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「いとしの儚」観劇 [┣演劇]

「いとしの儚」


作:横内謙介
演出:石丸さち子
美術:松生紘子
音楽:かみむら周平
振付:多和田任益
照明:山口暁
音響効果:天野高志
衣裳:西原梨恵
ヘアメイク:武井優子
演出助手:本藤起久子
舞台監督:久保年末、岩戸堅一(アートシーン)


三途の川の渡し場で、次の舟が出るまでの時間潰しとして、青鬼(久ヶ沢徹)が語り出す一人の博徒の物語。
鈴次郎(鳥越裕貴)は、無敗の博徒だった。ただ、人間としてはクズ。負けた相手をとことん追い込むので、各所で恨みを買っていた。ある日、博打好きの鬼・鬼シゲ(辻本祐樹)にも勝ってしまい、鬼シゲは、代償として、鈴次郎の好みの女を提供することに。
墓場の死体と赤ん坊の魂をもとに鬼婆(原田優一)が、ひとりの人間を作り出す。「儚(はかな)」という名で鈴次郎の前に投げ出された娘(鎌滝恵利)は、身体は大人だが、赤ん坊のように寝転がって泣くだけだった。鬼婆は、鈴次郎に、「身体と魂が完全にひとつになるには、きっかり百日が必要。それより前に女を抱けば、その瞬間に彼女は水になってしまう」と伝える。
鈴次郎は、大きな赤ん坊などいらない、と言うが、彼の温もりを求めて泣き叫ぶ儚に、つい仏心を出してしまい育てることにする。数日経つと、儚は、鈴次郎と同じ暴言を口にするようになるが、花や鳥に興味を示す優しさもあった。さらに、歩けるようになっても温もりを求める儚の行為は、若い男である鈴次郎には刺激が強すぎて、我慢の限界を超えた鈴次郎は、遊郭を訪れる。
おとなしく待つように言われていたのに、鈴次郎を探し始めた儚は、狂ったように別の女を求める鈴次郎を見てしまい、どうして自分にも同じことをしてくれないのか、と詰問する。鈴次郎は、儚の生まれを本人に暴露し、そんなに言うなら、今ここでお前を水にしてやろうか、と儚に挑む。儚は、そこで、自分は水になんかなりたくない、生きて人間になりたい、と、キッパリ言い返す。
ここで、儚を偶然目にした、僧侶の妙海(原田優一)は、二十両の金で彼女に一人前の教育を授けてやろうと言う。読み書きだけでなく、楽器や舞や、夜伽の秘術まで、すべて授ける…と。


演劇を観る時、誰かひとりにぐわっと感情移入することはあまりなくて、どの人物に対しても、あーわかる、とか、こういう風に考えるんだー、とか、わりとフラットに観ていることが多いのだが、今回は、「クズ」と書かれている鈴次郎にめちゃくちゃ感情移入してしまった[あせあせ(飛び散る汗)]
こんな風になるのは、「WEST SIDE STORY」のチノ(大空祐飛)以来かもしれない。


「この作品を観てほしい」という、主演・鳥越裕貴の強い思いは、SNS等でも流れていたから、よく知っていたが、鈴次郎という登場人物の思いと、鳥越裕貴という俳優の思いが交錯して、なにか、奇跡が起きたような、そんな瞬間が何度もあった。
博徒である鈴次郎にとっての「博打」が、鳥越にとっての「演劇」に近い存在だから…なのかな。
好きとか、そんなレベルではなく、それなしで生きていられない、生きることとイコール、みたいな。


鈴次郎は、親の愛も知らず、教育も受けず、友達の一人もいない。失うものが何もないから、博打に強い。そんな鈴次郎が、「儚」という「愛するもの、守るもの」が生まれた途端、勝てなくなる。
勝てなくなった鈴次郎に、教育を受けた儚は、「まじめにこつこつと生きていく」ことを切々と説く。
でも、それは、鈴次郎にとって、「人生」といえるのだろうか。「愛する人と一緒に生きていくこと」は、最高の人生なのだろうか。ことが「博打」だから、共感を得られないが、「演劇」だったらどうなのか。「愛しているから、演劇をやめて、私と一緒にこつこつと生きてほしい」と言われた時、彼は、それを選ぶだろうか。コロナ下の演劇人すべてに突き付けられているような問いを、演出の石丸さんが、ここに込めなかったとは思えない。

鈴次郎は、「丁半博打」の目を読む。確率論ではない。彼には、鈴の音が聞こえるのだ。その音に従って、賭けるだけだ。100%答えの分かっている博打は、楽しいだろうか。楽しくない。だから、彼は、勝ち続け、荒れ続ける。しかし、鈴次郎は博打を辞めない。
それが、彼にとって「生きること」だからだ。
鈴を鳴らすのは、「運命の女神」のような賽子姫。おお、LUCK BE A LADY[黒ハート]
鈴次郎は、徒手空拳だったから、運命の女神に愛された。が、儚が鈴次郎にとって大切な存在になる(彼女の命を救うために奔走するとか…)と、運命の女神は鈴を手放してしまう。
賭けに負けて、儚を女郎屋に売り飛ばした時、再び、鈴の音が聞こえてくる。というのは、話の設定として、すごく深い。儚を愛することが「ダメ」なのではなく、それによって、人の心を取り戻すことが「ダメ」なのだ。
だから、百両の金のために、妙海を殺すことではなく、そのあとに、最後の博打にするから、これから二人でまっとうに生きていくと約束するから…と、儚に言ったことで、彼の最後のツキが消える。言った…というか、嘘ではなく、心からそう言ったから。


百両の金も取られ、とうとう、負けたら鬼になるという賭けまでしてしまう鈴次郎。
儚が人間になるまで、あと数時間。(夜が明けたら百日目になって、人間になれる。)しかし、その同じ数時間後に、鈴次郎は鬼になると決まった。
人間として、鈴次郎と儚が対峙する時間は、1分もまじわらない。
最後に、儚と語り合う時間を…と、鬼シゲはその場を立ち去る。その時、鈴次郎と儚の胸に去来した思い…


パワフル演出家、石丸さち子ゆえか、儚の「人間になりたい」エネルギーはすごい。
人間になりたい、というよりは、より正確には、この素晴らしい世界に、もっと生きていたい欲だ。
遊郭に売られても、妙海に授けられた秘技を使って「させず太夫」として名をはせる。相手が“殿様”(辻本祐樹)であっても、一歩も引かない。
その生きる欲は、知らない世界を知りたい欲でもある。妙海がいくら教え上手であっても、立ち居振舞いや言葉遣い、読み書きだけでなく、文学や音楽、舞に至るまで身につけるのは、それが儚にとって、楽しいことだったから。
ただ、儚にも泣き所があって、それが、鈴次郎だった。
刷り込みということもあるのだろう。知らない世界を知りたい儚にとって、鈴次郎が、「自分にしてくれないこと」を遊女相手にしているのが、つらかったのもあるだろう。
しょせん、生まれて百日の狭い世界ということもあるだろう。
それでも、儚にとって、鈴次郎は別枠だった。
彼女は、鈴次郎に恋をしていて、鈴次郎だけが、儚にとって、世界を手放してもいい存在だったのだろう。恋というのは、いつだって理不尽なものなのだ。


儚の決断は、それでよかったのかな~という気が、人生を重ねてきた私には、ちょっとするのだけど、ラストシーンの鈴次郎の表情に心が洗われたような…そんな気持ちになった。私にも、こういう心が残っていたのね[黒ハート]
とはいえ、「女にして」というセリフは、パワフル儚には、ちょっと似合わないかな。「させず太夫」が、その瞬間に、生きるエネルギーでなく、鈴次郎への操立てになってしまう。それに「女になる」は「女として生きていく」前段階のものであって、それがイコール死であるなら、女になるというのは、変な言葉だと思う。


この「いとしの儚」は、扉座という劇団の公演用に書かれた戯曲であるため、登場人物が多い。それを6名のキャストが演じるため、いろいろな離れ技が使われているのだが、「キオスク」観てる私としては、石丸さんならやりかねない…という感想。
ってことは、原田さんポジションがゆうひさんだったの[exclamation&question]


鈴次郎役の鳥越裕貴。「眠れぬ森のオーバード」の時も思ったけど、この人の出る芝居は、とりあえず、買っておいて損はないな、と。クズな側面にも嘘がなくて、それでいて、目を背ける気にはならなくて、凝視してしまう。魅力的な鈴次郎だったし、魅力的な俳優だな~と改めて思った。
儚役の鎌滝恵利。声とかセリフとか、理想の女みたいなものに寄せてなくて好感がもてた。生まれっぱなしのまっすぐな儚だな~と思った。妙海に育てられて以降は、着物での所作が素晴らしくて、ここはものすごく感心。あと、これは、演出への感心なのだが、着物の下に薄いピンク色のステテコ様のものを身に着けていて、裾がはだけても、肌が見えない。思い切り演技をしてもらうために大事なことだと思う。


辻本祐樹、中村龍介、久ヶ沢徹…と、イケメンオンパレードの舞台だったが、予想通り、全部持って行ったのが、原田優一
地蔵菩薩オンステージは、夢に出るレベル。原田さんには、誰も勝てんな~[わーい(嬉しい顔)]


さて、誰よりも良い人間になってしまった鈴次郎は、これから鬼としてちゃんと生きていけるだろうか。


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