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間尺に合わない物語 [┣公演内容の考察・検証]

“滝の白糸”は、泉鏡花の著作、「義血侠血」のヒロインである水島友の水芸人としての芸名。
なんと小説が出た翌年には、川上音二郎により舞台化され、それ以来、芝居(主に新派)・映画では「滝の白糸」のタイトルが使われている。

この原作からして実に間尺に合わない物語なのだ。
女芸人、水島友は、お金がないために学問の道に進めない青年、村越に出会い、この法律を学びたいと言う見ず知らずの青年のために仕送りをすることになる。ところがその仕送り期間も最後になって、送るはずの金を強盗に奪われ、魔がさした水島は、自らも強盗殺人を犯してしまう。
現場に残された遺留品から、水島から金を奪った男が強盗殺人犯として捕まるが、彼が雇った弁護人が事件の真相に気づき、参考人として水島は金沢裁判所に呼ばれることになる。男か水島か、どちらが犯人か、という緊迫した裁判に、なんと検察官代理として村越が現れ、彼に諭されて水島は真実を告白する。
その結果、水島には死刑が言い渡され、その判決の夜、村越も自殺する。

相手が検察官代理になれるんだったら、そもそも仕送りいらないんでは?と思ったアナタ、そうなんです[exclamation×2]この二人、手紙のやり取りをしていたのに、肝心のお金の話をしてないので、いつまで、いくら必要なのかっていうことが、友にはわからなかったわけです。
だから、いらないお金を必死で前借りし、いらないお金のために人殺しまでしてしまった…という…[もうやだ~(悲しい顔)][もうやだ~(悲しい顔)]

新派の芝居では、もう少しドラマチックにするため、水島友が法廷で罪を告白した後、舌を噛んで自殺、その後を追うように、村越がピストル自殺するという派手な展開になっている。

「唐版 滝の白糸」は、そもそもヒロインが水芸人であること以外、「義血侠血」とも「滝の白糸」とも共通点はない。
ただ、間尺に合わないという共通点はある。

そもそも現在懐に十万円を持っている銀メガネは、芸の対価としてその金を出そうなんていう神経の持ち主ではない。そもそも、水芸の途中で彼は出奔してしまっている。
対価が得られない状況で、芸を続ける意味はない。
まして、水がないなら、代わりに血を…って、もう、意味不明[爆弾][爆弾][爆弾]

その間尺に合わない―というのが、まさに演劇的なのだ、と思う。
そもそも、間尺に合うとか、損得勘定をする“理性”の部分を超えたところで見せるものが“芸”。
始めてしまった芸は、途中では止められない。
水が止まっても、観客がいなくても、始まった芸は最後までやり通す。
それは理性ではなく、狂気にまでのぼりつめた、なにか。そのなにかが、アリダを飛び越えて客席を包む。

間尺に合わないからこその迸るなにか、そのエネルギーを見せるために、シアター・コクーンなのに、ラストシーンは、今回、あえて閉鎖空間なのだと思う。エネルギーが拡散しないように。

ところで、「ワルキューレの騎行」のBGMに乗せてずっと機関銃や爆撃音が響いているのだが、それを観ながら、泉鏡花作の芝居『天守物語』をStudio Lifeで観たことを思い出した。あのラストシーンも、唐突に銃撃戦で終わっていたっけ。
この「ワルキューレ…」を使用する版は、初演と同じだそうで、もしかして、ライフの倉田淳氏も、初演の「唐版 滝の白糸」を観ていたのかもしれないなぁ~などと思った。小池先生も観ていたそうだし[わーい(嬉しい顔)]

初日を観た限りでは、侠気の女・お甲だったけれど、次は、大空祐飛の狂気を観たいぞ。


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shari

そうなんです、小池先生が30年以上まえの撮影所での初演を、二階席から転がり落ちそうになりながらみていたというのがすごい!どんだけマニアなんだろこの人(^^;;
by shari (2013-10-14 12:07) 

夜野愉美

shariさま
コメントありがとうございます。
その当時、蜷川幸雄が唐十郎と組むというのは、それ位重大な事件だったらしいですよ。
リアルにあの時代の演劇を知らない…というのが、悔しいですね。
by 夜野愉美 (2013-10-14 23:07) 

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