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宝塚歌劇月組東宝公演「暁のローマ」観劇1 [┣宝塚観劇]

今日まで作品の本質について敢えて触れずに東京公演を応援してきたが、もうそろそろいいだろう…ということで、作品論です。

ロック・オペラ「暁のローマ」
-「ジュリアス・シーザー」より-
脚本・演出:木村信司
作曲・編曲:甲斐正人
音楽指揮:伊澤一郎
振付:羽山紀代美、竹邑類
装置:大田創
衣装:有村淳
照明:勝柴次朗

本作品は、シェイクスピアの歴史劇「ジュリアス・シーザー」をもとに、木村信司が潤色したものである。副題に「ジュリアス・シーザーより」とあるし、「作・演出」ではなく「脚本・演出」となっている。オマージュではなく「Based On」である。
というわけで、もし、私がシェイクスピアなら、化けて出ていたと思う。
(実際のW・シェイクスピアは、「なんでもあり」を楽しめるお人柄だったことが作品からもうかがえるので、決して目くじらを立てるようなことはないと思うが)

まず、この作品の大きな特徴は、コロシアム風の装置である。これが三分割されて多少前後に動く。が、消えてなくなるわけではないし、可動式にするためのレールも敷かれている。このため、セリも盆も使えない上、激しいダンスも危なくてやれない、宝塚歌劇の特長が封印されてしまっている。これは、「やってはならないこと」とは言えないが、「やるからには、それ以上の効果が生まれなければ意味がない」と思う。
次に、登場人物の少なさ、特に女優に見るべき役がない点だ。シェイクスピアの時代には女優がいなかったので、女性役は声変わり前の少年が演じていた。日本のように「女形」という芸が発達していれば、複雑な女性像も造型できただろうが、シェイクスピア劇においては、女性に複雑な演技力はいらない。(逆にいうと演技力のない人でもドラマチックに盛り上げられるセリフ作りの上手な作者だったともいえる)木村の脚本は、それをそのまま踏襲している上、宝塚のスターシステムに中途半端に配慮してしまった。
そして、木村信司お得意の「主張」、今回は、エンターテイメント性を重視しているため、これが中途半端に挿入されている。入れないなら、まったく入れないでほしかった。

 これらの結果、および、木村の言語能力(歌詞センス)の問題により、作品は著しく陳腐なものになってしまった。

全体論はそんなところだが、個々の人物・場面にもそれぞれ問題がある。

まず、本作のテーマだが、「君主制か」「民主制か」に尽きると、木村は言っている。(byプログラム)
しかし、全国民が一同に会することができなくなった時代から、民主制は代議制となり、民主主義として成長していった。ローマはその第一歩である。そして、君主制と民主主義は共存可能であって(明治時代の日本などはまさにこれだった)、「君主制」と共存できないのは「共和制」であろうと思う。
「共和制」信奉者ブルータスは、だから、「君主」になろうとするカエサルを暗殺したのだ。
欧米で16-19世紀に起こった市民革命は、立憲君主国・共和国の二つの結果をもたらしたが、どちらも「民主主義」を根本に成立した。
民主主義とは、「みんなで決める」主義だが、とはいっても普通は「みんなの代表が話し合って決める」。それも重大なことでなければ、「みんなが決めた代表が決めた代表者に一任」される。
つまり、それがカエサルだ。
だから、民主主義者ブルータスは、それだけでは、カエサルを殺せない。カエサルの独裁は人々の総意だからだ。

では、なぜ、ブルータスはカエサルを殺したのか?
「王になろうとしたから」
王冠に手を伸ばさなかったのに?自ら王とは名乗らなかったのに?
「カエサルの子は、カエサルの名を継ぎ、ローマを治めるだろう」
と言ったからだ。
ブルータスだけが知っているカエサルの本心がそうだったからだ。
名を継ぎ、地位を継承する。それが王の最大の特徴だからだ。

さて、ここに一人の青年がいる。
彼はカエサルの副将である。名はアントニウス。カエサルに憧れ、共に戦い、後を継ぐつもりだったらしい
そのアントニウスがカエサルに王冠を捧げる。
でも、それだと、後が継げないかもしれない。
養子になる約束でもしていない限り、王になったカエサルの後継は難しい。
狡猾なアントニウスが後先考えずに王冠を捧げるだろうか?

カエサルの死後、ローマは皇帝が治める国になった。が、皇帝は最終的には元老院が指名した。前皇帝の直系の子孫が指名されることは、あまり多くなかったようだ。
しかし、これは結果であって、カエサルが志半ばで斃れたことも影響している。カエサルが、自分を初代皇帝としてローマ帝国を作っていたら、完全な世襲になった可能性もある。権力を持ったカエサルはうるさい元老院を殲滅しただろうからだ。

そう考えると、アントニウスの行動と歌が納得性を失う。

一方、ブルータスは、元々人気・名声があった。
なぜか、というと、これは原作にも出てこないが、どうやら、ブルータスは、王制を廃した伝説上の人物の直系の子孫だったという噂があったようだ。
ローマに民主主義をもたらした人物の子孫。ローマの民主主義を守るべき存在。
…ということが、描かれていれば、彼がいささか神経質なくらい潔癖に、君主制を否定した理由がわかると思う。民主主義はローマにとって絶対に必要ではないかもしれない。が、それを守り、それに殉じることは、ブルータスの使命だったのだ。

ところが、ブルータスは「男はみんな王になりたい」というみょうちくりんな歌を何度も歌う。奥さんも歌う。
そのブルータス、カエサルには「せめて嘘をつくな」と歌っているので、たぶん、正直者だと思うのだが、 奥さんに問い詰められて「私は王なんかになりたくはない」と答えている。
「じゃ、みんなじゃないじゃん」と、おそらく、劇場中の観客が突っ込んだと思う。
「みんな」っていうのは、AllであってMostlyじゃありません。
そして、「みんな」の応用範囲が広ければ広いほど、その人はお子様になります。「みんなやってるもん」「みんなが言ってるもん」の「みんな」ですね。大人は恥ずかしくて使えません。
ヒーローとして登場したはずのブルータスが、「お子様」か、もしくは「男じゃない」
(男=王になりたいということは、王になりたくない=男じゃない、です)

それと、奥さんに自分の思いを整理してもらって、なにをなすべきか、はっきりとわかるってのはいいとしても、その後のあの歌はなに?
「愛 愛 愛…」と能天気な歌は…。
仮にもこれから人を暗殺する時に。
にこにこと幸せそうに愛を歌って暗殺を決意する夫婦って異常ですよ。

しかも、演説がひどい。
あんなものに感動するのは、オトモダチでキョウダイのあの方だけですね。
なにしろ、言葉を尽くして説得していくべきところを、使いまわしの歌ですませようとしてるんだから。
そりゃ、新曲、しかもあれだけの長回しの曲で勝負したアントニウスに敵うわけがない。アントニウスの演説は、ディベート術の限りを尽くしたもので、しかも耳に心地いいというのに。
世紀の対決のはずが、一方的に敗北したというのは、かなり情けなかった。

原作でもよくわからないのが、カシウスの発言の方が正しいと思われる場面でも、ブルータスが何か言うと、カシウスが折れてしまうシーンが繰り返されることだ。
これは舞台では「アントニウスも殺すか」の一点だけになっているので、それほど気にならないが、どうもシェイクスピアは、ブルータスは、いい人だったが無能だった、と言いたいのかな?という気もする。
カシウスが20日ほど前に死んだのは、アントニウス軍に追い込まれたからだが、その時、実はブルータスはオクタヴィアヌス軍を大きく攻め込んでおり、全体的には勝っている状態だった。
しかし、カシウスは、全体を確認しないで死を選んだ。自分が負けているんだから、ブルータスはもっと負けているに違いないと思ったのだ。信用されてなかったのね、ブルータス…という部分がカットされたのは、まあ、仕方がないかもしれない。
ちなみに、カシウスも「王になりたい」派ではない。ということは…男じゃなかったのか…。
彼は、中臣鎌足と同じ、ナンバー2になりたいタイプ。柴田先生もそうだが、ナンバー2になりたい男を「王になりたい」男と勘違いするっていうのは、宝塚の演出家世界って男性社会じゃないのかなぁ。

またオクタヴィアヌスとアントニウスの確執も中途半端だ。
みっちゃんの朗々としたソロをあの位置に置いたのはいいが、その後、仲良くブルータスの死に立ち会うというのが、いけてない。オクタヴィアヌスはすっかりアントニウスの部下みたいな扱いになってるし。
それに、前にも書いたが、彼が遺言書に目を通さないのは、どうしてもおかしい。「カエサルの甥ではなく息子になった」とは告げられたが、「カエサルの名はオクタヴィアヌスが継ぐ」っていうのは、アントニウスは言わなかった。
だから、その後の独白にこのことが出てくるためには、彼は遺言書を読んでいなければおかしい。
そして、「カエサルの名はオクタヴィアヌスが継ぐ」を読まない限り、ローマ帝国を築く、という目的は見えてこない。(ただしこの時点で「ローマ帝国」と表現してしまうのは乱暴だと思うが、そこはロックオペラの誇張と考えてもいい。)

で、ラストに仲良くブルータスの死に立ち会った二人は、「これこそ人間だったのだと」と、アントニウスが結んで終わる。
それはシェイクスピアも同じなのだが、そこに至る過程が長い(戦争のシーンが挟まるから)ので、納得できる。この芝居ではあまりにも唐突なのだ。中臣鎌足だって、蘇我入鹿を謀殺した後は、いろいろと言い訳を言っていた。アントニウスときたら、ヒトゴトである。この展開で、これはどうなんだよ、と思うわけだ。

それから、ポルキア。
原作では、かなり夫を焚きつけている。だから、夫がアントニウスに攻められたのを知り、そのショックで自殺する。自分が夫を追い詰めたのだ、ということで。
ところが、本作のポルキアは、夫を焚きつけてはいない。
だから、罪の意識を感じるはずがないのに、狂ってしまっている。
夫が心配なあまり、狂ったのだとしたら、カエサルの血が落ちないとか、そういう狂い方はドラマとしておかしい。この狂い方は、ダンカン王の暗殺を焚きつけたマクベス夫人の狂い方だからだ。

最後にローマ市民。みんなが男言葉を使ったのは(女役さんも)、ローマ市民としての権利と誇りを持つのが男性のみだったという史実と、女役の出番が少ないこと、あと人数は多くして迫力を出したいということだったのだろうか?
「カエサルの遺言を聞かせてくれ」と叫ぶのは、どうかと思ったが…。

そんなわけで、この作品の中で、唯一、突っ込む必要がなかったのは、カエサルだった。

ま、あとは、前にも書いたけど、レピュドスとか、パブリアス・キンベルとか、誰だよ~!っていう人が会話の中にぽっこりと出てくるのが、ちょっとねーと思ったことかな?

唯一、動いている舞台装置がセリだったので、多用することになっていたが、コロシアム風舞台装置も、たまには悪くないな、とは思っている。

【去年の今日】
お酒を飲んだ話。
ここに出てくる「南」というお酒。先日、コリドー街でも見つけてしまった。
ヅカファンのみなさま、おいしいお酒なので、ぜひ飲んでみてください。


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でるふぃ

夜野さま、そうです、私も言いたいです!
ストーリーの展開が不満です。安易にまとめようとしている。
それでも、月組生と轟さん、がんばりましたね~、特に、あさちゃん。
色の濃いアントニウスやカシウスに比べて、難しい役でした。JAZZYでも同様だったと思いますが。

私の不満の一番は何だろ?と考えていて、それは陳腐なエンディング。
プロローグで、きりやんは歴史には善も悪もない、というようなことを言ってる、それは、ほんと。
でも、夜野様のおっしゃるように男はみんな王になりたいわけではないのですよ、あの時の男たちだって。
トップになりたい人もあれば、ナンバー2になりたい人もいる、経済的に安定していれば、寄らば大樹の如く、のんびり大衆の一人で安住していたい人だって多いはず。
こういう事件があったけど、やっぱり人間はそれぞれ、人間の野心はいろいろ・・・それぞれの登場人物が自分の好きなこと歌って、でも人生を愛している、あの人のことは好きだった、とかなんとか。
同じ愛でも、そういう曖昧だけど自然な中で終わるなら、納得できた。
それぞれの人物が魅力的にわかりやすく演じられていたら、それでよかった。
それを愛、愛・・私は愛した、愛された、それでいい、って、敵も味方も揃って明るく仲良く歌いながら終わるなんて・・
シンプルにしすぎ!

そして、漫才もちょっと・・・きりやん、みっちゃんに文句あるわけではないけど、唐突で、私は抵抗がありました。
歴史は狂言回し的人物がいる方が確かに締まりますよね。
女性の出番が少ないのなら、ポルキアやセルヴィーリア(絵理さん)にストーリーテラーになってもらって、随所で、
男の素晴らしさ、馬鹿さを語るなんて展開にしてくれるとおもしろかったのでは。
これはあくまで一つの私の案ですけど、とにかく、もっと他の、この作品に相応しい作り方があったのでは、と思ってます。
シェークスピアなんだから!
それでも、月組、よくがんばった!と、こういうシンプルな結論で終わりにします。
by でるふぃ (2006-08-24 08:35) 

夜野愉美

でるふぃさま
そうですね。「野心はいろいろ」っていうでるふぃさまの言葉がすーっと胸に落ち着きました。
「男はみんな王になりたい」じゃなくて、「男はみんな野心を持つ」がテーマならよかったのに。
でも、出演者のみなさんの頑張りで、本当に素晴らしい舞台になったと思います。喜んでいいのか、どうかは複雑ですが。
by 夜野愉美 (2006-08-25 00:31) 

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