうなーと、羨ましく感じました。
(地元に城がないので、こういう風景は、地元では見られない。桜はありますが…。)
海の景色をもう少し。
海の向こうに陸地の影がありますが、
ご覧、あれが竜飛岬でございます。
津軽海峡は、青函トンネルで超えてきてしまったので、こうやって眺めるのは、北海道から…ということになりました。
こちらは、たぶん、染井吉野だと思います。アップ写真、可愛いんですよね。
南殿のおかげで、華やかな城前です。
ここの桜は、立ち入り禁止にして大事に育てられているようです。まだ若い桜を立ち入り禁止区域で育て、大きな木に育てているのだとか。
松前が南殿を大事にしているのがよくわかります。
光善寺白八重桜です。
このお寺に「血脈桜」(松前の南殿すべての原木)があると聞いてやってきて、別の桜にひっかかってしまいました。
そのまま、少し離れた「松前藩屋敷」へ。
武家屋敷を見るんだろうなと思ったら、これが、なんと、テーマパークでした
江戸村みたい
旧幕府軍との戦いの折に、街の多くが焼失してしまったため、当時の武家屋敷などは残っていなくて、往事を知ってもらうために、特徴的な建物を再現し、松前の歴史を知ってもらおうとした施設のようです。
奉行所も、あくまでも松前藩の奉行所の再現、というわけですね。
こういうの、すごく、時代劇に出てきそうな風景。
てか、時代劇の撮影もできそう。(松前まで撮影に来ることができれば…ですが。)
あ、こういう使い方もあるみたいですね。
桜と赤い橋、そして二振りの強き刀。絶好の撮影ポイントですね。
根城 [┣百名城]
弘前から八戸に行き、百名城のひとつ、根城に向かいました。今回も強行軍でございます。
まず、スタンプをいただきに、八戸市博物館へ。
入口にこちらの銅像。
根城も、北東北の名士、南部一族の城です。銅像になった南部師行は、北畠顕家に従って奥州での南部氏の拠点を確立した人物のようです。
あの、公家将軍・北畠顕家(「桜嵐記」では、夢奈瑠音くんが演じていましたね)ですそして、最期は、北畠顕家と共に泉州石津(堺市)で討死したとのこと。ただ、根城は、その後も南部氏の居城であったそうです。
14世紀から17世紀まで300年間、一度も落城することなく、城としての役目を終えた名城だったとのこと。さあ、どんな城なのでしょうか。
こちらは、旧八戸城東門を移築したものだそうです。伝承によると、もとは根城の門だったものが、八戸城に移築され、安政6(1857)年に強風で倒れた後、家臣の門として建て替えられたものとのこと。
ずいぶん、長い旅をして戻って来たということでしょうか。
堀切のようになっていますが、地図には、記載がなく、現在、この辺りは、公園のような扱いになっている感じです。
(本丸だけ、再現されている。)
でも、もったいないくらい、広くて、気持ちいい場所でした。
この辺は「中館」と呼ばれていたようです。家臣たちが住んでいた場所のようですね。
この時期は「桜祭り」が開催されている時期だったようですが、ここでも桜は既に…果たして、私たちは、桜前線に追いつくことができるのでしょうか
こちらは、中館にあった「東屋」です。
時々、中で、イベントなどを開催しているようです。(八幡馬に絵付けをしたり…みたいな。)
こちらは、「身延の桜」。枝垂桜ですね。
山梨県にある身延山久遠寺の境内に樹齢400年を超える枝垂桜が2本咲いているとのことですが、そこから種子か枝をいただいたのでしょうか。根城の枝垂桜も大樹になるとよいですね。
本丸からは、有料(大人250円)必要になります。
その分、できる限り建物の復原を行っていて、見ごたえがありました。
こちらは、「納屋」。
半地下の竪穴式で、食糧庫になっていたようです。
復原は、とても丁寧に行われている印象です。
井戸の復原です。
こちらは、馬小屋の復原です。(馬の模型もいました)
主殿など、復原できる建物はしっかり復原され、どのような建物だったか不明なものについては、柱位置に木を打ち込んでイメージが分かるようになっていました。
派手さはないけど、誠実で、気持ちの良い施設でした。
弘前城 [┣百名城]
弘前に一泊して、翌朝、早朝、再び弘前城へ。朝は、駅前にバスも停まっていなかったので、タクシーで弘前城へ。1,000円ちょっとかかったかな。
青空に八重紅枝垂がよく似合います。
さっそく、東門から入場。
空襲を受けなかった弘前城では、多くの施設が現存しています。この東門も重要文化財の指定を受けています。
建物(門や櫓)だけでなく、城内の樹木にもそれは言えるわけで、弘前城内には、樹齢百年を超す古木がいくつも存在していました。特に、平均寿命60年といわれる染井吉野の古木(樹齢百年以上)がたくさんあって、もしかしたら、都会の街路樹になっている染井吉野が60年くらいでバタバタと枯死しているだけで、本当は、けっこう強い木なのではなんて思いました。
こちらの霞桜は、正徳5(1715)年に藩士が苗木を城内に植えたものの1本ということで、樹齢は300年を超えています。
こちらの染井吉野は、明治15(1882)年に旧藩士から寄贈されたもので、現存するソメイヨシノとしては、国内最古級とのこと。弘前公園内には、樹齢百年以上の染井吉野が400本以上立派に花を咲かせているとのこと。少しだけ、花も残ってますね。
こちらは、二の丸東門与力番所。
江戸時代初期に建てられ、江戸時代中期に一度改修されたものと推察されている。
廃藩以降は、取り壊されることもなく放置されていたのを、大正4年頃に曳家移築し、以後、公園管理人宿舎や、作業員詰所として使用していたとか。
現在の建物は、昭和54(1979)年から3年をかけて復元移築したものだそうです。
こちらは、二の丸馬場。
元禄7(1694)年に完成、明治4(1871)年の廃藩まで使用されていたとのこと。
復元整備は、絵図を参考に実施されたとのこと。
馬場は、この二の丸以外にも、本丸、三の丸、四の丸、西の郭、西外の郭、場外にもあったそうです。たくさんの馬がこの弘前城に轡を並べていたんですね。
二の丸辰巳櫓です。南東にあたる辰巳櫓のほか、南西の未申櫓、北東の丑寅櫓が現存しています。
櫓といえば、この弘前城の天守も最初は、「三層櫓」として建設されたものなのだそうです。そもそも、弘前城(当時の名前は高岡城)の天守は、城の完成後15年で焼失(天守の中に火薬が保存されていたため、爆発したと伝わる)してしまったそうで、以後200年、天守のない状態だったのが、文化3(1810)年に、幕府に「本丸内に三層櫓を新築」願いを出して認められ、あくまでも「櫓」の体で作ったのが、現在の天守。
平和な時代に天守や櫓は不要なので、今あるものを取り壊せとは言わないものの、新たに作るのって、なかなか大変だったみたいですね。
こちらは、二の丸大シダレ。
大正3(1914)年というから、宝塚歌劇団が生まれた年に、宮城県人会から寄付されたうちの1本だそうで、写真スポットとして人気だったそうです。
平成23(2011)年の大雪で根元から倒れてしまったそうですが、翌年、主幹の1/3を切除して立て直し、現在も治療中とのこと。
枝垂桜は、八重紅枝垂より早く咲くので、現在は、かなり花が散ってしまっていますが、由緒ある木を見られて、よかったです。
中濠の辺りだと、少し花筏らしいものができています。
石垣、全力で修復中。近くまで寄って見られる足場も作ってくださっていて、手厚いなーと思いました。
こちらも花筏。
こちらの松は、鶴の松と呼ばれているアイグロマツ。老鶴形に仕立てられているそうで、向かいの石垣の巨石「亀の石」と並び称されているとのこと。
亀の石は、こちらでしょうか。
ここから先は「本丸」ということで、入園料(大人320円)がかかるのですが、4月15日~22日の間は、有料時間が午前9時~ということで、それ以前にこの辺りを抜けた場合は、天守内部も含め無料になるということでした。私が行ったの、4月22日だよ、ラッキーすぎんか
弘前城天守。
バックに(左後方)岩木山が写りこんでいるの、見えますか
天守は、石垣修理のため、現在曳家となっていますが、この曳家状態だからこそ、岩木山とのコラボ写真が撮れるみたいです。
(青い空と白い雲を背景に、白い雪をかぶった青い山が写っているので、難易度高いですが、目を凝らして、ぜひぜひご確認ください→もし無理だった場合も、コラボじゃないですが、別途岩木山の写真もありますので、ご安心ください。)
ちなみに、破風や懸魚がついているのは、この位置から見える濠側の「東・南」の面だけで、本丸側の北・西面にはついていません。(前日記事の八重紅枝垂越しの天守をご覧ください。)
こちらの幟の「卍」は、藩主津軽家の家紋ではなく、旗印として使われていたもので、そのまま弘前市の市章になっています。
卍というと、蜂須賀家を思い出してしまいますが、津軽家も使用していたんですね。
さて、櫓のところで書きましたが、現天守は、三層櫓として幕府の許可を受けて新築され、「御三階櫓」と呼称されることになりました。
御三階櫓とはいえ、この時代に天守の新築が許可された理由としては、幕末となり、ロシア船が津軽海峡を航行するようになったため、防備のために必要だということだったようです。
そして、なんだかんだうやむやのうちに、いつの間にか「天守」っていうことになって、今に至っているそうです。まあ、実質天守ですからね、最初から、そのつもりですからね。
その天守に登って撮影した岩木山の写真です。
岩木山を背景に天守前広場に咲き誇る八重紅枝垂、壮観ですね
ちなみに最初の天守が焼失というか、爆発四散した翌年、当時の「高岡城」から「弘前城」に改称されています。この「弘前(ひろさき)」は、かの天海大僧正の命名によるものなのだそうです。
それなら、縁起がよさそう…
もうひとつ岩木山の写真を。
天守の近くにあったこの木は、鬱金ですね。かわいらしい花が咲いています。
これが、天守があった元の場所。実際には石段とかがあって、少し高い位置に置かれているっぽいですね。石垣工事が終われば、曳家から元の場所に戻されるそうです。
こちらの桜は「糸括(いとくくり)」。古くからある品種らしいですが、「手毬」に似ているのか、別名「大手毬」と古い書物に書かれているそうです。
こちらは「雨宿(あまやどり)」。大島桜系の里桜らしいです。でも八重ですね。
こちらは「天の川」。丸みのある花弁が可愛いですね。
弘前城を堪能した後は、弘前駅へ。駅構内にねぷた祭りの山車が飾られていました。
遮光器土偶の山車もあるんだ~
盛岡城 [┣百名城]
日本百名城をめぐる旅、今年は、東北&北海道の旅となりました。まずは、東北新幹線に乗り、盛岡へ。
盛岡駅で新幹線を降り、駅前に停まっていた循環バス「でんでんむし」号に乗って盛岡城へ。今回の東北旅は、いい感じにバスを楽しめた旅でした。
バス停に到着すると、いきなり、こちらの枝垂桜。これは素晴らしいと気分が上がったのもつかの間、どうやら、盛岡城ご自慢の石垣が、現在大修復中なんだそうです。
石垣好きとしては、とても残念…と思いつつ、気を取り直して少し遠回りをして盛岡城公園に向かうこととなりました。
ぐるりと外堀沿いに回って、看板を発見
園内には、たくさんの池があって、緑も多く、城に興味がなくても、散策を楽しめるつくりになっているようです。
まずは、いつものように、スタンプをいただくため、隣接する「もりおか歴史文化館」へ。
スタンプは、受付兼お土産コーナーの係の方に出していただきます。レジを使用しないため、接客中でも応対可能なようです。御城印希望の場合は、レジ列に並ぶ必要があります。
こちらは、会館庭の桜。八重紅枝垂でしょうか。まだ、蕾も多くて、これから満開の時を迎えるのでしょうね。
東北は枝垂桜が多くて、弘前城でも染井吉野と同じくらいの本数を見かけました。
特に今年は、予想外に染井吉野が早く咲き、通常の花見を期待していた観光客には残念でしたが、その残念さを補って余りある、美しい枝垂桜に各地で癒されました。
庭には、横に長く伸びた古い五葉松の木があり、(上に伸びる方の枝は枯れて切られており、横に伸びた脇枝の方が育ってしまったのでしょうね…)その立派さに、しばらくじっくり鑑賞してしまいました。これ、城と桜の旅行だったはずなのに。
枝が自重を支えきれないので、藤棚のようなもので保護していて、手厚さを感じました。
園内には、もちろん、染井吉野もあったのですが、今年は桜前線が史上最速で北上していて、盛岡の染井吉野は、わずかに咲き残った花が、こんな感じでした。
さて、盛岡城の城主は代々南部氏ですが、奥州南部氏は、南北朝時代から江戸時代まで、北東北の主に太平洋側の広い地域を一族で治めていたそうです。
※「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるくらいの領土。
その城跡は、全部で14あり、御城印を集める「南部お城めぐり」という企画もあるようです。
その南部氏、明治とともに当然藩主ではなくなるのですが、地元の名士ではあり、その42代当主・南部利祥が日露戦争で戦死したことを顕彰する騎馬像が、城内本丸に建立されたとのこと。
こちらが、その台座です。
青銅製の像だったため、太平洋戦争の時に、金属供出となり、現在は大きな台座だけがむなしく残されています。
本丸の景色です。
建物はすべて明治の初めごろに取り壊されているので、広々としています。
天守台はあったのですが、天守は築かれず、代用の櫓が建っていたそうです。(のちに天守と改称。)
本丸の桜(染井吉野)はほぼ散っていて、既に新緑の季節に移行しているのを強く感じました。残念だけど、こればっかりは、自然のなせる業なので。
門の台座とおぼしき部分。(道の両サイドにこれくらいの高さの石垣があった場合、門だった可能性が高いです。)
ここの石は大きめだし、隅石(角の部分)から左は、切込みハギ(巨石をまっすぐに切って、必要なサイズにして重ねる手法。新しい工法)になっていますね。その向こう側は、打ち込みハギ(石を加工しつつも本来のサイズ感を大事にする工法)なので、見栄えを考えて両方の工法を採用している感じですね。
こちらは二の丸の「石川啄木歌碑」。文字は、親交のあった国文学者の金田一京助博士によるものだそうです。
私の幼少の頃は、辞書の編集でおなじみでしたが、今は、金田一くんの「じっちゃん」の名前のモデルと言った方が通りがいいのかな。
「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」
と書いてあるそうです。
不来方(こずかた)城は、盛岡城の前身の城の名とのことですが、一般的に盛岡城の別名と言われているそうなので、啄木もその意味で使っていると思われます。盛岡城は17世紀には完成しているため、啄木が行ったのは、当然、盛岡城のはずなので。
修復中の石垣の石には、お目にかかれました。石を洗って天日干しにしているところだそうです。
大きな石は、こんな風に天日干しにして、ひとつひとつに番号をつけて、再び組み合わされていくようです。
石のつなぎ目に詰めてある小石については、こんな風に山になっていました。いつか、美しく修復された石垣にも会いに来なければ…
※三日月の丸くなるまで南部領 というのは、南部氏の治めていた地域が、東北に三日月状に分布していて、三日月(の端が接近して)円になるようなくらいの領地という意味のようです。いただいたチラシに南部氏の城一覧が載っていたので、「三日月」を作ってみました。
圧巻の南部領ですね
長篠城 [┣百名城]
3年ぶりに2月の名古屋遠征。そのついでに、長篠城に行ってきました。
長篠…というと、歴史の教科書にも登場する「長篠の戦い」(織田信長鉄砲隊三段撃ち)を思い出してしまうが、ここ、長篠城に来て、いわゆる「長篠の戦い」が決した場所は、ここから少し離れた場所にある「設楽原(したらがはら)」なのだそうだ。
長篠城の攻防は、その前哨戦となる。
武田勝頼率いる1万5千の大軍が、500人の守備隊しか擁していない長篠城を取り囲んだ。籠城数日、城内にいた鳥居強右衛門(すねえもん)という武士が、決死の覚悟で城を脱出、岡崎城の家康に援軍を要請した。
その時には、既に織田・徳川連合軍が出陣の準備をしており、3万を超える織田軍が出陣するとあって、安心した鳥居は、朗報を伝えようと、再び長篠城に取って返すが、武田軍に捕らえられてしまう。
援軍は来ないから、籠城をやめて降伏するように、城内に向かって叫ぶように言われた強右衛門だったが、援軍が来るから持ちこたえるように叫んで、処刑される。(磔の刑)
こちらのロッカーに描かれているのが、その、鳥居強右衛門。各所の剛毛がすごい…でも胸毛はないんだなぁ…
こちらは、長篠城の堀。堀の土をかき上げて、「土居(どい)」を作ったとのこと。堀にはかつては水が引き入れられていたようです。
長篠城址・史跡保存館では、百名城のスタンプのほか、上記鳥居強右衛門にまつわる物語や、武具、出土品などがコンパクトに展示されている。
ちなみに、決戦の場、設楽原にも資料館があって、少しお得なセット券も販売されている。
車で訪れた旅行者は、セット券を購入されていたみたい。
こちらは、ご結婚前の香淳皇后(久邇宮良子女王)が記念植樹された松。1918年に植えられた松とのことで、既に切り株になっていました。
ご両親と、設楽原決戦場視察の後、長篠城址を訪れたとのこと。
「長篠城址」の石碑。
後ろに咲き始めの梅の木がありますね。
さて、強右衛門磔後の話。
織田軍3万、徳川軍8千の大軍は、設楽原に陣を作った。これだけの大軍を配置するには、ある程度広い場所が必要だったのでしょうね。
その後、鳶ヶ巣山攻防戦で、酒井忠次らの別動隊が奇襲に成功。背後から武田軍を攻め、長篠城の救援に成功する。
こちらは、土塁。築山みたいですね。この時代(1575年)、城郭史的には、まだ中世なんですね。近世城郭は、信長が天下を取って以降というのがよくわかります。
鳶ヶ巣山奇襲の翌朝、設楽原の戦いが始まる。
8時間に及ぶ戦いの後、1万5千の武田軍には、1万人の犠牲者が出ていたらしい。主力の武将もほとんど討ち死に。
武田勝頼は、この後、高遠城にまで後退、まだまだこの後、滅亡までは紆余曲折あるものの、信玄没してわずか2年後のこの大敗は…歴史って、本当に残酷だな…と思います。
こちら、本丸跡です。
全体的にコンパクトな長篠城でしたが、本丸は、かなり広く、籠城戦を戦い抜けたことも、納得です。
ここ長篠城址は、JR飯田線長篠城駅が最寄り駅。名古屋からは、東海道線豊橋駅で乗り換えるのが一番簡単かな。
ちなみに飯田線は、時間帯によってはワンマン運転で、しかも、途中駅からは、ICカードが利用できません。(いやー、途中から嫌な予感がしたんだけど…)
単線どころか、長篠城駅は、駅でも複線化されてなくて、この列車が行って戻ってくるってことね…と覚悟を決め、帰りの時間を何度も確認し、城に向かいました。
こちら、不忍の滝。
突然、滝の音がして、覗いてみたら…。
自然の浸食により、少しずつ後退してできた滝だそうです。
鳥居強右衛門が処刑されたのは、こちらの川(かなり干上がっていますが…)の対岸とのこと。
忠臣として名を残し、子孫は、城主奥平家の家臣として厚遇されたそうです。
30分ほど時間が余ったので、駐車場そばのお店で遅いランチ。
かつ丼をいただきました。
名古屋遠征で、名古屋メシじゃないものを食べるのは珍しいのですが。食べ終わって駅に戻って、5分くらい待って帰りの電車に乗れたので、かなりよきタイミングのランチでした。
帰り道で見つけた、搦手門跡。ここが搦手門(裏門)だとすると、思っていた以上に大きなお城だったんだな…。駐車場も、お食事処も、保存館も、全部城内だったんだな…
こちらは、武田勝頼が敗走中に、桑の枝を折って箸に使い、それを畑に刺して落ちのびて行ったが、さされた枝が、逆さに芽を出して成長したのが、この木らしい。
樹齢500年近くってことですかね。
そんなに保つとも思えないのですが、一応、そんな伝来があるらしいです。駅の前にありました。
長篠城を守り抜いた城主、奥平貞昌は、家康の長女・亀姫を娶り、家康より大般若長光を賜った。
というわけで、久々に刀剣乱舞お供画像もつけてみました。
金山城 [┣百名城]
今年5月に四国を回った城友とは、毎年、年末頃に近隣の城を訪れている。もう近場の百名城には、だいぶ行ってしまったので、今年は、群馬県にある金山城に行くことにした。
東武伊勢崎線太田駅下車。途中単線になるので、どんなにさびれたとこに行くのと不安になったが、太田駅は、かなり立派なターミナル駅だった。
マスコットキャラクターもいた。
「おおたん」だそうです。
しかし、太田には、おおたんよりずっと先輩のキャラクターがいる。
「新田義貞」さんです。
駅前に銅像がありました。
(右側で跪いているのは、弟の脇屋義助らしいです。)
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しんでいる身としては、その鎌倉幕府にとどめを刺した新田義貞公のルーツの地にたどり着く年の瀬…ということに、なにか、しみじみしたものを感じます。
てか、鎌倉行きたかったな、今年。
四国でもやったように、観光案内にまず行き、「ガイダンス施設」を紹介いただく。ガイダンス施設までは、タクシーで時間短縮。
施設は、隈研吾氏設計の素敵なところで、ここで、金山城の歴史を勉強した。金山城は、15世紀に築城された山城。新田一族の岩松氏によって築城され、明応の乱、享禄の変を経て、横瀬氏(由良氏)が実権を握り、その後、上杉謙信・武田勝頼に攻められても守り切り、難攻不落と言われた。北条氏に城主の由良国繁、弟の長尾顕長(まんばちゃんの作刀を命じた人ですね!)が軟禁され、助命のため開城、やがて、小田原北条氏の支城のひとつへと変遷した。(開城されなかったら、まんばちゃんも生まれなかったのね…)北条氏滅亡に伴い、廃城。明治時代に、本丸跡地に新田神社が創建され、現在に至っている。
城オタクに嬉しいのは、コンパクトな中に、城の機能のすべてが配備されているところ。
こちらは、竪堀。写真だと分かりにくいかもしれないが、エグい堀が作られています。
竪堀の辺りでは、おおっ!とテンション上がったものの、そこからの山道がきつくて、これを見る頃には、あっけなくへばっていました。
情けない…
山城を攻めている時は、さすがにマスクは無理ですね。私は、政府広報が何と言おうとも、基本マスクの民なのですが、さすがに久しぶりにマスクを外しました。
山城、おそるべし。(前回のノーマスク行動は、備中松山城でした。)
そして、これは、さすがに写真でもハッキリと分かる「堀切」です。深い…
堀切とは、尾根伝いに攻め込まれないように、尾根を切ったもの。少し緩やかな斜面は、ほとんど堀切されていました。
さすが、難攻不落。
小田原城の大堀切も見事だったけど、ここもすごいです。まあ、金山城も最終的には北条氏の支城になっているので、北条氏の手がどこまで入っているか不明だが、影響も少しはあるのだろうか…などと思った。
この堀切を見たところで、これまでの疲れが一気に抜けて、再び元気いっぱいになれました。
ここが大手虎口。この先が本丸への道になります。(けっこうこの先も急な坂や階段があった気がするものの、施設も目白押しだったので、そんなにきつかった記憶がない。ゲンキンなものである。)
南曲輪の少し平坦な場所に、カマドの跡が発掘されたらしい。
この辺で、兵が留まることのできる施設があったということなのだろう。
南曲輪付近の景色。段々に石垣が組まれていて、とても美しい。(クリックで拡大します。)
右手前側に、井戸跡もあります。跡…てか、枯れてなかった
さらに進んで、実城(本丸)に近づきます。
こちらは、樹齢800年の大ケヤキ。金山城ができた頃から、この地を見つめていたのですね。
先ほども書いたが、山頂は現在、新田神社となっている。
源氏ということになっている(いち早く源氏であることを表明したため、後に征夷大将軍に任じられることができた!)徳川家康。新田義貞の流れを汲んでいるとしているため、江戸時代、新田氏のルーツである新田金山に寺が作られたり、金山城山頂が新田神社になったりしたらしい。
せっかくなので、新田神社にお参りしてきた。
高松宮様による記念植樹。ここまで登られたのでしょうか
昭和54年だと、もう、70歳を超えていたと思われますが。
新田神社のちょうど後ろ側に、実城(本丸)の石垣があるとのことで、本丸を取り囲む「武者走り」沿いに見学に行く。
関東の城で石垣を使っているところは少ない。その理由としては、石垣に使えるような石がない、ということになるのだが、この付近は例外的によい石が採れたようで、金山城は石垣の宝庫となっている。
このため、関ケ原以降に築城された「西日本の石と技術を使用した」関東の城と、この金山城は、石垣のタイプがまったく違っている。
石の種類や大きさ(ひとつひとつが小さい)、積み方…一番下に「あご石」という、すこし突き出した石を置いて石垣の安定をはかるやり方など、見所がいっぱいあって、ここでもかなり盛り上がった。
いやいや、大満足
さすが、難攻不落の城。現代人の私も、すっかり、落とされました…
帰りは、途中のモータープールまでタクシーを呼び、車で太田駅まで。
その時点でもまだ2時台だったので、登頂記念の乾杯は都内に戻ってから…にして、さっそく電車に乗り込んだ。
途中停車した春日部駅には、しんちゃんが
東武伊勢崎線、群馬県・栃木県・埼玉県にまたがって動いているんですね。
途中、3月に行った足利市駅にも停車したりして、風景が懐かしかったです。金山城主の弟が、足利城主というのも、納得できる位置関係でした。
2022年もたくさんの城に行けました。
次はどんなお城に出合えるかな
備中松山城 [┣百名城]
日本百名城のひとつ、備中松山城に行ってきました
いつものようにぼっち旅行のつもりが、宝塚ファン仲間のT様が、最近城旅に興味を持たれたそうで、急遽一緒に回ることになりました。嬉しい
新幹線で岡山まで行き、岡山から特急やくもに乗ること30分ほど、目的地、備中高梁(びっちゅうたかはし)駅に到着。この字で「タカハシ」ってなかなか読めないし、書けないですよね(笑)
備中高梁駅に到着し、駅前のツタヤ兼図書館の中にある観光案内所で、乗合タクシーの運転手さんと待ち合わせ。今回は、我々を含み3名の参加だった。ここから、20分弱山道を登って、「ふいご峠」というところまでは、車で行くことができます。
とはいえ、途中からトランシーバーを受け取って、行きちがえない山道(ガードレールも一部だけしかない)を登るので、よほどのことがない限り、車で行くのはおすすめしません。乗合タクシーは、前日17時までに予約すればいいし、片道800円とリーズナブルなので、こちらを利用しましょう
ふいご峠(8合目)からは、徒歩になるわけですが、これは、私の登った山城の中で、第一位の急勾配写真なんか撮る余裕もなく、ようやくこの辺から写真のデータがあります。
石垣にテンションが上がり、ぜーぜー言いながらシャッターを押す。
マスク要件が緩和されたこともあり、あまりに苦しかったので、城に入るまでは、マスクを取っていました。呼吸が楽になる~
え、なんですって「真田丸」のオープニング映像にここの景色が使用されている
同じ三谷幸喜脚本の「鎌倉殿の13人」放映時期にここに来たのもなにかの縁に違いないわ。どれどれ…
城に到達しても、歩きづらい道が続く。
でも正面の壁には、狭間があるので、少し元気になった。
狭間の下は、崖のような気がするんですが…狙います本当に敵が想定できるのでしょうか、こんなとこに…。
普通に歩いてても息が上がると思うのですが、曇りとはいえ、とにかく暑くて暑くて…途中で何もかも放り出して逃げ出したい気持ちになりました(笑)
ここを攻め落とした小早川隆景の兵たちを、めちゃくちゃ尊敬してしまった…。
ようやく、櫓が見えてきました
櫓の辺りは平地になるので、歩きも楽になってきます。私たちは兵ではないので、狭間から狙われる恐怖はなく、ひたすら安心歩きながらの会話も弾みます。
ここ、備中松山城は、臥牛山という山の4つの峰に、鎌倉時代から城が築かれていた。おそらく慶長年間までには 天守を備えた近代城郭になっていたと思われる。
江戸時代には、城主の水谷氏が後継者なく家督が途絶えたため、城明け渡しとなり、赤穂藩が城受取りを担当、大石内蔵助が城代として1年半ほど、ここに住んだのだとか。その時、水谷家の家老も内蔵助という名前で、そんな親近感からか、明け渡しもうまくいったのだとか。
まさか、その時は大石内蔵助も、自分が城明け渡しをすることになろうとは、思いもよらなかったでしょうね。
こちらが、NHKドラマ「真田丸」オープニングで使用された場所とのこと。
手前側に石落としが見られますね。
石垣は、野面積みで、それを割るように植物が育っているのが見て取れます。
場所によっては、根を張った植物によって岩が割れ、石垣の崩落が危険視されているとのこと。
こちらが天守閣。
石垣は、大きな岩の上に築かれているようです。
天守自体は大きくないですが、現存12天守のひとつでもあり、冬は雲海に浮かぶ天守を展望台から臨むことができるため、人気の城。
来れてよかった
足元の岩をアップにしてみました。
けっこう植物の力が強そうですね。
この辺は樹木とかではないので、根が石垣を壊すことはなさそうですが。
天守からの景色はこんな感じです。
天守の中は、城の歴史やエピソードが配置され、どれも面白く、勉強になった。あと、天守の中に囲炉裏があるのは珍しいなと思った。
山の上だから、冬は寒いのでしょうか。
こちらは、現・城主のネコチャン。名前は、さんじゅーろー。御城印も普通のもののほかにさんじゅーろー版のものもあるんです
猫好きのT様は、ここでしばらく撮影会してました。
帰りもふいご峠まで乗合タクシーに迎えに来てもらい、備中高梁駅まで送ってもらいました。
下から見ると、こんな山の上に城があるんですよ~
図書館兼ツタヤの眺望ロビーから景色を眺め、ふたたび特急に乗って、今夜の宿泊地、松江に。
よき旅でした。