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宝塚歌劇花組東京公演「愛と死のアラビア」観劇 [┣宝塚観劇]

今回は、大劇場公演で長々と作品&演出家に文句をつけてきたので、出演者と、東京での変更点を中心に書くこととしたい。 

宝塚ミュージカル・ロマン
「愛と死のアラビア-高潔なアラブの戦士となったイギリス人-」

原作:ローズマリ・サトクリフ
脚本・演出:谷正純
作曲・編曲・歌唱指導:吉崎憲治
編曲:前田繁実、脇田稔
音楽指揮:清川知己
振付:尚すみれ、清家三彦、新宮有紀
衣装:任田幾英
照明:勝柴次朗
音響:切江勝
小道具:伊集院撤也
効果:切江勝

大劇場での感想はこちらをご覧ください。その1はこちら、その2はこちら

【ものがたり】
19世紀初頭のエジプト。歴史上有名なナポレオンのエジプト遠征は、フランスに対抗するイギリス軍のエジプト遠征を誘発することになる。意気揚々とエジプトに遠征したイギリス軍は、あっけなく敗北し、主人公のトマス・キース(真飛聖)ら多くの捕虜がエジプト軍に捕らわれる。
トマスは、ハヤブサの目を持つ狙撃手として、同僚のドナルド(愛音羽麗)は医者として、捕虜ながら厚遇を受けている。そこへ、エジプト太守ムハンマド・アリの長男、イブラヒム(大空祐飛)が現れ、トマスをベドウィン騎馬隊に派遣する。
ベドウィン騎馬隊を指揮するイブラヒムの弟・トゥスン(壮一帆)との友情も生まれ、トマスはエジプトでの生活を楽しんでいた。そんなある日、盗賊に襲われたキャラバンの生き残り、アノウド(桜乃彩音)を助ける。
習慣の違い、宗教の違いに悩みながらも、トマスはエジプトを愛するようになる。が、ふとした争いから決闘騒ぎとなり、エジプト将校を殺した罪でトマスに死刑の判決が下ってしまう…

プロローグは、物語と関係なく、エジプトつながりで、黄金の砂漠・ピラミッド・スフィンクス、そして黄金の男たち、娘たち…という華やかというよりは、もはや、キンキラキンの世界。
谷正純の芝居は、長いプロローグが定番となっているが、今回は、そのプロローグがたいして面白くなかった。「JAZZYな妖精たち」のプロローグのアイリッシュダンスは素晴らしかったし、「1914」のパリレビューも楽しかったが、今回は、ただ金ピカってだけだったから。
そんな中でも、可愛い花娘たちの群舞はとても楽しい。まだ、全員の顔と名前が一致してないのが、非常に残念。可愛い子がいっぱいいたのに…[もうやだ~(悲しい顔)]

プロローグが終わると、現在(19世紀)のオスマン・トルコ支配下にあるエジプトを象徴する場面。ここでのソロスキャットは絵莉千晶趣のある歌声が印象的。そして、囚われのダンサーが舞城のどか。意味があるようでないような場面だが、スプリット(開脚)がみごとで、いつも見惚れている。ダンサーを蹂躙するのが、トルコの軍人である(制服)ことを東京で明確にした点はよかったと思う。
絵莉の歌に、拍手があったりなかったり…というのは、スター至上主義の宝塚では仕方のないことかもしれない。残念だけど。(ぶっちゃけ、難しい歌ではあるのだが、絵莉の実力を生かした歌というわけではないので、まあ、そんなにすごい拍手がわくべきものでもない、とは思っている)

幕が開くと、ラベンダーのシャツに白ズボン、黒ブーツのトマス(真飛聖)。上には、エジプト風の上衣を着ている。ここでスコットランド民謡の「ロッホローモンド」を歌う。恐ろしいことに、ここの幕開きで拍手が起きないことがある。ここで拍手がないと、イブラヒム登場時の拍手も起こらないので、毎回ドキドキもの。
今回の作品は、芝居もショーも拍手を入れるのが難しいような気がする。
東京に来たら、真飛の演技が、押しの一手から、緩急つけた演技になっていて、驚いた。真飛自身の温かさを役に反映させたようなトマスになっている。
ドナルド役の愛音羽麗は、大劇場とほぼ同じ、安定した演技だった。
服の上から治療する演出もそのまま、3か月間傷口が開いたままなのも、変わらなかった。愛音には何の責任もないが、ドナルドは、ヤブ医者認定らしい[もうやだ~(悲しい顔)]

東京から、イブラヒム(大空祐飛)が「インシャラー」と言うようになったが、演出の都合とはいえ、あの衣装で一度座ったらすぐ立つのが、違和感だったので、キッカケワードとして「インシャラー」が入ったのは、正解だと思う。
イブラヒムは、ムラでは冷静沈着な長男という部分がクローズアップされていたが、東京では、声のトーンも上げていないのに、若さが見え隠れする。どこで若さを出しているのか、よくわからないのだが、確かに、イブラヒムは若く見える。
若さの秘訣を教えてもらいたい…[たらーっ(汗)]

アスワンまでの「景色」として登場する原住民(?)は、ちょっと振付が変わったのかな?
あと、水を汲む乙女たちが、やたら多人数だったような気がする。
女豹は見るたび、ドキドキワクワク[ハートたち(複数ハート)]花組の娘役は、みんな綺麗で可愛くて、観るのが楽しい。

ベドウィンは、何といっても銀橋スタートが大迫力[exclamation×2]一人一人のアピールもすごかったし、この変更はよかったと思う。
ところで、砂漠を荒らす盗賊との戦いだが、トマスには、ヤシム(望海風斗=少年兵)が弾をこめてくれるが、トゥスン(壮一帆)は自分で弾をこめている。そのためトマスは2丁の弾をこめた銃を交互に使えるという利点はあるものの、トマスが3発3的中なのに、トゥスンが1発しか撃てずにしかも外してしまうのは、どんだけヘタレ[もうやだ~(悲しい顔)]なのかと思う。
明らかにヤシムより弾こめるの遅いし、それに、トゥスンが銃を構えてトマスに止められる前に、ヤシムは誰にも言われずに弾をこめるのをやめている。つまりヤシムにも分かる戦況がトゥスンには読めていないということ…[バッド(下向き矢印)]トゥスン…君は、父上や兄上と違って…じゃなく、誰よりも戦いの才能がないんだ[爆弾]
そんな司令官の下で働くのは、いくら人柄がよくても、絶対にイヤだと思うが、トマス、その変な慰め方はどうにかならないのか[あせあせ(飛び散る汗)]しかも、東京に来て、励まし方が派手になっている[グッド(上向き矢印)]
ついでにトゥスンも、その励ましを聞いて本当に嬉しそうだ[わーい(嬉しい顔)]
でも、本当のことを教えてやるのも、この場合、親切というものかもしれない[どんっ(衝撃)]

さて、盗賊を倒したベドウィン騎馬隊は、喜んで盗賊から略奪をしてくる。
そのことに、トマスは違和感を覚える。
これに対して、ベドウィン族長のザイド(悠真倫)は、「砂漠で馬が死ねば、間違いなく乗っている人間も死ぬ。馬を捨てるような者は砂漠では生き残れない」と言っているが、トマスが非難しているのは、馬を奪ったことではなく、死んだ人間から身ぐるみ剥ぐような略奪だと思う。
原作でも、「略奪厳禁」としている戦闘もあったりするし、略奪は別に砂漠だけの慣習ではなく、全世界的なものであり、戦闘によって「略奪推奨」「略奪厳禁」があるだけだ。この辺りは、少し展開が強引だと思った。
一番血気に逸っていたアブ・サラン(未涼亜希)が、実は何も戦利品を持ち帰っていないことが、非常に気になっている。ヤツは、ヘタレだったのか[exclamation&question]

話は少し飛んで、アノウドを助けたトマス、ヤシムに治療に必要なものを言いつける。
ヤシムは、用意するだけでなく、言われなくても、順序良く、必要なものを手渡している。軍人としてもなかなかの才覚を(すくなくともトゥスンよりは上等)示していたヤシム、軍医としても才能があるらしい。
しかし、3ヶ月間出血しっぱなしの治療を見よう見まねで知っているのみ…のトマスゆえに、「傷口は残るかもしれない」。なのに、「心配しなくていい」って……思い切り心配です[exclamation×2]byサミーラ(白華れみ
このサミーラ、ベールを取られてしまったアノウドが治療の途中、痛みを堪える苦悩の表情を見せた時に、その顔を見られまいとして、自分の使っているヤシュマグ(口元を覆っている布)を外そうと頑張っている。
どうやら、それは衣装の一部で外れないらしく、その苦闘は報われないのだが、これに対して、トマスは、「大丈夫」と声をかけて制止するようになった。
芝居の流れとして、そうなる過程はわかるのだが、真飛の演技は、どうも、よけいな手数が多いようで気になった。手数以前に、アドリブではないセリフ乱発はどうか、という点もある。
ただ、そうしたくなるほど、この場面は、演じている人間を無視した演出だったのだと思う。

そんな苦労の数々で、トマスは、悩んでいた。
習慣、宗教の違いで、分かり合えるはずの人と思いを分かち合えない。
さまざまな人が、さまざまな神をあがめているから。
ここで、またまたヤシムくんが天然な一言を発します。「でも、神はお一人です」
ヤシムにとっては、天然なその一言が、トマスにとっては実に含蓄のある一言に聞こえる。
キリスト教もイスラム教もあがめる神は同じ。(これは、預言者ムハンマド【=マホメット、モハメッド】が、イエス・キリストを預言者として認めている点からも明らか)
その点に気づいてトマスは心が軽くなる。
神が同じと気づいたら、心が軽くなって、改宗に向っていくのか、と思えば、それは最後までないし、ラストシーンの「改宗してもいい」は相当いい加減な決意だった。わりと感動的な「神はお一人」場面、全体の流れの中では、まったく無意味なあたりが、どうも消化不良だったが、ヤシムを演じた望海風斗の爽やかな少年っぷりが光る場面ではあった。

カイロの後宮の場面では、再び、花娘の侍女たちを楽しく眺めていたが、半分くらいしか名前がわからない…[もうやだ~(悲しい顔)]非常に残念だった。
ムハンマド・アリの奥方を演じる邦なつきは、この場面だけの出演で、もったいないが、東京に来て、より、おっとりとした奥方の柔らかさを全面に出してきていると感じた。これは、大劇場公演のプログラムには、最後の一つ手前の場面に出演すると書いてあり、カットになったことが想像できるのだが、原作通りであれば、そこでアミナ奥様は、彼女の持っている裏の力を発揮する。東京でそれがなくなったことから、もっと優しさを出してきたのかな?と想像している。

その後の場面は、大劇場の感想と変わらないので、少し飛ばして。

ベドウィンを率いてのトゥスンの初陣を聞いたトマスは、その戦いに自分も加わりたいと直訴する。
そんなトマスの思いを察して、事前に教えてやるのが、イブラヒム。
イブラヒムもトマスも、実はトゥスンの初陣を「無理」だと思っていたんじゃないか…という気が少しするのだが…[あせあせ(飛び散る汗)]

こうして、その件に異を唱えたアジズ(眉月凰)と決闘することになり、トマスは、卑怯な振舞いに及んだアジズを殺してしまう。
原作には、決闘で相手を殺すには、別の許可がいる(通常の決闘は血が流れたところで終わり)という習慣をトマスが聞いていなかったことが悲劇の一因という部分が出てくるのだが、これがないために、トマスの逮捕-処刑が理不尽なもの(=エジプトって野蛮)な印象に終わるのは、非常に惜しいと思う。
東京では、思わず口をついて出た感じの「友よ」が、イブラヒムの内向的な性格の一部分を表現していて、とても好きな場面になっている。
アジズを倒した直後に、トマスのところに飛び出してくるのが、アブ・サランなのだが、その後、トゥスンが出てくるとすーっと身を引いてしまう。アブ・サランも実は切ない人なんだな…。

東京では、副組長の高翔みず希が全休となったため、大劇場で代役を務めた日向燦が、そのままスレイマン役を演じている。このスレイマンが、やたら口八丁手八丁で面白い。スレイマンという役は、マムルークという非常に特殊な階級を代表する人間で、損得勘定でどっちにも転ぶ連中のうち、オスマン帝国についている人。つまり、エジプトがオスマン帝国の支配を逃れることになると、彼は立場を失う。ゆえに、必死なのだが、妙におかしい。
その上、大劇場で本役だったベドウィンの役も東京では演じているので、その場面でマムルーク評を聞く時のしたり顔も笑える。正直、顔芸が激しすぎるのだが、今回の大役を機に、引く演技も会得してくれたらこの先、いい役者になれると思うので、頑張ってほしい。
脇に控えているラシード(紫峰七海)の方が、もの静かなだけに、実は大悪人なのではないかという気がした。それを言ったら、高翔のスレイマンも全然悪人には見えなかったが。
たった一場面しか登場しないオスマン帝国の大臣は、大伴れいかものすごい迫力で、エジプト太守ムハンマド・アリ(星原美沙緒)に迫る。「太守」が「大使」と聞こえてしまうのは、ちょっと残念かな。

母上のところで少し書いたが、大劇場の時は、プログラムに書かれていた出演者が削られる=わりと直近の変更をうかがわせ、それによって演技の構築を変えることができなかっただろうことが、想像できる。
で、東京。
トマスの死刑回避は、父上の翻意以外ありえない状況になったので、当然、ここでの演技は、大劇場とはまったく違うものになっている。父上も、イブラヒムも。
それによって、「3.4年というとトマスには少し遅すぎますね」が、大劇場ののんびりと柔らかい口調とは変わっていて、少し寂しかったが、これは当然、そうなるべきセリフ。また、「ハヤブサの目を持つ男です!」の発言が、力強さとともに、イブラヒムなりのトマスを殺したくない悲鳴のようで、胸が痛くなる。
2番手は、時に、要の場面を任される反面、出番が少ないこともある。少ない場面で結果を出さなければならないのが、2番手の宿命なら、大空は、この場面で結果を出したと思う。まあ、これについては、あまり客観的に見られないファンの戯言かもしれない。
星原と大空の息詰まるやり取りは、思わず引き込まれる大迫力[exclamation×2]

トマスとの別れの場面は、イギリスへ帰るドナルド、トマスを逃がそうとするトゥスン&ベドウィン、トゥスンを止めようとするイブラヒム、イブラヒムが引き入れたアノウド…という風に続く。
大劇場の最後の頃は、ドナルドとの別れで、毎回拍手が入っていた。音楽の盛り上げもあり、最高にかっこいい場面なのだが、ここで立ち去るドナルドに拍手を入れるわけにはいかない(番手的に?)のか、東京では、完全に無視状態。もったいない。
ちなみに、大劇場で失笑を買っていたセリフがこの場面は多かったが、かなりセリフが変えられていた。
だったら「傷口は残るだろうが」とかも直してほしかった…[バッド(下向き矢印)]

この物語のテーマは、異国ではからずも捕虜になって、そこから現地の人と交流を深めることで、その国のために自分を犠牲にしてもいいと思って処刑されていく崇高な志を持った青年と、彼とそこまで魂の交流をすることができた異国の人々の物語、なんだろうな。一種のおとぎ話。
ただ、そこへ至るまでのエピソードの繋ぎ方が、原作…というか、ここまで改竄していたら既に参考図書のレベルだろうが、その原作を貼り付けているので、主人公の心の流れがスムーズではないという欠点が拭い去れなかった。
ここまで切り貼りをしてシーンを減らすのなら、あの派手なプロローグは本当に必要だったのだろうか?
いろいろな意味で残念な部分は多く、そのほとんどが東京でも改善されることはなかったが、出演者の頑張りで、なんとか見せてしまう作品にはなっているようだ。その意味で、新生花組、たのもしい、と思った。
(まあ、これまでも、さまざまな作品を乗り越えてますからね…[ちっ(怒った顔)]


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コメント 2

でるふぃ

夜野さま、お疲れ様でした!
書かれたことは、時に笑いを誘われながらも、共感を覚えることばかりです。

一番、私も不可解なのは、
ヤシムの「神はひとつ」が、そのあと、何の意味も持たないことです。

私は大劇に行ってませんので、DVDと自分の記憶を比較するだけなのですが、
明らかに良くなっているのは、それぞれの役者の演技の深まり、(特に、父上とイブラヒムの場面・・贔屓なので!)、
ベドウインのアンサンブルだと思ってます。
あとは、夜野さまの文を参考にさせていただいて、また、DVDを見ることにしましょう。

残念なのは、このお芝居を観て、私たちはイスラム文化の何を知ったのだろう、ということがわからないこと。
関心を持ち始めて、今、関連する本を読み始めた、それでいいことにしよう、とは思ってますが・・
みなさまは、いかがでしょうか?
by でるふぃ (2008-09-02 08:45) 

夜野愉美

でるふぃさま
コメントありがとうございます。
このコメント読んでいたのに、お返事を書いていないことに、今頃気づきました。すみません(汗)
父上とイブラヒムの会話は、東京の千秋楽までずっと進化していました。本当に、星原先輩はステキな方です。
イスラム文化については、あまり勉強になりませんでしたね。たしかに。
by 夜野愉美 (2008-09-19 22:14) 

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