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「マジシャンの憂鬱」感想2 [┣宝塚観劇]

「感想1」においては、主に作・演出の正塚晴彦への疑問・問題点を書きなぐった。
この作品を好きな人は、読まないで下さい、と書いたので、読まなかった方も多いと思う。2は、そこまで過激なことは書かないつもりだが、絶賛にはならないと思うので、プラス感想しか読みたくない方は、この辺りでUターンをお願いする。

~・~・~軽く危険地帯~・~・~

「感想1」に足を踏み入れなかった方のために、軽く、今回、正塚作品に私がどういう感想を持ったのかを書いておく。
「マジシャンの憂鬱」は、正塚氏が「自分さがし」をしない主人公を書き始めて2作目の大劇場公演。「自分さがし」をしない主人公は、傲慢なひどい男になっていた。
この作品は、それだけでなく、基本的なプロットが破綻している(皇太子妃が死んだことにして幽閉する理由がない)ので、物語としても楽しめなかった。

簡単に、客観的に書くとそんな内容である。それを罵詈雑言交えて書いたのが「感想1」。
この「感想2」では、それ以外の部分について、触れていきたい。

初見は、祐飛茶ついでに大劇場に行った時だった。
その時、一番ショックを受けたのは、実は大空のグループ芝居的扱いではなく、瀬奈の演技が「パリ空」のアルマンドのままだったこと。
もちろん、観る側のそういう初見の感想は、浅くて、単なる思い込みであることが多い。瀬奈や大空みたいな役者は、台本が来た時、「この役は、あの時のあの役とこの役をミックスしたらできる」みたいに役作りをするタイプには見えない。いつだって、ゼロベースで役作りをする、まあ、ある意味不器用な役者たちだ。
現に、「パリ空」の初見の時、私は大空のジョルジュを、「なんか、ティモシーの若い頃?」と言っていた気がする。同じ役者が演じるから、100%別人には見えないのは当たり前で、以前どこかで見たような部分だけが浮き立ってしまうのは、初見にありがち。
だから、それは初見だけの勘違いで、本当はアルマンドとシャンドールは別の役作りによる、まったくの別人。それは、公演を重ねるうちにわかってきた。
ただ、それと同時に、どうしてアルマンドと思ってしまったか、そのことにも気づいてしまった。
瀬奈にとっては、詐欺師もマジシャンも大きな違いはなかった、ということだ。そして、正塚先生は、それこそが瀬奈の持ち味だと思って、この役を振ったと聞き(ENAKだったかな?)、そりゃ、正塚先生の皮肉か?とまで思った。

今の瀬奈じゅんは、はったりで出来ている

トップとして輝くことは、ある意味、はったりで勝負すること。
オレサマキャラといい、ショーでのエンターテイナーぶりといい、瀬奈のはったりは、かっこいいとも思う。
ただ、芝居の瀬奈は、できればもっと本質的な部分で勝負させたい「あかねさす…」や「ダル・レーク…」で見せた、内面を探るような芝居、「JAZZY…」で見せた真白いやさしさ…。
私は瀬奈のファンではないから、瀬奈のすべてを是とは言えない。
はったりな瀬奈じゅんは、実のところ、痛々しくて見ていられない。
でも、それ自体が、裸になったシャンドールの実体だとしたら…。
そんな風に考えると。
彼はそれを見られまいとして、一生懸命虚勢を張って生きているのかもしれない、とか。だから、不器用な生き方を晒していることに気づきながら、ひたむきに生きることしかできないヴェロニカの痛さを愛したのか?とか、いろいろと想像して(妄想して?)この物語を楽しむこともできた。
でも、やっぱり、シャンドール自体を好きにはなれなかった
それが、瀬奈の誠実さであり、今の瀬奈の限界なのかもしれない。
(瀬奈と春野の持ち味は違うが、春野は、明智のような〝イヤなヤツ〟を演じてなお、観客の心を鷲掴みにする強さがある。そこまでの域を瀬奈で見たいと思う。)

シャンドールは、一流のマジシャン。
彼はクロースアップ・マジックを得意としている。マジックは、人の心理を読み、その逆をつくことで、「不思議」を生み出す。
人の心理を読む、と、人の心を読む。
似ているようで、少し違う。
心理を読むのはマジックのテクニックで、心を読むのは超能力(テレパシー)だ。
透視術というのも超能力だが、また、少し違う。
透視(クレボヤンス)というのは、裏返したカードの表を読んだり、カーテンの後ろの人物を当てたりすること。犯罪捜査では、殺害現場を再現したり、遺体の遺棄場所を当てたり、犯人の居場所を突き止めたりする。
シャンドールは、テクニックとして人の心理を読み、クレボヤンスの代わりに、居候たちが汗を流して捜査する。それがシャンドールの透視術の正体だ。
それで金儲けができる…かどうかは、微妙だが…
(アフリカまで探しに行った経費は、ロラーンド男爵から貰った謝礼で賄えたのだろうか?)
まあ、そういう風にちやほやされるのが、シャンドールは気に入っていたのだと思う。

しかし、そんなはったり人生を誤解したのが、「清く正しく正し~い」&「転ぶ時も前のめり」な女、ヴェロニカ。そして、いつも元気百倍な皇太子、ボルディジャール。
この人たちのパワーはすごい。
なにしろ、うしろめたいことが一つもないから、前へ前へ押してくる。正論しか言わないから、誰も逆らえない。

はったりだったのに、皇太子妃の事故死の謎を探る羽目に陥るシャンドールと仲間たち。
「やばい仕事はお断り」のつもりが、泥沼に足を突っ込んでいく。

その辺りの「間」がすべて、という芝居だった。
酒場でのやり取りは、10数人が入り乱れているのに、短い間でポンポンとセリフが小気味よく交わされていく。誰かがちょっとでもタイミングをずらしたら、そこで止まってしまうくらい、微妙な間。それが、千秋楽に向って、さらにスピーディーに、気持ちよく決まっていく
そういう演出力は、正塚先生、さすが、と思えるものだ。

しかし、それだけ高度な舞台技術を必要とする芝居、しかも主な登場人物が限られている…となると、そこへは技量のある上級生しか当てはめることができないあの5人組が、組長・副組長を含む幹部たちを中心に構成されていたのも、仕方のないことなのかもしれない。
でも、既にうまい人たちと、主役だけの芝居…それは、大劇場公演としては、少し淋しいもののように思える。それが一般の演劇ファンと宝塚ファンの違いではないだろうか?
宝塚ファンは、うまい芝居だけでは満足しない。
うまい上級生と、旬の主演者と、伸び盛りの若手を楽しんで初めて、「いいものを観た」と思う。

それゆえに、この作品は、私の中で「いい作品」にはならなかった。一応、うまい上級生を楽しめたから、プロットがもっといい出来だったら、「いい作品」と呼んでもよかったかもしれないが。
あ、この書き方だと、主演者(主演コンビ)にも文句があるって読めますよね?
主演者のせいというよりは、この主演コンビにこういう役と演技を与えた作者に、私は失望している

っていうところは、また後日…
今度こそ地雷だ…

【去年の今日】
星組公演千秋楽の続き。
とてもいい千秋楽だったけど、私は絶望の中にいた。
それを思えば、ケロさんがどこにいて、なにをしているか、いつもわかっている今って、すごく幸せだな、と思う。とりあえず、年末のショーも観られるし。


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