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広島城 [┣百名城]

5月の下旬、博多座公演とゆうひさんの出演する「人形の家」大千秋楽観劇…という旅行計画を立てたのだが、さて、博多座を観た後一人でどう過ごそう…と悩んだ挙句、広島で途中下車して広島城に行くという、意味不明な計画を立ててしまった。


当日はあいにくの雨、しかし、既に広島宿泊にしてしまったため、引くに引けず、雨の広島駅に到着。
そしてなんと、傘を忘れてしまったため、現地まではタクシーで移動。(福岡空港~博多座~博多駅は、まったく外に出ないで移動できるし、私が居た時間帯は、そもそも雨が降っていなかった。)


広島城-1.jpgタクシーを降り、城のある方角へ。タクシーを降りた場所からは城が見えず、ドキドキしていたが、ほどなく天守が見えて来た。
広島城は昭和まで天守を含む城の遺構が相当数残っていたそうだが、原爆ですべて倒壊、こちらは再建されたものとなる。


どうやら修復工事中のようでした。


天守の中は、資料館になっていて、最上階からは外が見られる。


広島城-2.jpgこれ、石落としなのですが、こんな風に開けた状態にして見せてくれるところは少ないので、かなり気分がアガった。
ほかにも、狭間なども開けた状態で見せてくれていて、塀などについている狭間は開いているけれど、天守の狭間は塞がっていることが多いため、広島城のオープンな姿勢に感動した。


広島城-3.jpg外に出て、東小天守跡の石垣を撮影。どうやら、小天守が東と南に付いた複合連結式天守だったようですね。


広島城は、中国の覇者、毛利氏の居城として秀吉の時代に築城された。秀吉も視察したことがあるとか。
関ヶ原後、西軍の毛利氏が転封になった後、入場したのが、福島正則。結果的に5月の城めぐりは、七本槍ゆかりの城が多くて嬉しい。
福島正則は、その後、城の無届修復工事を咎められ、改易となる。その後、入場したのが浅野氏。例の忠臣蔵でお家が取り潰された浅野内匠頭は分家で、こちら、広島の浅野氏が本家。お取り潰しの後、後継者である、内匠頭の弟、浅野大学は、この広島浅野本家にお預けとなっている。


広島城-4.jpgこちら城址公園内にある、広島護国神社。
今年も絶好調、広島東洋カープが、シーズン前に必勝祈願に訪れるという神社。なんか、ご利益が約束されているような神社ですね。
(雨が酷かったので、お詣りすることなく逃げるように素通りしてしまった。私の運のなさを象徴するような出来事である…)


広島城-5.jpgそのまま、二の丸まで足早に向かってみる。もう、足元がかなりやばい感じの中、多門櫓に入れてもらえそうなので、頑張って行ってきました。
(雨宿りとしか思えない行動。)


多門櫓の中も資料館になっていて、毛利元就の三本の矢のもとになった遺言書…かな[exclamation&question]のレプリカもあったりして…広島城を築城したのは、輝元なので、元就関係ないよね…とは、思いつつ、遺言だから、受ける側が輝元ということで、関係なくはないのか…と思い直す。


広島城-6.jpgこちらが表御門…こっちから出ました。
タクシーで行くと、裏御門から入って、護国神社の前辺りに留めてくれるようで、ちょうど馬出のように、堀に張り出している二の丸の方まで行かなかったら、表御門には気が付かなかったかもしれない。
(広島城HPの解説によれば、もとは馬出だったところを、二の丸として活用したのではないか、と書かれていた。馬出は、戦闘時に城を守り、出撃の拠点となる張り出し陣のことなので、平和な時には必要ない。そのため、江戸時代になってから、二の丸として再利用されたのではないか、とのことでした。)
表門は、さすがに、立派な門でした。


ちょっとトラブルがあって(多門櫓の中を観覧している間に、履いていた靴を間違えられてしまった[あせあせ(飛び散る汗)]のですが、櫓のスタッフの方が、天守まで行って下さって、該当する方を探してくださったのでした[ひらめき])、多門櫓の終了時間まで足止めをくってしまったが、無事出城。


広島城-7.jpg外側から、天守の全容を確認。
美しいお城です。


天候に問題がなかったら、広島駅から十分徒歩で行けると思う。
帰りは、少し歩いて合同庁舎前からバスで広島駅に向かった。あっという間に広島駅。


宿泊は駅のすぐ近く(翌日は、西宮北口までいかなきゃ…なので)にしていたので、駅の近くでガッツリ食べられる場所を探し、一人乾杯と相成りました。


広島城-8.jpgなぜかビールではなくて、生レモンをこれでもか、と入れたチューハイにしました。


美味しかったです[わーい(嬉しい顔)]


広島城-9.jpg広島なので、もちろんカキもいただきました。


大きくて、めっちゃ美味い[るんるん]


はからずも5月は城月間となりましたが、どの城も個性的で楽しく、ますますお城大好きになりました[exclamation×2]


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大分府内城 [┣百名城]

別府で迎えた朝、再び温泉を楽しんでからチェックアウト、別府駅に向かった。


別府1.jpgさすが、別府。駅前に手湯があった[るんるん]


連休最終日は、博多座の宝塚花組公演を観劇する。それまで少し時間があるので、別府から大分まで行き、もうひとつお城を見ることにした。


府内城1.jpg


JR大分駅から徒歩15分のところにある平城、大分府内城に行ってきた。


この大分府内城は、福原直高により築城が始められ、江戸時代に竹中重利により完成したと言われる城。竹中重利は、竹中重治(半兵衛)の甥…なのかな[exclamation&question]とにかく親戚らしいです。


また、この城の別名は、白雉(はくち)城とのことで、これもこれから観劇する「あかねさす紫の花」に重なる。宝塚ファンはぜひとも訪れてほしいかも。


こちらは西南隅の二重櫓。駅から歩いていくと、まずこの櫓が見えてくる。
私的には、まずここでテンションが上がる。


少し歩くと、大手門がある。その手前側に、水門…ではないが、濠が広くなっているところがある。


府内城2.jpg


この城は、「荷落(におろし)」と呼ばれていた河畔に築城され、竹中重利の時代には、城のすぐ近くに船着き場があったらしい。


府内城3.jpgで、大手門。
ここで、やった城到着[exclamation]と、テンションがMAXになったものの…門しかなかった…[あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)]


中はなんと、広場になっていた。
あとで調べると、以前はここに、大分文化会館があったらしい。
櫓門を入ったら、コンサート会場…という武道館的な設定だったのね。(←武道館をコンサート会場とか言う人…[たらーっ(汗)]


ちょうどGWということもあって、天気は悪かったが、中ではイベントが行われていた。
中に入ると、MCのおねえさんの声が楽し気に聞こえてきて、でも、まだ時間が早かったからか、露店もまばらで、訪れる人も少なく…なんともシュールな世界が展開していた。


府内城4.jpgなにより、シュールなのが、これだ。


天守閣の骨組とゴリラの遊具のコラボ…[爆弾][爆弾][爆弾]
本当に、入ってきてよかったのだろうか…てか、スタンプ押したところで、回れ右するべきだったのだろうか。


府内城5.jpgでも、一応、天守台はあった。天守の骨組は天守台の上ではなく、地上にじかに置かれている。
骨組だけの天守には登れないので、天守台の方に登ることにした。


けっこう、急な石段(いや、段ですらなかった…)を登って、天守台に登る。
天守台の石垣は、隅石の算木積はハッキリしているが、その他の石は、野面積。


しかし、登ってみれば、高いところはやっぱり楽しい。


府内城6.jpgそして、目の前の骨組をライトアップすると、こんな風に見える…という写真も展示されている。こりゃ、夜の方が楽しいのかな。
(少なくとも、来年の3月まではライトアップしているらしい。)


この府内城で38番目の百名城なので、天守台も色々登ったが、この天守台、なかなか立派なものだった。かつては、四層の天守が建っていたそうだが、この大きさなら、それくらいの規模の天守が建っていても不思議ではない。


府内城7.jpgなんとなく、下界のイベント(虹色のテント)が見えるが、気づかないふりで、天守台の広さを確認していただきたい。


詳細は、写真帳の方にいつかアップするつもりだが…いつになることやら。微妙に雨模様だったので、天守台を降り、バスで大分駅に戻った。


博多行きの特急まで時間があったので、マッサージなどして体調を整え、最終地、博多に向かった。今年のGWも大変充実していた…が、一人旅の限界も感じてしまった。来年は、誰か一緒に旅してください[いい気分(温泉)]


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大洲城 [┣百名城]

松山駅.jpgというわけで、愛媛県3つ目の城、大洲城に行くため、市電でJR松山駅に向かった。イヨテツの町・松山では、イヨテツの松山市駅を中心に繁華街が形成されているため、JRの松山駅周辺は、それほど賑わっていない。


駅前に、松山出身の俳人、正岡子規の句碑があった。
松山市出身の俳人といえば、河東碧梧桐、高浜虚子もいるが、二人は子規の弟子なので、わかりやすく子規の句。


春や昔 十五万石の 城下かな


明治27年、子規が従軍記者として日清戦争に参加する前、帰郷して詠んだ句とのこと。
周囲の反対を押し切って従軍した子規は、その結果、体調を悪化させてしまうのです[もうやだ~(悲しい顔)]


JR予讃線宇和島行きに乗り、伊予大洲駅へ。
終点の宇和島にも、百名城があるのですが、今回はそちらには行かず、フェリーで九州に渡ることになっている。


伊予大洲駅に降りると…駅前には、なにもない。
13時を回っていて、なにか食べたいと思っていたのに、あえなく撃沈。観光マップを見ると、まちの駅というのがあるようなので、まず、そこを目指して歩き始める。
暑い…暑すぎる…まだ、GWなのに。


大洲城1.jpg20分くらい歩いたところで、川を渡ろうとしたら、向こうに、こんな景色が[exclamation]


このまま右折すれば大洲城(ちなみに「おおずじょう」と読むそうです[exclamation×2])とわかったものの、朝から何も食べていなかったので、遠回り覚悟でまちの駅に向かった。


大洲城2.jpgまちの駅に、14時近くなっても開いている飲食店を発見し、飛び込んだ。


名物の鯛めしをいただきました[黒ハート]
松山城から戻る途中、鯛めし屋で、開店を待つ人々を見かけて、そんなに待てない[爆弾]と、そのまま列車に乗ったのだが、おかげで歩きながらひもじかった…[ふらふら]


鯛めしは、お皿の上の鯛と薬味をご飯にのせて、卵をかけていただくものだそうで、お店の方に食べ方を教えていただきました[るんるん]
愛媛県名物をここで食べられてよかった[ぴかぴか(新しい)]


大洲城3.jpgさあ、お腹を満たしたところで、あらためて、大洲城へ。


ここ大洲城は、鎌倉時代末期、伊予守護の宇都宮氏の居城が原点だと言われている。その後、秀吉によって四国が平定され、小早川隆景が伊予35万石を与えられた際、湯築城を居城とし、当時大津城と呼ばれた大洲城は枝城となった。
その後、築城の名手・藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主となった際、大津城を居城とした。
高虎の次に城主になったのは、賤ヶ岳の4本槍・脇坂安治。
四国で次々七本槍メンバーの名前を聞くのは、嬉しかった。


大洲城4.jpg天守自体は再建。明治になってから、天守が取り壊された。
現在の天守は、2004年に木造で再建されたもの。


こちらは、大洲城の復元模型。
天守こそ再建であるものの、櫓は1800年代のものが残っている。


えひめ.jpg


平日だと、この辺りから、フェリーの出る八幡浜までバスが通っているらしいが、休日ダイヤはなく、おとなしく、伊予大洲駅まで戻り、また予讃線に乗って、八幡浜駅まで向かった。
そして、これ以上歩く気力がなかったので、駅前からタクシーに乗り、フェリー乗り場へ。


乗る前に写真を撮ったので、船の名前しか写っていない…[あせあせ(飛び散る汗)]
でかい船でした。
フェリーの中では、だらだら横になって疲れを癒しつつ、写真の整理をしたりしていたら、あっという間に別府に到着した感じ。一人旅でフェリーとか、ちょっとドキドキだったが終わってみれば面白い経験だった。


別府1.jpgもう20時を回っていたので、タクシーで宿泊ホテルまで行き、チェックインしてから、近くのファミレスで遅い夕飯。
悩んだあげく、ハンバーグとビールに。(お腹がいっぱいで眠れないと困るので、ライスやパンは頼まず…)


ホテルは温泉ホテルだったので、戻ってから、ゆっくりと温泉に。
こどもの日だったので、菖蒲湯でした[黒ハート]


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松山城 [┣百名城]

松山での初日、ずいぶん早く休んだので、翌朝は早朝から元気に目覚め、さっそくチェックアウト。元気に歩き始めて少しして、荷物を持ってきてしまったことに気づいたが、まいっか…と、そのまま歩き、松山城入口へ。


松山城1.jpgロープウェイ・リフト乗り場の前には、こんなキャラたちがお出迎えを。馬に乗っているのは、松山城を築城した、三番槍・加藤嘉明公。
左側にいるのは、「坊っちゃん」のキャラクターたちで、左から、坊っちゃん、マドンナ、赤シャツ・野だいこ。松山の二大名物、なんでしょうね。


こちらで往復のチケットを買い、大きな荷物をロッカーに預けて出発。ロープウェイとリフトはどちらを選んでもOK。私は、なんとなくロープウェイを選んでみました。
あとで思ったのは、帰りは坂を下って二の丸庭園に行き、歩いて戻るというのも散策方法としてはあるのかな…ということ。その場合は、荷物を乗り場に置いてきちゃダメですけどね。


松山城2.jpgロープウェイから見たリフトの光景。
あっちも爽やかな感じでいいなぁ~[黒ハート]


松山城は、加藤嘉明によって1602年頃から築城されたが、完成前に嘉明自身は転封になってしまったとか。
天守閣は、連立式の層塔型天守で、日本三大連立式平山城のひとつでもある。そして、日本に十二しかない現存天守のひとつです、もちろん。


松山城3.jpgこちらは、小天守から撮影した、大天守。
登城前に、いくつか、撮影ポイントがあるのですが、新緑の季節のせいか、緑に隠れて、なかなか全貌が撮影できない…無念[もうやだ~(悲しい顔)]
そういう意味では、同じ連立式平山城の姫路城は、フォトスポットがしっかり確保されている辺り、観光に適した城といえるかもしれない。


あ、奇しくも、ちょうど一年前のこどもの日に姫路城に行ったんだった[exclamation]こりゃ、来年のこどもの日は、和歌山城(日本三大連立式平山城最後のひとつ)に行くしかないかも…[exclamation×2]


松山城4.jpg


大天守からの眺め。
あちこちに、櫓があって、これだけの施設が残っている城というのは、かなり珍しいと思った。(現存建築は、21棟もあるとか。)


お天気も良くて、今年のこどもの日も、「城日和」でした[るんるん]


松山城5.jpgもう一枚。遠くに見える海のようなものは、瀬戸内海。あっち側から来たんだな、私は…と思いつつ(笑)


詳細な写真は、いつアップされるか不明の「写真帳」を気長にお待ちいただくとして(汗)、見るものがたくさんあって、楽しいお城でした。


松山城6.jpgどうにか、木々の間から撮影した遠景です。


帰りはリフトに乗って地上へ。
時間があったので、秋山兄弟生誕の地へ寄ってから、JR松山駅に向かった。秋山兄弟の記事は、また別の機会に[exclamation]


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湯築城 [┣百名城]

ミュージカルを楽しんだ帰りは、道後温泉近くまで戻り、湯築(ゆづき)城に。


湯築城1.jpg日本百名城に、愛媛県からは5つの城が選ばれている。これは、全国最多。坊っちゃん劇場でホタテくんを観ることも、今回のGW旅行の大きな目的だったが、四国の城を見てみようというのも、大きな目的。というわけで、イヨテツの市電に揺られて、到着!


すぐ近くに道後温泉がある平場に、そこだけ小高い丘。
のんびりとした風景がステキな場所だった。


湯築城2.jpg史跡として、しっかりと整備しようという関係者の気合いが感じられる作り。1988年から発掘作業を行い、武家屋敷などが再現されている。


こちらは再現された家臣団の武家屋敷。室内も再現されていて、当時をしのぶことができる。


湯築城3.jpg庭には、池らしきものや、あずまやもあったりして、地元の方達の憩いの場にもなっているようだった。


5月というのに、この日はすごく暑い日だったので、あずまやで涼んでいる方も多かった。


湯築城4.jpg湯築城は、そもそも中世に守護であった河野氏が築城したもので、その後、豊臣秀吉の四国進出のために、小早川隆景や福島正則の居城となり、その後、福島氏の転封に伴って廃城になった。
発掘の結果、その様々な時期の地層が発見されたので、展示されている。


湯築城5.jpg木がうっそうとしていて、登りがいのありそうな景色。


手前側はせき止められて、藻でドロドロになっているが、内堀。まるで、山水画のような景色が広がっている。


此の丘陵部の反対側にある土塁に沿って、一番端まで行くと、行き止まりになったので、また、元に戻る。


さて、今度は、高いところに登る番だ。(半分びびりつつ…)湯築城6.jpg


整備された山道を登っていくと、いくつかの壇がある。
ここは、「杉の壇」と呼ばれている。
そもそも中世の城なので、用途などは、わかっていないらしい。


湯築城7.jpg展望台まで登って松山市内を臨む。


ご存じの通り、松山市内には、有名な松山城がある。
七本槍の一人、加藤義明が築いたこの城を中心に、江戸時代の松山市は栄えていく。


廃城になった湯築城は誰にも顧みられることがなかったはずだが、往時の姿が復元され、こうして百名城にも選ばれ、今日を迎えている。
関係者の努力の賜物だな…と思う。


道後温泉1.jpgちょっと足をのばすと、有名な道後温泉。
ここは、有名な「道後温泉 本館」。宿泊施設ではなく、入浴と休憩しかできない。GWで数時間待ち状態な上に、一人旅だったので、ちょっとびびって周辺写真を撮っただけで退散した。


道後温泉2.jpgそして、観光列車の「坊っちゃん列車」も展示されている。


これは一時間に一本、松山市内を走ってもいる(市電ルートの一部を)のだが、今回は乗れなかった。また、リベンジしたいな~と思っている。


道後温泉3.jpg温泉街を彷徨っていると、「熟田津(にきたつ)の道」というのに出合う。
額田王が「熟田津に船乗りせむと月待てば汐もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と詠んだあの熟田津に向かってまっすぐ伸びていく道が、これ。
斉明天皇が、滅亡した百済に援軍を出すため、九州まで行く途中、道後温泉に立ち寄り、そこから船に乗った。その時、額田王が力強いこの歌を詠んたと言われている。


松山4.jpg気づいたら、朝から何も食べていなかった。まだ夕食には早いが、ホテル近くに戻って店を物色。
野性の勘が働いて入ったお店がここ。
カレーの専門店だったが、カレーオムというのを注文し、めっちゃ美味しかった[黒ハート]


その後、ホテルに戻り、夜バス移動だった前日の疲れを癒すため、この日は早めに休んだ。


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赤穂城 [┣百名城]

宝塚のついでに…というにはちと遠かったですが、赤穂城に行ってきました。


赤穂城ー1.jpgこちら、大手門前。
赤穂城の主な構築物は、昭和30年に再建されたものとのこと。それ以前は、大石神社の境内になっていたのだとか。
元禄赤穂事件の後も改易で違う殿様が治めていたのに、大石内蔵助の屋敷跡と、大石神社だけは残っていたのね…さすが忠臣の鏡[exclamation×2]


赤穂城ー2.jpgそんな赤穂城には、満開の桜が[ぴかぴか(新しい)]


城と桜と青空…これほど似合う景色があるだろうか[exclamation]
(満開の桜を見て、桜咲き誇る姫路城に行くというのもありだったかも…と一瞬思ってしまったことは、ナイショです。ま、たぶん、あっちはめちゃくちゃ混んでいたと思うし、なにより、スタンプはもらっちゃったので、赤穂城でよかったんですけど。)


赤穂城は、山鹿素行の助言により、本格的な築城をされているのだが、1648年という、江戸幕府が開闢して50年近く経った時代に築城許可が下りた、とても珍しいお城。藩祖の浅野長直が築城マニアだったという説もあるらしい。


赤穂城ー3.jpgこちらは、大石内蔵助邸長屋門の先にある公園[exclamation&question]
桜がこれでもか[exclamation]というくらい植わっている。
桜=潔く散る=赤穂義士みたいなイメージがあるから、ここに桜が咲いているのが、すごくしっくりくる。


赤穂城ー4.jpgその向かい側にあるのが、こちらの大石神社。
超立派な鳥居。その向こうにある「義」とか書いてあるあの文字は、東郷平八郎の書だとか。立派過ぎて読めなかった…[バッド(下向き矢印)]鳥居の影にある、反対側の文字は「忠魂」だった。


赤穂城ー5.jpg最も似合うだろう絵柄を作ってみた[exclamation]
桜と大石神社の鳥居のコラボ。まさに忠義に散った大石…みたいなベタなイメージが表現できているのでは…[わーい(嬉しい顔)]


さらにベタなイメージの写真を掲載したい。


赤穂城ー6.jpgここ、大石神社の御利益は、「大願成就」である。
こりゃ、誰もが納得するわ[黒ハート]
私もしっかり、ゆうひさんの大願成就をお祈りしてきた。
ゆうひさんの大願は知らないが、私の大願として、こんな役をやってほしい…みたいな妄想を祈ってみたり…。


赤穂城ー7.jpgこちらが、お堂。創建は明治天皇の宣旨がきっかけだったそうで、実際には大正元年に鎮座なったということは、まだ100年程度の歴史。神社としてはかなり新しい。
明治天皇が評価したことで、赤穂義士の評価が定まったというのはあるらしい。庶民的には、忠臣蔵は江戸時代から人気の演目だったのは間違いのないところだと思うが。


赤穂城ー8.jpgこちらは、石垣と隅櫓。櫓が石垣から外に飛び出している珍しい形。
こうすることで、さらに横矢がけポイントが増えるんだとか。
(江戸時代の半ばに、何が横矢がけなのか、と言われると言葉もないが、山鹿素行さんって、平和な時代の軍事オタク的な存在だったのではないか…と想像している。)


ちなみに私も、この石垣から隅櫓のラインは、かなりお気に入り。
江戸城の辰巳櫓レベルの美しさ[ぴかぴか(新しい)]
しかも、桜も見えるし[黒ハート]


赤穂城ー9.jpgちなみに周辺のマンホールは、このように桜だった。やはり、忠臣蔵=桜なのかもしれない。


てか、そもそも、内匠頭の切腹が桜の季節だったし。


風誘う花よりもなほ我はまた 春の名残を如何にとかせむ


(この短歌は、実のところ、後世に作られたもののようですが。)


赤穂城―10.jpg駅に戻ってきたら、トマト銀行があった。
一時、変わった銀行名がたくさん登場して、面白かった記憶があるが、トマト銀行、健在だったのね。
ちなみにトマト銀行は岡山県の第二地銀。播州赤穂は兵庫県だと思っていたら、ほとんど岡山県だったというのを知った今回の旅…駅前のトマト銀行がそれを物語っていた。
(兵庫県の第二地銀はみなと銀行だそうです。)


-11赤穂城.jpgこちらが、播州赤穂駅。
赤穂城までは徒歩で15分くらい。かなりアクセスはよかった。
南国的な木々の真ん中に、采配を振るう大石内蔵助の銅像がある。駅前には、多くはないが飲食店(含む飲み屋)もコンビニあって、夜遅く到着しても困らなかった。
赤穂城は、本丸庭園に入れるのが、午前9時。
スタンプは本丸門の内側に設置しているので、その時間じゃないと対応できない。平日の朝に訪れたのに、スタンプを押している人を3人見かけた。城ブームを実感する。


-12赤穂城.jpg駅には、大石内蔵助の辞世(こちらは実際に大石が詠んだものという記録がある)掲げられていた。


あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし


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上田城 [┣百名城]

「真田丸」に嵌まって、早、2年弱…ようやく、真田の城である上田城に行ってまいりました。


上田城-1.jpg今回は、お友達が車で付き合ってくれたので、上田駅からあっという間に現地に着いてしまったが、徒歩でも10分程度だと思う。


先に上田市観光会館に行き、百名城のスタンプを押し、ふっと後ろを見ると、NHK大河ドラマ「真田丸」に使用された衣装や刀などが展示されている[exclamation×2]
(展示物の中で、大河ドラマのポスター2点は、撮影禁止となっていたが、それ以外は、手を触れるのはNGだが撮影OK[るんるん]4月~11月の間は、城内櫓門でスタンプはいただけるのだが、ぜひ観光会館にも足を踏み入れてほしい。)


上田城-2.jpgこの日の上田は快晴だったが、数日前の雪がまだ残っていて、また気温も低く、お濠は凍っていた…[ダッシュ(走り出すさま)]


春になると、上田城周辺は、千本桜と言われる桜が満開になって、素晴らしい景観とのことだが、雪景色の上田城も素晴らしい[exclamation]
この景色を目の当たりにして、異常なテンションになった私に、友人がやや引いていた。
(いつも、お付き合いいただき、ありがとうございます[黒ハート]


上田城-3.jpgこちらは、「真田石」。
石垣に巨石をはめ込むことは、全国の城でもよく観られる光景。名古屋城や大阪城ほどではないが、こちらの真田石もなかなかの趣。


上田城-4.jpg


城内の真田神社に参拝して、この日観劇する公演の成功を祈願した後、観光会館内のお蕎麦屋さんで、こちらの「六文銭かき揚げ蕎麦」をいただいた。


さすがにかき揚げは完食できなかった…が、美味しかったです[黒ハート]


極寒の上田市だったが、公演(もちろん、「HEADS UP!」上田公演)も大盛況。短いが楽しい時間だった。


とはいえ、上田城の櫓門には登れなかったので、また、温かい季節に行ってみたいと思ってます。


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川越城 [┣百名城]

スタンプ友達との年に一度の城めぐり、今年は川越城にしました[るんるん]


川越城-1.jpg 川越城-2.jpg


川越城の本丸御殿に、このスタンプが一挙掲示されていて、よしっ、頑張るぞ[exclamation]と気持ちも新たにしました[黒ハート]


川越城-3.jpgここ、川越城は、かの太田道灌と、その父、道真が築城したとされる由緒ある城。関東管領扇谷上杉領の北端の拠点のようなものだったのかも。


江戸時代は、譜代大名が配置されていた重要な城で、家康が亡くなった時(1616年)も、この川越の地で天海大僧正による4日間の法要が行われたとか。
江戸幕府にとって、重要な場所だったらしい。


建物は、明治期以降移築・解体されて、さまざまな用途で使われた後、昭和42(1967)年に大規模な修理・復元を行って公開施設となった。


川越城-4.jpg庭も綺麗に整備されていて、心が洗われる。
てか、そういえば、この日も朝は酷い雨だったが、なんか、この写真、晴れてるとしか思えない…[あせあせ(飛び散る汗)]川越城-5.jpg


赤いヘビのようなものは、現代アートで「釜なめ蛇」という川越市の言い伝えに基づくものだとか。
山本麻世さんの作品だそうです。
赤いアートと紅葉がいいコラボになっていて、しばし見とれた。


川越城-6.jpg部屋の中も、こんな風に人形を配置して、より観覧者が理解しやすい工夫がされている。
しかし、昔の建物って、風の通りがよくて、寒い…[ダッシュ(走り出すさま)]


川越城-7.jpgその後、近くにある三芳野神社へ。ここはなんと、あの「通りゃんせ」のモデルになったと言われている。
正面に鳥居が見えるが、その手前の右側に社があるみたい。
ここから鳥居に向かうこの一本道が「天神さまの細道」ということになる。
この神社は、川越城の城内にあったため、お参りするには、南大手門から城内に入る必要があった。
庶民がお城に入るとか、そりゃ、「行きはよいよい帰りは怖い」だよなぁ[あせあせ(飛び散る汗)]
いや、行きも怖いかっ[爆弾]


その後、富士見櫓跡、中ノ門堀などを訪ね、喜多院にて家光公誕生の部屋や春日局化粧部屋などを拝観、蔵の街も散策して、小江戸と呼ばれる川越を満喫した。


詳細は、後日、「写真帳」の方にアップします。


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篠山城 [┣百名城]

JR宝塚線の終点、篠山口(ささやまぐち)からバスで15分ほどの場所にある篠山城(ささやまじょう)、いつかは行こうと思っているうちに、3年も経過していた。今回、大劇場公演が高騰していたので、思い切って城めぐりをしてみた。


篠山城-1.jpg 篠山城は、慶長14(1609)年に、大坂城包囲を目的として徳川家康が築城した天下普請の城。
大坂夏の陣以降は、譜代大名の治める城になったとのこと。


写真は、鉄門(くろがねもん)の跡。この先にあるのが、大書院(おおしょいん)。1944年に焼失したが、2000年に寄附等によって再建された。


中はかなり広くて、けっこう長い時間楽しめた。入館料は400円。近隣施設4館に入れるセット券600円がお得かも。 


大坂夏の陣前に突貫工事的に造られたため、天守台はあったが、天守閣は築かれなかった。
江戸時代になると、当然、天守閣は不要のものとなるので、そのままこんにちまで天守台が残されている。


篠山城-3.jpgということで、天守台に行ってみる。


私、実は、すごい雨女。
しかし、城に行くと、いつも、晴れてくるような…[あせあせ(飛び散る汗)]
バスの中で振り出した雨は、大書院に入る頃には、けっこうな降りになっていた。しかし、大書院を出た時には、雨が止んでいた[かわいい]篠山城-2.jpg


何故だろう[exclamation&question]
私と城の相性がいいのかしら[exclamation&question]


ここまでくると、もう晴れているとしか思えないけど、雨が降っていた証拠に、足元は水たまりになっておりました…[たらーっ(汗)]


篠山城-4.jpg篠山城の施設で、後世まで残った建物は先ほどの大書院だけ。
建物の再建は、立体的な設計図がないとできない、ということを山形城で学んだが、篠山城の二の丸御殿も平面図しか存在しなかったため、平面表示の工法で整備された。
たしか、仙台城(青葉城)も同じような平面表示になっていたけど、芝生や植栽を交えて、庭園のように整備されていたので、さらに散策が楽しかった。


バス停周辺のお店もフレンドリーでステキな場所ばかり。食べるものもみんな美味しかったので、宝塚に来るついでに、時々訪れてみようかな、と思っている。


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山形城 [┣百名城]

せっかく山形まで行ったので、百名城のひとつ、山形城に行きました。


山形城-1.jpg山形駅から、徒歩で10分くらいかな…。新幹線の駅から歩いて行けるお城っていいですよね[わーい(嬉しい顔)]


こちら、歩いている途中に撮影したもの。
山形は、もう紅葉が始まってる[exclamation]
でも、気温的には、それほど寒い感じではなく、ひんやりした空気が気持ちよい感じ。


山形城-2.jpg山形城の跡は、現在、霞城公園と呼ばれている。


現在、本丸御殿の発掘調査を行っているのだとか。
山形城は、特に災害などで壊れたのではなく、江戸時代中期以降、城の維持が困難になっていったらしい。


こんな感じで発掘現場も見学できる。
今後は、絵図面をもとに、発掘で位置を確認し、本丸御殿の間取り図みたいなカタチの広場を作る予定とのこと。(立体図面がないので、復元ができないため)


現在、復元されている本丸一文字門へ行ってみる。
桝形虎口から高麗門を臨んだ写真。(てか、高麗門しか撮影してないし…[がく~(落胆した顔)]


山形城-3.jpg平成26年に完成したというから、まだ3年前。
道理で美しい。


山形城-4.jpgこの門を出ると、その先に山形市郷土館(旧済生会本館)がある。
西洋医学によって運営されていた。
現在は、済生会時代の史料も展示しつつ、その他、山形市の歴史などもわかるように整理されている。


山形城-5.jpgこちらは、山形城主だった最上義光(もがみ・よしあき)の騎馬像。
直江兼続が攻めて来た際、義光自身が陣頭指揮を執った時の雄姿だそうです。


そして、最後は、二ノ丸東大手門。
櫓門の中を見学することができ、そこで案内の方のお話をお聴きすることもできる。私が千葉から来たと言ったら、すぐに、山形城の歴代藩主には、堀田氏もいたんですよ、と教えてくれた。(堀田氏は後の佐倉城主)


朝10時前だったが、けっこう散策&見学している人が多くて、城好き、やはり増えてるな~と実感した。


 


山形城-6.jpg


 


 


 


 


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