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「桜嵐記」と「fff」 [┣生徒・演出家・劇団論]

今年、上田久美子先生は、望海風斗と珠城りょう、二人のトップスターのために、ふたつの物語を書いた。「fff」と「桜嵐記」。どちらも歴史上の人物が主人公だが、作品の構成の仕方が正反対で、久美子先生が、色々な作劇を試しているのかな…と興味を持った。


歴史上の人物とはいえ、ベートーヴェンと楠木正行には大きな違いがある。
18世紀の生まれとはいえ、膨大なスコアを残しているベートーヴェンに対して、楠木正行の史料は少ない。また、その人を主人公とした先行作品の存在も膨大なベートーヴェンに対して、正行はほとんどない。


そんな対照的な二人の人物を主人公に、サヨナラ公演というプレッシャーも受けながら、上田先生はどのように作品作りをしたのだろうか。


「fff」はベートーヴェンおよび彼と同時代に生きた人々の人生、そして、彼らが生きた市民の台頭する時代を、一度バラバラのピースにして、再構築したような、観念的な作品に感じられた。ベートーヴェンの人生を一言で言い表そうとした時、誰もが思いつく「不幸」という「概念」を「相手役」に、「不幸」から生まれ「歓喜」を歌う「物語」に昇華する。そこに、観客のカタルシスが生まれる。
ラストがカタルシスに昇華するのは、すべて、望海風斗と真彩希帆という稀代のシンガーコンビが率いる、最高にチームワークの高まった雪組メンバーによる、歌と踊りによる「第九」(歓喜の歌)あればこそ。最後の部分を、出演者と観客に委ね、その力を信じることで、舞台を成功へ導く。上田先生の演出家としての円熟を感じる部分だった。


一方、「桜嵐記」には、観客への疑念が最初にある、と感じた。
冒頭の解説は「太平記」知ってる観客は少ない、という前提に立っている。それも、「聞いたことがある」「大体は知ってるけど細かいことは知らない」というレベルではなく、「太平記、ナニソレおいしいの[exclamation&question]」レベルだと侮っているとしか思えない。
「fff」での絶大な信頼からの手のひら返しがなぜなのか、今の私には、想像することもできないが、そのせいか、なんなのか、「桜嵐記」は、非常にオーソドックスな展開を見せる。
登場人物は、相変わらず、パズルのピースのように配置されているものの、物語の進み方は、体感時間を計算したものになっている。(「fff」は、エピソードのひとつひとつが、ベートーヴェンの生涯の「どこ」に当てはまっているかを、わざと曖昧なものにして、自分より年上の友人の子供が生まれる…という出来事から、自身の死までがほんの数年の出来事のように感じさせることで、彼の生涯に疾走感を与えている。)
登場人物の感情の発露も、十分に間を取って表現され、前回置いて行かれたかもしれない観客を、大事に拾っているのを感じる。
それでいて、一番大事な、「正行がなぜ挙兵したのか」の理由を、出演者と観客に委ねている。
それを観客に委ねて大丈夫だと判断したかのように。
そして、おそらく大丈夫という上田先生の読みは当たったんだろうと思った。そして、その読みは、冒頭の疑念と鏡合わせの位置にあるのだと。


結果的に、私には「fff」が刺さり、「桜嵐記」はそうではなかったが、これは逆の人も多いだろうし、どちらも楽しんだという人もいるだろう。
一人の脚本家の中に、これほど真逆のアイデアが詰まっていることはすごいことだし、今後、上田久美子という作家(演出家)がどう変化していくか、ますます興味津々。


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