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ちょっとだけ古事記5 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

「ちょっとだけ古事記」、ヤマトタケルの後編です。前回記事はこちらです。

さて、倭建命(やまとたけるのみこと)は、尾張の国の造の祖先、美夜受比売(みやずひめ)の家に寄り、すぐにも結婚しようかと思われたが、(この時代、天皇家の方々は一夫多妻です)戦の帰りに婚姻を結ぼうということを誓っただけで、東国へ下った。そこで、山河の荒ぶる神とまつろわぬ人々を平定していった。
相武(相模)の国に至った時、国の造が、
「この野の中に大きな沼があり、その中に住む神が『ちはやぶる』神なのです」
と言った。
倭建命は、それを聞いて野に分け入ったが、国の造は、いきなり野に火をつけた。
騙されたことに気づいた倭建命が、叔母から授かった嚢の口をほどくと、中には火打ちの道具が入っていた。そこでまず、身に帯びた剣で草を刈り払い、火打石で草に火をつけた。(向い火を炊いた)
こうして火を退けた倭建命は、すぐさま戻って国の造を斬り殺し、遺体に火をつけて焼いてしまった。それで、その地を焼遺(やきつ=現・焼津)という。ついでに、この時からこの剣は「草薙の剣」となった。

さらに進んで、走水の海(浦賀水道)を渡った時のこと。
海峡の神が、逆巻く浪を起こし、船は進路を進むことができなくなった。そこで、后である弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が、
「私が、御子の代わりに海の中に入りましょう。御子は、つかわされたその政を成し遂げてください」
と言って、菅畳八重、皮畳八重、キヌ畳八重を敷き、その上に下りて座った。
「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
(相模の野の燃える火の中で私の名を呼んで下さったあなた)
と歌う間もなく、后は波に呑まれた。
すると、波は静まり、船は無事に進むことができた。
七日後、后の櫛が海辺に流れ着いた。倭建命は、その櫛を御陵に葬った。

この時代、「后」という文字は、天皇の妻にしか用いられていないらしい。
倭建命が、古事記の中でいかに重く書かれているかの証明になることだ。

そこから、さらに上って、ことごとく荒ぶる蝦夷を言向け、山河の荒ぶる神を平定して、足柄の坂本に至って食事をとっているときに、白い鹿がやってきたので、それが荒ぶる神だと知った倭建命は、食べ残しの野蒜の片端をとって投げつけ、退治した。
その後、坂の上に立ち、倭建命は、「あづまはや」(わが妻よ)と言った。そのため、その国を「あずま」という。

さらに甲斐に行き、酒折の宮にいらした時、
「新治、筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と倭建命が言ったら、御火焼きの翁が、こう歌い継いだ。
「日々並べて 夜には九夜 日には十日を」(日を重ね、夜は九日、昼は十日を過ぎました)
倭建命は、この老人をたいそう賞めて、すぐに東の国の造の地位を与えた。

信濃の神を言向け、尾張に戻った倭建命は、美夜受比売のもとにお入りになり、ようやく婚姻を結ぶことになった。
倭建命に酒を献った比売の着物の裾には、月のものの血がついていた。
倭建命がそれを歌で指摘すると、比売は、「あなたを待ちかねている間に月のものが来てしまいました」と歌い、月経中でもかまわない、と言う。
そんな美夜受比売の言葉に、倭建命は、彼女と夜を共にし、その枕辺に「草薙の剣」を置いていく。

伊吹山の神を退治するために出発した倭建命は、そこで、白い猪に出会った。
それで「この猪は、山の神の使者だろうから、今殺さなくても、帰る時に殺そう」と言って山に登った。
しかし、その猪は、山の神の使者ではなくて、山の神自身だったから、これを聞いて激しい氷雨を降らせた。
「コトアゲ」とは大声で言い放つこと。ただし、これは神に対しては禁忌であり、また内容が事実と異なるときは、力は逆にはたらいて、みずからが罰を負うのだという。
こうして、倭建命は、氷雨を受けて心身を病み、足ががくがくして(たぎたぎし)動けなくなった。それで、その地を当芸(たぎ)という。岐阜県養老郡あたりの地名である。
さらに出発して、歩いていくが、杖なしでは動けなくなり、三つ重ねの勾り餅のような足になってしまった。そこで、その地を「三重」という。
とうとう能煩野(のぼの)に辿り着いた時、国を偲んで有名な歌を歌う。(鈴鹿山脈の辺りか?)
倭(やまと)は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山籠(やまごも)れる
倭(やまと)しうるはし

しかし病状にわかに悪化し、
「嬢子(をとめ)の 床の辺(とこのべ)に
我が置きし 剣の大刀(つるぎのたち)
その大刀(たち)はや」
と言い終えると同時に亡くなった。
美夜受比売の枕元に置いた、草薙の剣を気にしつつ亡くなったわけだ。

「草薙の剣は、命(みこと)の大切なお命、必ず守るであろう」という歌をアマテラスとヤマトヒメがデュエットしていたが、これは裏から読むと、「草薙の剣が側にない時には命の危険がある」ということだ。
そして、その通りになってしまった。

倭建命の死を聞き、后たち、御子たちは、能煩野まで下向し、御陵を作り、葬儀を行う。
その時、倭建命は、八尋の白智鳥(しろちどり)となって、天に翔り、浜に向って飛んで行った。后や御子はそれを追ったけれど、追いつかなかった。
鳥は、河内の国の志畿(しき)にとどまったので、そこに御陵を作り「白鳥の御陵」と呼んだが、白鳥は、そこからまた天高く飛び去ってしまった。

倭建命は、天皇の子ではあったが、天皇ではない。
子供も当時としては多くない。6人の御子がいる。が、その中から、仲哀天皇が生まれている。
仲哀天皇は、神功皇后の夫で、応神天皇の父であるが、応神が生まれた時には、亡くなっていた。妻と子は有名なのに、ちょっと可哀想な天皇だし、しかも彼は九州の地で不可思議な死を遂げている。
親子二代の悲劇ってことかな?

ちなみに、古事記では、ご覧の通り、白智鳥―白鳥という表現になっている。白鷺というのは、日本書紀の記述のようだ。
ところで、白い鳥になって飛び去ったという伝説を持つのは、ヤマトタケルだけではない。
天智天皇(中大兄皇子)も山科の森から、白鳥になって飛び去ったという伝説がある。宝塚の主人公になる人っていうのは、そういうタイプでなきゃ…ということなのかもしれない。

長い間、お読みいただきありがとうございました。

参考文献はこちらです。(↓)

神と歌の物語―新訳古事記

神と歌の物語―新訳古事記

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 単行本

【去年の今日】

大劇場公演の集合日。「パリの空よりも高く」…すごい作品だったな。


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