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日生劇場「グレート・ギャツビー」感想 その2 [┣宝塚観劇]

東京で「銀ちゃんの恋」が観られない…とお嘆きのみなさん、平日ではありますが、一部のチケットがぴあに戻ってきたようです。今ならA席もあります。
一度、観劇を検討してみてはいかがでしょうか?
ドラマシティの方は、だいぶ残席がなくなってきたみたいですね。
いよいよ…と、心が弾みます。

日生劇場の「グレート・ギャツビー」も早く決着つけなきゃ!というわけで、今日は、第2弾です。
辛口な部分もありますので、いやだなーと思われた方は、Uターンしてくださいね。 

「God Bless You」からお入りください。

ギャツビーとデイジーの再会は、ほぼ原作通りに演出されている。
篠つく雨の中、ニックの家を訪問したデイジー。その現実感の薄い、人形のような美しさは、まさに原作から抜け出したようだった。(ギャツビーが薔薇の花を抱えて登場するのは原作と違っていて、原作では上着のポケットに両手を入れたまま、神経質そうにニックの家を訪問する。)
ジョーダンやニックの手を煩わせ、ニックの家を訪問したデイジーと再会する…その一見回りくどいやり方には、理由があった。
彼は、デイジーを自分の家に招待したかったのだ。(ニックの家は隣なので、そこからすぐに訪問できる)
自分の豪邸を見せて、デイジーを喜ばせたかったのだ。

原作では、ギャツビーとデイジーは、戦争によって自然消滅する。デイジーの母親によって別れさせられるわけではない。ギャツビーの金持ちへのコンプレックスは先天性のもので、それだからこそ、デイジーに恋を仕掛けたのだし、別れた後も必死で金持ちになろうとする。
でも、1億総中流(初演当時)の日本人には、そういうギャツビーの感覚は、わからないだろう…ということで、小池先生も、デイジーとの純愛を邪魔する母親→金持ちになって見返してやるみたいな設定にしたのかな?宝塚的に、“純愛”は譲れないと思ったのかな?

豪邸には、ユーイング・クリフスプリンガー(綾月せり)ら、居候がいる。クリフスプリンガーは、原作のラストを非常に物悲しいものにする軽々しいキャラクターだが、ミュージカルでは、ギャツビーとデイジーのために『初恋のワルツ』を演奏してくれるピアニストだ。
居候の一人、鳳月杏くんは、一部祐飛ファンを「祐飛さんがいる!」と驚愕させたが、化粧は似ててもいいから、これ以上モミアゲを描くのはやめた方がいいと思った。

ギャツビーの部屋にはデイジーの写真が飾られているが、これは、あいあいの過去の舞台スチールだったり、スナップだったりしている。一番大きくて、でも奥の方に押しやられていたのが、ローズのポスター写真かな?
しかし、芸能人でもないデイジーの写真を、どうしてこんなに持っていたのかな?ギャツビーは…。(原作では新聞の社交欄の記事を集めている。まあ、それでも十分アブナイけど)
17年前の初演で、一番、印象に残っているのが、このギャツビー邸の場面。ギャツビーが放り投げるシャツが宙を舞う。どうやら、あの時は宙を舞うシャツということに重きを置いていたようだが、今回は、提供されたナラ・カミーチェのYシャツがカッチリしているのか、畳まれたまま宙を飛んでいた。
男物のシャツなので、飛んで行ったシャツをニックが拾tっていると、「好きなのを持って行っていいぞ」と言うギャツビー。
宙を飛んで着地したものを拾う方が、ふわふわ舞っているものをキャッチするより、屈辱的な姿勢を強いられる気がする。それと同時に、ギャツビーがニックに対して、妙に上から目線なのが気になった。

さて、二人きりになると、デイジーは当然ギャツビーに尋ねる。なぜ、手紙をくれなかったのか、と。
ギャツビーは、軍の規律でそれはできなかった、と答える。
ここで、ギャツビーは、嘘の上に嘘を重ねている。というか、自然に嘘をついている。誠実な顔で嘘をついている。
ギャツビーは、そんなことより!みたいな感じで、デイジーに復縁を迫る。しかし、なぜ自分達が別れなければならなかったかを誤魔化されたままでは、デイジーだってその気にはならないだろう。
「過ぎた日は取り戻せない」とデイジーは嘆く。
ここで歌われる「過ぎた日」は吉崎先生には珍しくマイナーコードを使用している。
…思いきり演歌だった[たらーっ(汗)]
この曲だけが、ギャツビーっぽくないと思うのは、私だけだろうか?
ま、「過ぎた日を乗り越える」より、「今、愛し合うことはできる」のてっとり早い前向き感の方が、私は好きですが。
とうとう、ギャツビーは強引にデイジーとの次の約束を取りつけてしまう。
ギャツビーのパーティーにジョーダンと一緒に行く、と。

一方、ニックとジョーダンも、ニックがジョーダンからゴルフを習いつつ、いいムードになっていく。
「朝日の昇る前に」は名曲だが、その次に覚えていた歌が、この「恋のホールインワン」だった。イチロさんの軽妙な歌声がずっと耳に残っていて。
ニックとジョーダンの恋は、ギャツビーのそれに比べて分かりやすい。
彼の真面目な面と、優柔不断な面が見事に両方表れていて、うまい場面だな~と思う。遼河のニックは、一路ほど正義感に溢れるといった感じではなく、自分の価値観を大切にしている雰囲気。ニュートラルにギャツビーともトムとも付き合っているし、そこから、最後にギャツビーに気持ちがぐっと傾くことで、逆にジョーダンとの距離感が浮き彫りになる。
ニックが語り部として観客と舞台を繋ぐ雰囲気は、初演よりハッキリとしていて、メリハリがあると思う。

約束のギャツビー邸パーティー、そこには、マートルを従えたトムも来ていた。
ここで、ギャツビー&デイジー、ニック&ジョーダン、トム&マートルの3組がタンゴを踊る場面があるのだが、それぞれの心の内を表現する緊迫したいい場面だった。
前田清実先生の振付も、ちょっと「琥珀色の…」に似た一列の隊列みたいなのもあるのだが、あんなに変わった振付でなく、印象的程度に留めてくれてよかったと思う。
パーティーの客の中に、ウルフシェイムがいて、ギャツビーに麻薬取引を迫る。
頑として拒否するギャツビーに業を煮やし、ウルフシェイムは、ビロクシーとラウルを登用することに決めてしまう。ここで、ビロクシー役の光月るうは、ニヤリとする。凄みのある表情をいつの間にか身につけた感じ。一方、ラウルの彩央寿音は、パッと嬉しそうに表情を明るくする。
あまり違いを表現する場面のないビロクシーとラウルだが、こうやって、ちゃんと演技で変えてきているのが嬉しい。
デイジーが人妻だと気づく場面のウルフシェイムのリアクションも印象的だった。
どこかしら胡散臭い人物であるウルフシェイムを表現するのに、アニメ的大仰さを選んだ越乃の演技は、それでよかったのだろうか?という一抹の疑問を感じることもあったが、この場面は、それが嵌まっていた。
麻薬はやらないと綺麗事を言うギャツビーに、「お前は、もっと危険なものに手を出した。人妻だ」と言ってのけるウルフシェイムは凄味があって、とてもよかった。
当然のように、トムとギャツビーは対立し、気に食わないギャツビーに、トムはスポーツで勝負をつけよう、と言う。「ゴルフにして」ジョーダンのキビキビとしたセリフが小気味いい。初演のジョーダンは、頽廃的でこの三角関係を面白がっているところが表に出ていたが、今回はスポーツウーマンらしいかっこよさがある。
1幕のラストは、ヅカファンおなじみのアラベスク(登場人物の交錯した心象を歌やポーズで織り込んでいく)形式だった。

2幕は、新場面から始まる。
ジョージ・ウィルソンは、初演では、それほど大きく書き込まれた人物ではなかった。今回、かなりキャラクターを書き込まれた一人だと思う。
そのポツンとした佇まい、仕事もちゃんとしているのに、なぜかないがしろにされてしまう、負け犬っぽいキャラクターを磯野が的確に表現していて、納得性がある。
ウィルソンの家なのに、ウィルソンが一番隅の方でポツンと座っていて、でも、決して仲間を嫌っているわけでも居心地が悪そうでもない。たぶん、そこにいるのが楽なんだろうと思う。
タバコを吸い、酒を飲みながらカードをやっている若手たちも、彼らのクラスの雰囲気をよく出していた。咥えタバコの美翔がそのままセリフを言っていて、若いのに上手いなと思った。

ウィルソンは気づいている。妻のマートルの浮気に。
でも、もし、ウィルソンの望み通りカリフォルニアに行くことに同意さえしてくれれば、すべてを水に流そうとしている。
しかし、マートルは、カリフォルニアになんか行かない!と言う。
今まで、どこに遊びに行っていたのか、と問い詰められて、「あんたのいないところよ」と歌う。
どこまでも、ウィルソン夫妻の心はすれ違っている。
この「愛の楽園」は、ニックとジョーダン、トムとデイジーの間でも歌われ、やがてギャツビーを巻き込んだ一大ナンバーになる。
「グレート・ギャツビー」の初演とは違う特徴に、楽曲が、「主題歌」みたいなものから、「ミュージカル・ナンバー」に変わったことがある。特にこの「愛の楽園」の曲は圧巻で、「楽園」というテーマが、フィッツジェラルドの処女作「楽園のこちら側」をも彷彿とさせ、見事な場面となっている。
その一方で、何度もアラベスク場面があるのは、効果的でないかも?という側面はあった。それぞれは意味のあるアラベスクなのだが、すべてアラベスクっていうのも芸がないというか、1幕の終わりを含めて、3場面は多いんじゃないか、という気がした。

ゴルフ場へ行く前に、ウィルソンのガソリンスタンドで鉢合わせする、トムとギャツビー。
二人は、ほんの余興で車を交換するが、その直後に2階の窓からマートルがトムを見つける。トムの名を呼んで喚くマートルと、それを取り押さえるウィルソン。
ウィルトンは、そういえば、「愛の楽園」で「おまえが誰と付き合っているのか知っている」と歌っていた。
知ってていいのか[exclamation&question]

ゴルフの場面は、軽快な音楽に乗ってダンスで表現される。
トムとギャツビーの対決だけでなく、ジョーダンとセイヤー夫人の女子プロ対決も一緒に楽しめる。
ジョーダンは勝つためには手段を選ばないらしい。
そんな中、ギャツビーは、デイジーに、もしコンペに勝ったら自分と一緒になってほしいと言う。デイジーは、自分には娘がいると言う。ギャツビーは、君の娘なら僕は愛せる、と意に介さない。それを聞いてデイジーは決心する。
この場面のデイジーの衣装が、とても美しい。結婚後のデイジーの衣装は、どれもセンスがよくて、城咲に似合っていた。上品で、柔らかい白を基調とした統一感があって。
しかし、勝負に負けたトムは、ギャツビーについて調べ上げたことを、その場でぶちまける。
彼の経歴が虚飾に満ちていたこと。ウルフシェイムのもとで、怪しげな取引によって財をなしたこと。麻薬にまで手を染めている、と言われ、それは否定するものの、デイジーの表情がみるみる曇るのを見つめる瀬奈ギャツビーは、痛々しいまでに傷ついている。
そんなデイジーを「無事に」家まで送るように頼む、というよりは命令するトム。
これは原作通りなのだが、そこまでギャツビーを傷つけるトムの傲慢さが印象的。彼が生まれながらに持っているものを持たなかったゆえに、ギャツビーがどれだけ苦労したか、そんなことには一切関心を持たず、ただギャツビーを断罪する。そして、さらに侮辱する。
しかも、自分が悪いなどとは、まったく考えたことがない。
青樹のトムは、一片の悪意もなく、これをやってのける「勝ち組」の男がピッタリだった。キャラ的には、トムとニックは逆でもよかっただろうが、このキャスティングによって、トムの「生まれの良さ」から来る無邪気な傲慢さと、ニックの「育ちの良さ」から来る他人への公平な判断力みたいな部分が前面に出てきて、効果的だったように思う。

ギャツビーは興奮するデイジーの気が紛れるだろうと、彼女に運転をさせる。
それが悲劇を生んだ。

前の場面で、ギャツビーとトムは車を交換している。そこでマートルはトムを見た。マートルは、今日のトムは黄色い車に乗っていると思っている。
一方、ギャツビーは、自分の黄色い車を興奮したデイジーに運転させた。
黄色い車にトムが乗っていると思って突進する、逃げだしてきたマートルを、デイジーは避けきれなかった。
マートルは死に、黄色い車はそのまま疾走した。

これが悲劇の第一幕。

それは事故だったのか?
警官(一色瑠加)は、聞き込みによって、それを明らかにしようとする。
当然、派手好きだったマートルに、夫以外の男性がいたのでは?という噂が耳に入る。しかし、それを、妹のキャサリンが否定する。「姉は貞淑な妻でした。兄さんだけを愛していました」と。私は、この言葉がウィルソンに暗示をかけているように感じた。

車を運転していたのはデイジーだった。
原作では、それは、ギャツビーとニックの会話の中で明らかにされるが、この作品では初演から、デイジーとギャツビーのやり取りがある。
自分が運転していたことにするから、何もなかった振りをするんだ、とギャツビーはデイジーを説得する。
君には子供がいるんだから。僕は、警察にはツテがあるから、刑務所には行かないから。
混乱のままに、ギャツビーの言葉を受け入れるデイジー。ただ、ギャツビーは、デイジーを家までは送り届けない。二人は事故を起こした車のまま、その近くまで来たわけで、その車でデイジーを家に送り届けることは自殺行為なのだ。途中の人気のない場所で、ギャツビーはデイジーを徒歩で帰し、自分は車を隠す。
誰にも言ってはいけない、ときつく言い聞かせ、デイジーを行かせたギャツビーは、ニックにすぐに気づかれ、すべてを告白してしまう。

誰にも言ってはいけないと言いつつ、お前は言っちゃうのかよ[たらーっ(汗)]

と思わず突っ込んだのは言うまでもない。
それだけギャツビーは動揺していて、その動揺を見せまいと、デイジーの前では必死に冷静を装って、そして、誠実な男だと心を許しているニックの前でつい本音を口にしてしまい、そこからもう嘘を積み重ねることができなくなってしまったから…なのだと思う。
ここ、すごく重要な場面のはずなのだが、わりとさらっと流れてしまった印象。
もちろん、あなたは、あの連中よりずっと価値ある男ですよ、というニックの言葉は重要で、決して流れ去ってはしまわないのだが、そこに至るギャツビーとの会話が印象に残らない。

どうしてか、というと、おそらく、ここに新場面、巨大ナンバー「神の眼」が入るからだと思う。
眼医者の広告看板に描かれた巨大な目を、ウィルソンは「神の眼」と呼ぶ。
人がどんなに事実を隠しても、神はすべてを見通している。あの眼の前では嘘がつけない。邪悪な行いには裁きが下る。もし、裁きを下す神の手が足りないのなら、人が裁きを下す。
簡単に言ってしまえば、あの時、マートルは、黄色い車の持ち主に用があって、飛び出して行ったのに、その車の持ち主は止まらないどころか、マートルを撥ね飛ばして殺してしまった。神がそいつを裁く手が足りないなら、自分が代わりに決着をつけてやる、というのがウィルソンの主張なわけだ。
罪を犯した時、誰も知らなくても、自分が知っている。その恐ろしさが、神の眼を恐れることに繋がる。
デイジーの場合は、こっちに該当する。彼女は耐えられずに、夫に告白する。あの時、運転していたのは自分だと。トムは、黙っていれば誰にもわからない、とデイジーを説得する。
この場面は、気が弱く暴力に否定的だったウィルソンが凶行に走るまでの心境の変化と、デイジーが決して悩まなかったわけではないことを、補足的に表現している。シーンの意味的には。
ただ、この場面も、どちらかというとミュージカルナンバーとして生きている場面だ。「神は見ている」という力あるナンバーが次々と歌い継がれ、事故のシーンの再現、ギャツビーの回想、そして…
すべてが、このナンバーに集約されている。

本物の海外ミュージカルを演出するようになった小池先生が、こういう方向に行くのは、すごくわかる。
太田先生という、ナンバーを書ける音楽家を知ったことも大きいと思う。
でも、小池先生のオリジナルナンバーって、途中に「ものがたり」を入れ込んで、騎馬戦があって、主役は、ナンバーの途中で衣装を替えて出てきて…なんか、「Never Say Good-bye」を思い出してしまったのが、少し残念。

まあ、それでちょっと冷静になったせいもあって、考えたのだが、「神は見ている」は、ギャツビーにとっては何だったのだろうかと。
ウィルソンにとって、デイジーにとって、「神の眼」は明らかだ。
ギャツビーは、別に何も悪くないし、復讐を考えてもいない。もし、彼が「神の眼」を怖がるとすれば、経歴詐称をしてデイジーに出会った昔、そしてそのために結局はデイジーを失ったこと、それこそが、二人が別れる理由だったことを、デイジーに言えずにいたことしかない。
なのに、ギャツビーの歌はそうなっていない。

「愛する人を護る為、人の世を欺く行いを」って、それ悪いことじゃないから[exclamation×2]

White Lie、人のためにつく嘘は、許される。愛する人を断罪せず、罪をかぶることは、犯罪ではない。小さなcrimeかもしれないけど、sinではない。
この一大ナンバーの最後をギャツビーが締めくくることで、なんか、辛そうに真中で歌ってるけど、この人は悪くないよね?と思ってしまうのだ。
それが、「神は見ている」というナンバーの最大の弱点だ。
早替わりまでして、若い頃を演じているあいあいには申し訳ないことだが、「神は見ている」というテーマである限り、ギャツビーはかわいそうなだけで、主役に成り得ない。
たしか、このナンバーは、死んだマートルも出てきて、最後に別の曲(愛の楽園?)を和してくるのだが、それなら、ギャツビーには、「朝日の昇る前に」をアレンジしてここで歌わせる方がしっくりくるかも、などと思った。

あと、ここで「神の眼」という形で、これまでの物語を総括して終章に向っていく、という作り方は、小説という複雑で、一筋縄ではいかないものを、ミュージカルという単純明快な形にアレンジするには、すごく分かりやすい手法だと思うのだが、小池先生は、ここで大切なことを忘れている、と思った。
つまり、フィッツジェラルドの作品を宝塚に向くように作り変えた時、自分で変更した設定のことを。
ここで、分かりやすくなったために、観客の脳が整理され、小池自身が放置しておいたキャラクター設定と行動の矛盾点が浮き彫りになってしまった。

ウィルソンは、知っていた。マートルが、誰と、何をしていたかを。
(原作では知らない)
ウィルソンの側から見ると、罪は二つある。マートルを誘惑した罪、マートルを殺した罪。
原作では、その二つの罪を一人の男が担っているとウィルソンは信じていた。だから、マートルを誘惑しておきながら、家を飛び出して何かを伝えようとした、愛人のマートルを殺すなんてひどすぎる!と思って、ギャツビーを殺したわけだ。
このミュージカルでは、ウィルソンは知っている。
マートルの愛人がトムだということを。
ウィルソンは、マートルの死によって、トムへの断罪を捨てた。マートルが貞淑な妻だったと信じ込むことによって。
それによって、何が起きるか。
マートルの死は、「偶然の産物」になる。
ギャツビーの罪は、「過失致死」(こちらは、州によっては刑罰を科せられない)と、「看過」(ひき逃げ。こっちは刑罰の対象)疑惑。ただ、人間を轢いたと認識していなかった場合は、罪を問われないかもしれない。
ウィルソンが神に代わって手を下すには、あまりにも小さな罪になってしまう。

デイジーは、トムに告白した。
運転していたのは自分だと。この告白をしないと、後日、墓に行くことができない。
トムは何をしたか。
ウィルソンに、黄色い車を運転していたのはギャツビーだと教えたのだ。
原作では、トムはデイジーの運転を知らなかった。ギャツビーが運転していたと信じていた。
だから、トムはウィルソンに教えたのだ。あの車はギャツビーのものであったと。それが、彼なりにマートルを愛していたトムにとって、愛するマートルの敵討ちに繋がるから。
すべてを知って、その上で、ギャツビーが運転していたと伝えるなら、理由はひとつ。

ちょっと長くなりすぎてしまったので、「その3」に続きます。


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