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宝塚の“銀ちゃん” [┣宝塚情報]

「銀ちゃん…」の前に、まずは、「愛と死のアラビア/Red Hot Sea」東京公演での祐飛さんお茶会レポート、その2をこちらにアップしました。よかったら、読んでください。 

発売中の歌劇に、つかこうへい氏と石田昌也先生、そして大空祐飛さんの鼎談が載っていた。
その中で、編集されているためかもしれないが、つか氏と石田先生の間に認識の相違があるんじゃないか、と思われる箇所があった。
それは、相互依存関係の中に、小夏を含むかどうか、という点。
石田先生のコンセプトの中では、小夏は、相互依存の輪の中にいる。
つか氏の中では、小夏は、もともと依存関係の外にいて、最後には、銀ちゃんでもなく、ヤスでもなく、撮影所に戻ってくる、という強さを描いたつもりらしい。
石田先生がそこに気付かなかったのか、敢えて無視したのかはわからないが、その部分に宝塚ならではの“甘さ”(考え方の甘さではなく、sweetの方の甘さ)があると思う。
銀ちゃんを愛した小夏は、銀ちゃんとの別れを経て、ヤスを知り、ヤスを愛し、ヤスを選ぶ。それは宝塚の恋愛ものとして十分成立する基本コンセプトであると思う。
石田先生は、この一見はちゃめちゃな物語の中に、“愛と自己犠牲”という非常に宝塚的なテーマを感じたに違いない。それは、石田先生の書いたもうひとつの“愛と自己犠牲”の物語『殉情』の成立過程と非常に似ている。『殉情』も“愛と自己犠牲”を“相互依存”のオブラートに包んで見せた作品だった。谷崎潤一郎という非常に格調高い文学をわざわざ低級で下品なものを交えて描いたのは、石田先生の照れだったりするわけで、「蒲田行進曲」は、石田先生の目指す世界が、まんま作品になっているのだから、そりゃ、やりたいと思うのも無理なきことかと。

ただ、これを上演するにはハードルが高い。
だから、久世星佳がトップになった時、彼は、賭けに出たのだと思う。
彼女の演技は、宝塚という世界を時にはみ出すことがあったから。主役なのにシニカルだったり、悪役なのに心があったり。
久世と風花と汐風…宝塚的でない普通の芝居を作るには、ベストなメンバーの揃った奇跡のような月組で、石田先生は一世一代の賭けに出た。
もちろん、作品は大評判だった。宝塚にも役者がいるということを一般演劇ファンに知らしめることにもなった。が、こんな作品を宝塚でやることに意味があるのか的批判は消えなかった。

12年が過ぎ、アングラ出身のつかこうへい氏の娘は、今や宝塚歌劇団の生徒(愛原実花)である。
つか氏の芝居は、もうアングラじゃなくて、日本中のメジャーな劇場で、メジャーな役者が演じていることがほとんどだ。
そんな時代に、石田先生は、もう一度賭けに出たのだと思う。
『銀ちゃんの恋』を、宝塚歌劇として成立させるという賭けを。
あの脚本のままで、宝塚歌劇として成立させる。「蒲田行進曲」を宝塚の舞台に上げることも奇跡だったが、宝塚歌劇の1演目として納得させることは、さらに奇跡に近い。
だから、石田先生は、大空祐飛を指名したんだと思う。
あの時は久世星佳が必要だった。
もちろん、美人で背も高い久世だが、なにしろ天海の後任なので、地味とか、華がないとか、新劇みたいとか、そりゃもう、さんざん言われていた。そんな久世だから、チャレンジできたのだと思う。ヅカ的なトップにやらせたら、ファンに何を言われるかわかったものではない。
今は、大空祐飛。
なぜ、大空か…宝塚的であるには、普通に銀ちゃんが主役としてかっこよくないといけない。
でも、あのすごい衣装が普通の衣装になってしまったら、それは銀ちゃんではない。
だから、なのだと思う。
あの衣装を着て、観客を“かっこいい”と言わせてしまうこと、それが大空の最大の売りだから。

まあついでに言えば、銀ちゃんのセリフがいちいち大空的にブラックなのも、楽しめるっちゃー楽しめるんですがね。(自虐ファン)
対する華形と野々が初演に比べて、若さとまっすぐさを前面に出しているのも、宝塚らしくていい。
石田先生の挑戦、成功しているような気がする。
でも、舞台というのは日々進化するものなので、そんな宝塚的トリオが、この公演中に、初演の3人以上にシリアスになっていくこともあるかもしれない。

そんな時、次の銀ちゃんへの新しい構想が石田先生の心に宿っていたらいいな。
今出てる下級生が、もしかしたら、次の銀ちゃんかもしれない…なんてね。


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