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フィッツジェラルドの午前三時① [┣宝塚作品関連本等の紹介]

フランス人作家ロジェ・グルニエ氏がフィッツジェラルドについて書いた随筆「フィッツジェラルドの午前三時」を読んだ。

フィッツジェラルドの午前三時

フィッツジェラルドの午前三時

  • 作者: ロジェ グルニエ
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1999/03
  • メディア: 単行本

午前三時というのは、フィッツジェラルドの作品「崩壊」に由来する。
【魂の真暗な闇のなかでは、来る日も来る日も、時刻はいつでも午前三時なのだ。】
上の写真は、この本の表紙。新婚時代のフィッツジェラルド夫妻の写真と、赤い薔薇の花…「THE LAST PARTY」を観た人にはたまらない構図だ。
この随筆は、中身も、あの舞台を観た人が、なるほど~と、膝を打つような数々のエピソードから成り立っている。

というわけで、以下は、この随筆の感想ではなく、そんな共通の記憶の紹介としてお読みいただきたい。直接ドラマに登場するエピソードもあれば、あの場面は、こういう心理から生まれたのか!というエピソードもある。
そして「THE LAST PARTY」をもっと深く楽しめることは、間違いないと思う。

【彼にはひとつの確信があり、それを一度たりとも放棄することも、裏切ることもしなかった。彼にとって、文学を超えるものは何ひとつとしてなかった…】
“ヘンリー・ジェイムズは、彼の時代のもっとも偉大な作家だ。したがって、ぼくにとってジェイムズは、彼の時代のもっとも偉大な人間なのだ” 

「夜はやさし」のタイトルは、キーツ「小夜啼鳥に寄せる頌歌」の一節で、冒頭のエピグラフとして、その詩の一行が引用されている。

短篇「作家の午後」の主人公は、人から『なまじ器用なことが命取り』だと言われて傷つき、『そんなふうにだけはなるまいと、苦役囚のように、文章のひとつひとつに身を削る努力をした』と語る。
そして、ヘミングウェイのたやすくものを書く才能について、ヘミングウェイと自分は兎と亀のようなものだと語ったそうだ。

フィッツジェラルドがヘミングウェイを絶賛したのは、その文体によるところが大きいという。(一音節の単語を多用し、しかもラテン語源でなく、サクソン語源の言葉が好んで使われる傾向があった。)…「キミの文体はまったく新しい」

フィッツジェラルドが、どれだけ小説に誠実であったかを語るエピソードがある。
“ぼくは自分の感情に多くを要求した―120もの小説を。だが、支払うべき代償は大きかった。それらの短篇のひとつひとつに、なにかの雫がわずかに一滴ずつ―血でも涙でも精液でもないが―もっと心の奥底から、自分の一滴が投じられているからだ。それこそが、ほかのものにもまして、ぼくが持っていたものだった。”
彼は、「楽園のこちら側」「美しく呪われた人」「華麗なるギャツビー」執筆期間は、それ以外の記憶がまったくないのだという。
あの芝居を観ていると、スコットは、多くの時間を酔って過ごしていたために、それだけ仕事にも不真面目な人物に見えるが、実は、彼の文学への忠誠は、どんな時にも揺らぐことはなかったのだ。

さて、「THE LAST PARTY」では、登場人物を極端に整理しているので、スコットの実人生に大いに関わった人物が出てこなかったりする。
たとえば、スコットの親友、エドモンド・ウィルソンは、ローラ(青葉みちる)の献辞にのみ登場する。「ラスト・タイクーン」の編者として。が、彼はプリンストン時代からスコットとともに過ごした生涯の友だった。
そして、マックスウェル・パーキンスと同様、ビジネスの上でスコットと大いに関わったハロルド・オウバーも出てこない。思うに、作者は、パーキンスにオウバーの役も任せているようだ。
オウバーはスコットの代理人であると同時に、資金提供者でもあった。そう、これ以上金は貸せないと言ったのは、オウバーだったのだ。
さらにこんなエピソードがある。
【1935年ころ、ある人物がオウバーの仕事場に入っていくと、オウバーは泣いていた。手にはスコットがたった今送ってきた原稿をもっていたが、その短篇の最後の方のページは、削除の線だらけで、汚れて、読めなくなっていた。】

ここで、作家フィッツジェラルドのバックグラウンドが語られる。
「THE LAST PARTY」には、父親のことは出てくるが、母親については一言も触れられていない。スコットの母・モリーは、スコットを身篭っている時期に、上の二人の子を流行り病で亡くしているため、生まれたスコットを溺愛した。が、スコットは、この母親をなぜか殺してやりたいほど恨んでいたらしい。母親殺しの小説や詩を何度か書いている。
スコットの母親はアイルランド移民の家系で、父親は古い南部の紳士で、南北戦争では南軍に付いた。つまり、スカーレットとアシュレが結婚したような家に生まれたのがスコットだったわけだ。

フィッツジェラルドは、ニューマンスクール(寄宿学校)時代に、フットボールの試合で「臆病者」のレッテルを貼られたことがあった。その雪辱を果たすためにも、プリンストン大学では、フットボールを志すが、残念ながら体格が足りなかった。
それでも、フィッツジェラルドは生涯母校のフットボールチームを愛し続けた。
そして、チームについての助言を母校に送りつづけた。亡くなった時も、【「プリンストン同窓会週報」に掲載されたチームについての記事にメモを書き込んでいるところだった。】
スコットは、母校で講演をしたいと熱望していたが、叶わなかった。酒に溺れ、もはや忘れられた作家となったフィッツジェラルドの講演など、誰も聞きたくなかったのだろう。が、第二次大戦後、スコットの文学は再評価され、今では、大学の演劇サークル、トライアングル・クラブでは、このクラブを創設したのはフィッツジェラルドなのだ、という伝説まで生まれている。

第一次大戦の折、スコットは名誉ある戦死を夢見て仕官する。
歩兵隊士官となったスコットの教官は、ドワイト・アイゼンハワーだったらしい。
結局、戦争はスコットを待ってくれなかった。英雄になり損ねたことを、スコットはかなり長いことくよくよと考えていたらしい。
そんなスコットに対して、ヘミングウェイはこう言っている。
“お願いだから、戦争に間に合わなかったからといって、くよくよ気に病むのは止めてくれたまえ。ぼくは戦争でなにも見なかったし、なにも役に立つことはなかったんだから。”
あの、アーネストが!である。

長くなるので、今回はこの辺りで。
今日はイベント先の見学に。遠い…でも、すごくいいところだった。海の近くに住んでいるのに、なんでよその海を見て落ち着くんだろうか?

【去年の今日】
「エリザベート」東京初見。
祐飛ルドルフについて、いささか興奮気味に語っている。
今年も、桜はとっくに葉桜になっている。もうすぐ新緑の季節がやってくる…。
(↓)今年の桜は、今、こんな感じ。


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でるふぃ

夜野さま、この本は私は今読みかけているので、しかも前半なので、夜野様の上の文はあえて、まだ読まずにおきますね。
いずれ、コメントさせてください。

昨年の記事、祐飛さんルドルフと桜を結びつけた文章は、すごく印象に残っていて、いつも心にありました。
というか、オフラインにして「お気に入り」に入ってる夜野さまのブログを開くと、いつもこの記事が出てくるのです。
多分、「お気に入り」になったきっかけの記事だったんでしょうね(^^)

葉桜も、その隙間から青空がいっぱい覗いて、これはこれで風情がありますね~
私も日記の去年の所を見直して、FC花見イベント(単なる出まちでの一コマではありますが)のときの、
祐飛さんのとてもかわいい笑顔を思い出していました♪
by でるふぃ (2006-04-20 07:57) 

夜野愉美

でるふぃさま
去年の今日の記事がお気に入りのきっかけだったんですね。
ありがとうございます。なんか、とっても嬉しいです。
なんかね、去年は、この不協和音みたいな色がすごく愛しかったんですよ。ルドルフのせいでしょうか?
今年は、早く新緑にならないかな?って思ってます。
…っていうことは、祐飛さんは葉桜を脱して新緑の域ということなんでしょうか?
by 夜野愉美 (2006-04-20 23:45) 

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