SSブログ

女ってこわい [┣公演内容の考察・検証]

テレビドラマは、女性が主人公であるものが多い。
そして、主人公の心理は綿密に描かれるものなので、ヒロインを怖いと思うことはない。
しかし、この「美しき生涯」は、宝塚なので、男性を主人公にしている。
ヒロインの姿は、基本的に主人公の目線から描かれる。だから、何を考えているのか、分かりにくい。
心理が分からずに行動だけ見ていると、
「女ってこわい」
と思ってしまう。
いやー、自分も同じ女なんだけど、私の中には、こういう部分が全くないので、余計に…

茶々という女性は、基本的に、思ったことを口にする分かりやすい性格だと思う。
それが、秀吉の側室になった途端、思いを口にする場面がなくなってしまう。
思いを口にしないのに、出てくる事象は、三成の子を秀吉の子として産み、子を産んだことで、秀吉を懐柔している、とか、若さで秀吉の精気を全部吸い取っているとか、疾風のそそのかしを否定しつつ、ナレーションの歌ではやっぱりその後、秀次が切腹になっている、とか。
こわい、こわいわ、この人、何を望んでいるの?
無骨な三成が、やってることがどうかは別にして、考えることは単純で分かりやすいのとは対照的。

なんでそんなに分からないのか、というと、そうやった上で茶々が求めているもの…目的が分からないから、なのではないかと思う。
茶々の願いは、ひとつ、のはず。
三成と一緒になりたい[黒ハート]
でもその願いは叶わない。だったら、どうしたいのか?
茶々に野望(政治的野心)はない…はず。
では、なんのために彼女は、こんなギリギリのゲームを続けているのか。最後には、最愛の三成を切り捨ててまで。
(二人の愛の証である)秀頼を生かすためか?というと、ラストで秀頼と淀(茶々)が自害することが語られる。生き抜くことを第一に考えるなら、淀と秀頼親子の生き方は、愚かだと言わざるを得ない。

何が目的かわからない…
それは対策の立てようがないことでもあり、だから、恐ろしい。
そして、歴史上の人物を眺めるに、女性の方に「何が目的かわからない」人物が集中する、ということは、たしかにある。
権力欲とか上昇志向のない女性は、行き当たりばったりで、大切な決断をしてしまう、ということもなくはない。それが歴史をある意味、面白く彩っている部分はあると思う。

でも、宝塚なんだから、「ヒロインがこわい」ってのは避けようよ[爆弾]

でも、もしかして、同じ女性の演出家であれば、茶々の内面をもう少し演出できていたかしら?あるいは、わからないことは、「なんでですか?」って大石先生にちゃんと聞いてくれたかしら?


nice!(1)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

nice! 1

コメント 6

r

こんにちは
この記事を読んで、子供がいない観客には茶々の行動はわかりにくいのかなあと思いました。
茶々の願いは三成とこの世で一緒になれないと悟ってから変わっているのですよ。
一緒になれない三成の子を守り抜くことが目的になってますよね。特に一人死なせているだけに必死なっていて、そのためには秀吉も懐柔するし、子供の命と引き換えならば三成さえ切るのです。女性というよりは母親は子供のためならば鬼にでも蛇にでもなれるのです。
そんな必死の努力も狸親父の執要な攻撃に陥落する悲劇は歴史が物語っているような気がします。私はむしろ歴史的悪女として書かれることが多い茶々をここまで女であり母として書いてくれた大石先生に歓心しましたね。
でも、観客の多く?がうら若き女性たちである舞台で暗黙の了解が多い話はちょっとつらいのかもしれないですね。
でも、祐飛さんって暗黙の了解が多い話が多いですよね(笑)。
by r (2011-06-23 12:58) 

夜野愉美

r さま
コメントありがとうございます♪
「子供の命と引き換えならば、三成さえ切る」ってかっこいいですね。「願いが変わっている」というのも目からウロコでした。

母が子に対する思い…というのは、うら若き女性であっても、若くないけど母親ではない女性でも、男性でも、理解できると思います。観念として。
その域まで達していれば、母ものは、観客の涙を誘うことができる作品になります。母になれる人は全人類の50%以下ですが、みんな母を持って生まれてきたのですから。
そういう意味では、「母」だけで茶々の行動を紐解くのは、説明不足かな?と思いました。ま、私の好きな母もの、「国境のない地図」のラストシーンとかだったりしますけど。(ベタだな)

史実の秀吉と茶々の行動を見ていると、なんだかんだ言って、秀頼は秀吉の間違いなく実子だったのだろうな、と思います。そうだとしても、三成は命懸けで茶々と秀頼を守ったでしょうね。
by 夜野愉美 (2011-06-23 20:54) 

r

>「願いが変わっている」というのも目からウロコでした。
わかりにくいですかね?
銀橋ですみかちゃんがソロで歌う時の愛は三成との愛じゃなくて、子供への愛なんだと思うのですよね。最後の許せ三成と彼を切り捨ててみせるのですが・・・
いざ三成を失うことに直面すると子供への愛は三成への愛が前提であることに気付いて愕然とする。そんな愚かな女としての心と母としての心の間でうつろう様が牢獄のシーンで感じられてよかったと思います。
三成の言葉に従って必死で生き抜いた茶々を、言葉に縛られた愚かな女とみるか初志貫徹した潔い生き方ととらえるかで感想も変わってくるかもしれないですね。

by r (2011-06-24 12:40) 

夜野愉美

r さま
再びのコメント、ありがとうございます。

>銀橋ですみかちゃんがソロで歌う時の愛は三成との愛じゃなくて、子供への愛なんだと思うのですよね。

もちろん、それはそうなのですが、「三成と幸せになりたい」という願いが、「子供を守りぬきたい」という願いに、すぱーん!と上書きされている…という発想がありませんでした。
そうです。女性は、ドラスティックな決断を下せる生き物でした!
そして、私は何度も大石先生のテレビドラマを見て、そのことに共感していたのでした。どうも宝塚を見る時、私の目には、実人生とは違ったフィルターをかけているようです。
そこが大石先生の脚本と自分の違和感なのかもしれません。

牢での三成と茶々との最後の逢瀬は、大好きな場面ですし、そこでの二人の演技は本当に感動的です。
でも、「生き抜くことが愛」だと教わったのであれば、三成との子である秀頼を何が何でも主君として尊敬しろ!と時代が変わっているにも関わらず、征夷大将軍とその父親(家康)に対して言い続ける茶々の最期と繋がってないなーと思って。

「愛する人の子を産み、育てたい」という願いを押し殺してまで産んだ秀吉の子だからこそ、何が何でも認めてもらわなければ!自分のはらってきた犠牲の大きさと釣り合わない。
秀頼が、三成や大野治長や片桐且元の子だとかいうデマを流されて傷ついたからこそ、依怙地になった、というのなら、納得できるんですけどね。
物語が三成の死で終わったのであれば、そこまで考えなかったのですが、あのラストシーンを見ると、その後の茶々(梨花さん@「野風の笛」)が浮かんでしまって…。
わからない、こわい、と言っても、全然わからないわけではないんですけどね、やっぱり、なんか引っかかるという感じです。
by 夜野愉美 (2011-06-24 22:06) 

r

こんにちは
子供を守りたい思いで段々周りが見えなくなってたのかもね、三成のように道を示してくれる人いなくなって。三成も段々自分の道を狭めているように思えますしね。
ここでつぶやくことではないですが、秀頼が三成の子かもってシチュエーションが受け入れがたいみたいですね(笑)。
わたしとかフィクションなんでしょ?そういうシチュエーションなんだー、ふーんって感じで受け入れちゃうんですけどね(笑)
きっと夜野さんはまじめで色々引っかかっちゃうんでしょうね。
by r (2011-06-28 12:55) 

夜野愉美

r さま
「子供を守る」ことが第一なら、子供の命が助かる方法を一番に考えると思うんですよね。そして、子を持つ母が第一義的に考えるのがコレなはずです。
でも、茶々はそれよりも優先順位の高いことを持っている。それは、茶々の生まれに由来するのかもしれないし、育った環境に由来するのかもしれない。何を優先するかっていうことは、その人のこれまでの人生が出る大事な部分なのです。
舞台はたった2時間弱ですべてを表現しますから、いい人でも、悪い人でも、その人の「人となり」が見えないと嘘っぽくなります。
ちゃんとした脚本が書かれていても、その場その場の感情100%で演技をしている俳優がいるだけで、作品が嘘っぽく感じることもあります。

秀頼が三成の子になるなら、三成をもっと別のキャラクターとして描くべきだし、そうすれば、もっと作品が深くなるのに…というのが残念です。
まじめというよりは、私にとって、芝居で一番大切で譲れない部分が、「人となり」だってことです。そこがちゃんと読めれば、あとはどんなにファンタジーでも、フィクションでもOKなんですよ。
どこを大切にするか、それが、私の「人となり」でもあるってことですね。
by 夜野愉美 (2011-06-28 22:30) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0