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日生劇場「グレート・ギャツビー」感想 その3 [┣宝塚観劇]

「グレート・ギャツビー」の感想、その3まで行ってしまいました。
今回で終わります。

例によって辛口ですので、覚悟してお読みになられる方は、「Poor Son of a Bitch」からお入りください。大変下品な言葉ですが、これは原作の非常に印象的なセリフです。この言葉でしかギャツビーの死を悼むことができない…そんなフィッツジェラルドの思いを汲んであえてこの言葉を使っています。ご了承ください。

「その2」の最後の部分をもう一度書く。 

トムがすべてを知って、その上で、ギャツビーが運転していたと伝えるなら、理由はひとつ。
つまり…

ウィルソンがギャツビーを殺して自殺してくれたら、すべてを闇に葬れるから。

つまり、この物語では、トムが煽ってウィルソンにギャツビーを殺させる物語が浮かんできてしまうのだ。
それって、小池先生の目的に適う?
いや、もしそうだったら、「神は見ている」のナンバーは、神になり代わって、人が人を裁くと言ってのける、確信犯トムのナンバーがあってもおかしくないので、小池先生は、そういう意図を持ってはいなかったと思う。
そんな新ストーリーはすごく面白いが、すでにフィッツジェラルドから離れすぎるし、だったら2番手はトムでないとおかしい。
ナンバーとして魅力的な「神は見ている」は、それゆえに、このミュージカルの中で浮く。

なーんてことを思うのは、フィッツジェラルドに特別な思い入れを持つ私が敏感すぎるせいかもしれないが、残念ながら私は、この場面にカタルシスを感じることはなかった。

今年は、スカピンの初演もあったし、多忙な小池先生としては、ギャツビーを加筆して2幕にすることはできても、17年前の初演部分にメスを入れることはできなかったのだろう。
1幕時代の作品を分子レベルに分解して、再構築し、その上で「愛の楽園」「神の眼」といったナンバーを入れ込んだら、宝塚歌劇のレベルを超えるドラマが作れたんじゃないか、と思うのだが、ま、あのスケジュールじゃ無理だろうなぁ。

ナンバーが入ったことで、視覚的、聴覚的に楽しめた事実と、

  • スムーズに流れてこそ意味のある場面が分断された
  • 印象的な場面を終盤のちょっと前くらいに置いておくと余韻に繋がるのに、初演では大切に扱われていたニックがギャツビーを評価する場面が、巨大ナンバーの手前の忘れ去られてしまいそうな位置に置かれてしまった

という、マイナス部分、両方があったと思う。
私は、ギャツビーという男にも、デイジーという女にも感情移入できなかったので、どうしてもドラマ性に気持ちが行ってしまった。
そんな私には、この構成はマイナス面の方を強く感じるものだった。
ただ、それは即ち、名作を再演でめちゃくちゃにした的否定ではなく、これ、シーンの順序を入れ替えて整理すれば、もっと素晴らしい作品になったんじゃないか、という「ちょっと残念」的気持ち。
ただ、興行的には大成功だったので、これは再演されるとしても、このまま固まってしまいそうなのが、惜しいな、と思っている。

さて、ウィルソンは、私が納得するしないにかかわらず、ギャツビーを殺しに来る。このウィルソンのイメージは、初演の古代みず希の演技が秀逸だったためか、小池の中で大きく膨らみ、やがて、「失われた楽園」のレスリー(香寿たつき)に繋がっていく。
虫も殺さないようなウィルソンに銃を突き付けられたギャツビーは、最初、“バカなことはやめるんだ”と、余裕を見せる。
そして、トムから車の持ち主を教えられたと聞き、動揺する。ほかに何を知っているのか、ギャツビーにはそっちの方が重要だったから。
ウィルソンが、運転していたのはギャツビーだと信じていることが分かったあと、彼は、一瞬、時を止める。
そして、「運転していたのはおまえだな」との問いに、こころもち胸を張って答える。
「ああ、そうだ」と。
その瞬間、ウィルソンの放った銃弾がギャツビーの心臓を貫く。
ギャツビーは、突堤に惨めな姿で倒れる。
同時にウィルソンも拳銃で頭を撃って死ぬ。

主人公が銃で死ぬ小池作品といえば、前述の「失われた楽園」と、宙組「カステル・ミラージュ」が印象的だ。
「失われた楽園」は、宝塚作品のお約束というか、撃たれてから死ぬまでに、色々と述べて死んでいく。
「カステル・ミラージュ」では、ロシアン・ルーレットで死ぬ。しかも、奇跡的に最後の一発まで弾が入っていなかったにもかかわらず、最後の一発を撃つ。そして、流麗にダンスを踊るようにくずおれていく。
けれど、ギャツビーは。
かっこよく死なせようと思ったら、突堤から、湾に落ちていけばいい。
原作では、プールの真ん中にビーチマットに乗った死体が浮いているのだから、水の中に落ちていくのもありだったと思う。
撃たれた瞬間までは最高にかっこよく、でも、死んでそこに惨めな亡骸を晒すギャツビー。
撃ったウィルソンもまた、小人物らしく、死ぬ姿さえ控え目
だ。ただ、ウィルソンの死も舞台で見せなければならないので、ギャツビーの死骸は、ウィルソンが自殺するのに要する時間分は、そこに放置される。
決して、かっこよくない姿で。
誰からも顧みられずに。

すごくいいなぁ…

と、思った。
「失われた楽園」を経て、「カステル・ミラージュ」を経て、とうとう小池修一郎は、ここに辿り着いたか…と思った。

ギャツビーの物語は、結局、

こんな男がいました

っていう物語なんだよね、と。

誰に認められなくても、誰に顧みられなくても、彼は、自己の信念のままに、生きた。
最後は、冷たい骸となって放置されるけれど、その顧みられない、冷たい死骸が、虚飾に満ち、虚偽に生きた男の、飾らないただ一つの真実なんだなーと。かわいそうって思う人もいると思うけど、それこそが、あっぱれな生き方だよなーと。
ギャツビーのこの死に様に比べれば、みんな、かっこつけて生きている。上流階級の人はもちろん、下層階級の人間まで。
ギャツビーの横たわる骸と、その横で小人物らしく自殺するウィルソン、この人たちこそ、生きていてほしかった[もうやだ~(悲しい顔)]長い長い物語は、ここを見せるために存在したんだな…そんな幕切れだった。

幕切れ-
そう、実は、ここで幕切れでもよかったかなぁと思った。

原作では、プールの真ん中に死体が浮いている、という映画化を意識したような死に様のギャツビー。
誰もお葬式に来てくれないっていうラストは、かっこいいまま終わらせない、人生の苦味のようなもの。
だったら、この芝居のギャツビーの死に様は、もう、それだけで、「グレート・ギャツビー」の世界観にもなっている。
初演は、宝塚らしい、かっこよさを保った死だったから、ちゃんとエピローグもついていたけど、今回は、カットしてしまうっていう手はあったかもしれない、と思った。そうすれば、デイジーがお葬式に来る、来ない、の議論も不要だし。

実際には、死んだギャツビーの葬式に誰も出ないので、ニックが参列者を求めてあちこちに電話する。原作通りに。
友情は生きてるうちだけと豪語するウルフシェイム。トーナメントに出るから、とニックごとすべてを切り捨てるジョーダン。
ジョーダンのスパッとした切り捨て方は、スポーツウーマンっぽくて、爽やかでさえある。自分が振られたことさえ認識できずに立ちすくむニックの愚直さが、そのまま誠実さと映る。遼河の演技が、場面の雰囲気にしっくりする。
明るくニックを振るジョーダンの後ろに、自分から矜持を持って別れを告げざるを得なかったモニカ(HOLLYWOOD LOVER)が重なって、すっきりしたのは、私の個人的な思いだろう。
そこへ、ギャツビーの父親、ヘンリー・ギャッツ(汝鳥伶)が現れる。
無骨な田舎者であるギャッツは、息子を誇りに思っている。まっすぐに。ギャツビーが否定し続けていたもの、その確かな存在感が、さらにギャツビーの人生を空しく見せるのだが、今回は、汝鳥の演技がウェットに過ぎて、私は、受け付けなかった。警視総監は、すごくいい味出していたけど。

一方、デイジーは、無言で白いバラ一輪を墓に投げ入れる。
彼女が何を思っていたのか、無表情を貫くデイジーからはうかがい知ることはできない。
運転しているのはトム、乳母のヒルダが赤ん坊を抱いているのも見える。誰も、何も言わない。互いを思いやる気遣いも見えない。でも、彼らは1台の車でやってきて、また一緒に乗って帰って行く。
これからの一生を、こうしてのろのろと光のないままに生きるしかないのだ、彼らは。
ジェイムズ・ギャッツから、ジェイ・ギャツビーへ、全人生を自分でクリエイトし、頂点を極めたところで消えた男、その煌めきの人生に比べて、なんとうつろなことか…。しかも、彼らはまだ、30歳前後なのだ。
彼らは、彼らに相応しい罰を受けている…たとえ、この先、金持ちであり続けるとしても。
そういう表現のために、デイジーを登場させたのだとしたら、小池先生はすごいロマンティストだなーと思う。まだ23歳なのに、これがデイジー生涯最後の「自分の意思」だ。これから人形のように長い人生を過ごしていくのだ。意志もなく、愛もなく。トムの言うがままに。けれど、彼女は忘れないのだ。その心に生きる煌めきは、5年前と今、ほんの数週間ずつ炎のように燃えた愛だけ…。
それができるデイジーって、すごい意志の強い女。とてもこれまでのデイジーとは違うが、ロマンティスト小池先生は、ギャツビーの死が、デイジーの変貌の源だという設定にしたのかもしれない。

こうやって、ギャツビーの死と、デイジーの生、ふたつの対比が明確になった今、既に少年時代のギャツビーの日記は、意味がない。突然女役に転向してしまった、彩星りおんくんの最後の男役を見られたから、嬉しかったといえば、嬉しかったけど。
まあ、あの日記から、かっこいいギャツビー登場→歌っていうのが、17年前にはカタルシスだったんだけどね。ちょっと、小池先生、あれを多様しすぎた感あり…というか、小池演出って、すごくクリアで印象的なので、次に同じ手を使うと、なんだか「またかよ?」的になる。
4年後にやった「JFK」でも死後白いスーツで登場場面があって、間、4年もあったのに、「なんかギャツビーみたい」って思ったくらいだから。
でも、瀬奈ファン的には、最後、かっこよく〆ないと、楽しく劇場を後にできないだろうから、これは、宝塚としては「いたしかたない」のかもしれない。

さて、フィナーレ代わりの「ギャツビーのパーティー」で全員が盛り上がる部分は、ラスパの二番煎じみたいだった。あちらも、白いスーツで真面目に終わった後、スコットの掛け声でオープニングのナンバーを踊る。
景子先生が小池先生の場面を真似したなら、オマージュと言えるけど、小池先生の方が先輩なんだから、あれはないだろう、と思った。
しかも、歌い踊るんじゃなくて、瀬奈は客席を煽るだけだし…それだったら、フィナーレ、ほしかったなー。
ついでに言うと、オーケストラへの拍手は、客席を先導する意味で必要だけど、出演者のカーテンコール時、他の出演者が拍手で迎えるのは、ちょっと変な感じがした。自画自賛的で、あまり感心できない。

博多座のミーマイに比べると、地味な公演だったが、日生劇場への出し物としては、よい企画だったんじゃないかな?ようやく日生劇場の使い方がわかってきたのかな?という気がするので、ぜひ今後も日生公演は続けてほしいと思う。


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