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宝塚歌劇宙組東京公演「風と共に去りぬ」観劇 [┣宝塚観劇]

宝塚グランドロマン
「風と共に去りぬ」

原作:マーガレット・ミッチェル
脚本・演出:植田紳爾
演出:谷正純
作曲・編曲:入江薫、吉田優子、河崎恒夫、都倉俊一、寺田瀧雄
編曲:鞍富真一
音楽指揮:清川知己(第一部)、御崎惠(第二部)
振付:羽山紀代美、尚すみれ、若央りさ、岡正躬、喜多弘、黒瀧月紀夫
装置:関谷敏昭、渡辺正男
衣装:任田幾英、小西松茂
照明:今井直次
音響:加門清邦
小道具:今岡美也子
演技指導:榛名由梨
歌唱指導:楊淑美
マーチング指導:川口尚
演出助手:生田大和、樫畑亜依子
舞台進行:青木文、香取克英

宝塚グランドロマン「風と共に去りぬ」は、しばらく全国ツアー用の演目に回っており、大劇場公演は、1994年の月組公演以来となる。
さて、私は、初見が1984年で、以来バトラー編だけでも、94年の月組、97年の花組全ツ、2001年の星組全ツ…と、観ているため、宝塚の「風…」はこういう作品だと思っていて、特になんの疑問も持っていなかったが、宝塚の「風と共に去りぬ」を初めて観るという友人も多く、そんな人の感想は、まさに目からウロコだった。

「なんで、映画の名場面がひとつもないの?」

と聞かれ、私は、そういえば…と、初めて気づいた。
ヒロイン、スカーレットは、未亡人になってアトランタを訪れる。それが、この舞台における物語の導入部だ。アシュレは既に入隊しており、スカーレットとアシュレはゲティスバーグの戦場からアシュレが帰還し、休暇を終えて帰る日まで顔を合わせることはない。
トップスターが演じるレット・バトラーと、スカーレットの初めての出会いのシーンも登場しない。
そうか、普通に観たら、これ、最悪のダイジェストなのか[exclamation×2]

この通称・バトラー編は、「ベルサイユのばら」と違い、1977年の初演から、脚本がほとんど変わっていない。
私は、初演は観劇していないが、クラスメイトが後に鳳蘭さんの大ファンになり、その友人からツレさんの過去の名場面をすべて暗誦されるという拷問を受けていた。なので初観劇の1984年には、あまりに友人演じるツレさんそっくりの麻実れいさんの演技に、身体を折ってウケてしまった。
そんな風に、少女時代の延長で宝塚の「風…」に接した私は、特に疑問もなく、このドラマに接してしまったのだが、たしかによーく考えれば、非常にイケてないダイジェストである。

一応、原作はマーガレット・ミッチェルとあるが、映画にない場面は存在しないので、映画からのダイジェストと考えていい。(原作ではスカーレットは三度の結婚のそれぞれで、子供を一人ずつもうけているが、映画ではバトラーとの間にしか子供を産んでいない。そして、この舞台でも、未亡人のスカーレットに出産経験がないという台詞が入っている辺り、映画の方を下敷きにしていると思われる。)
その映画版の冒頭には、娘時代(戦争前)のスカーレットのあれこれが、非常にコンパクトに生き生きと描かれている。スカーレットという女性が、どうして男性にちやほやされているのか、女性に嫌われているのか、南部の若者は何を考え、どう生きていたか、そして、スカーレットとアシュレのそもそものいきさつ、レットとの出会い、すべて簡潔に描かれていた。
初演時、著作権を管理していた遺族から、“原作にない場面を入れない”“原作にない登場人物を出さない”という条件を出されていた植田先生、映画という完璧なお手本を冒頭からなぞるのでは、二番煎じになってしまうということを考慮し、考えに考えて、あの脚本を編み出されたのだろう。あの頃は、あの映画を知らない日本人はほとんどいなかったから。
(ちなみに、映画は小説の出版から3年後のことで、その時、原作者のミッチェルはまだ存命だった。著作権者=作者本人である期間は、変更も追加も作者の許可を取ればいいのでやりやすい。)

しかし、南北戦争を南部の富裕層を通して見る、という世界観は、今の時代、差別観を助長するものとされてしまっている。アフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)のステレオタイプ的な描き方(ex.プリシー)は、既にアメリカを中心とする映像社会ではタブーとなっている。
そのため、今では、『風と共に去りぬ』を見たことのある人の方が少なくなってしまった。『風…』のテーマはそこではないのに、残念なことだ。

植田先生は、著作権者の意見を考慮しつつ、映画とは違う『風…』を作ろうとし、スカーレットIIというキャラクターを出すことを思いつき、舞台セットも、数ヶ所の出来事が同時進行するイメージを持たせようと、左右に螺旋階段のあるセットが出来た。
そしてスカーレットIIが一番生きる=スカーレットが一番思ってることとやってることが違う時=意に沿わぬ結婚の果ての喪中からスタートすることにしたのだと思う。
その上で、男役が演じるスカーレットと、その心中を的確に表現する、娘役演じるスカーレットIIのコンビで、従来型の宝塚ヒロインとは、ちょっとタイプの違うスカーレットという女主人公のスケールを表現しようとしたのだろう。

でも、あれから30数年…さすがに厳しいのかなーと、友人たちの意見を聞いて感じ始めた。
私は、色々と補完しながら観ることができる。過去の公演や、映画を何度も観ているから。
でも、映画も過去の公演も観ていない人には、この脚本、通じないのかもしれない…と。
ただ…植田先生には、もう、作品を書き直す能力は残されていないみたいなので、書き直したらきっと劣化するだろうなーとも思う。その辺は、恐ろしいが来年の梅芸が証明してくれるってことかもしれない。

さて、植田先生の“宝塚グランドロマン”は、別名、“植田歌舞伎”と言われている。
実際、歌舞伎の先代尾上松緑丈に演出を依頼したり、東宝歌舞伎の長谷川一夫で『ベルサイユのばら』を成功させたりしている。
歌舞伎というからには、型がある。
で、この“型”が伴っていないと、『風…』という芝居は妙に気持ち悪い。
『ベルばら』以上に気持ち悪い。
どうしてなんだろう?と思っていたが、こう考えてきて、だんだん分かって来た。
ストーリーは、植田先生流にダイジェストされているが、人物の心の動きが、それに全く伴っていないのだ。言われてみれば、漫画で、コミックス10巻弱の『ベルばら』。それに比べ、『風と共に去りぬ』は、文庫本5冊!

風と共に去りぬ (5) (新潮文庫)

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  • 作者: マーガレット・ミッチェル
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1977/08/02
  • メディア: 文庫

映画だって、3時間42分の超大作!

風と共に去りぬ [DVD]

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歌をふんだんに入れ、フィナーレナンバーも付く宝塚歌劇で2時間半に凝縮した時に、植田先生は、登場人物の“心”をどこかに置き忘れ、スペクタクルのみを舞台に残したのだ。
それは、全段上演を捨て、おいしいとこどりで上演するのが常となった歌舞伎座の舞台より、感情がつかみにくい。
役者が、登場人物の繊細な心情を表現しようとしても、それだけの時間が与えられていないのだから、繊細にすればするほど、客席には伝わらない。
伝える方法は、ただひとつ、“型”で見せること、しかない。

納得[exclamation×2]

宙組メンバーの“型”との格闘については、次の記事に続く。


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