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「ローマの休日」感想 その2 [┣宝塚観劇]

宝塚歌劇雪組東京特別公演「ローマの休日」感想、その2です。
その1は、こちらです。

映画を原作とした舞台、ということで、今回の舞台では、セットだけでなく、映像(画像)を使用した紗幕が多く使われていた。
ローマの街角や、大使館の一室などが画像。有名なヴェスパ(スクーター)を使っての市内観光は、バイクの動きに合わせて、映像が飛び去っていくカタチに。
「ローマの休日」は、映画の物語を観ながら、バーチャル市内観光もできちゃうところが、ウリと言ってもいい映画だが、舞台と映画の違いがここに如実に顕れた。
映画は、ホンモノを背景にして撮影ができる。でもスクリーンに映写されているのは、ただの映像で、本物の俳優がリアルにそこにいるわけではない。
一方、舞台は、ニセモノの書割を背景にしているが、本物の俳優がリアルにその場で演技をする。
そこにバーチャルな映像を加えてみたらどうか…というと、もっとお金をかけてもっとすごいバーチャルを提供したら違うのかもしれないが、正直、今回の映像は肩すかしだった。
ただ、ラストシーンの背景画はすごくよかったので、本当は、この作品、バーチャル映像や、リアルっぽい画像ではなく、少しレトロなセピア色の絵的な背景がピッタリなのかもしれない。それならオープニング映像とも親和性が高いし。
とすれば、そもそもヴェスパの背景がバーチャル映像である必要、あったのかしら[exclamation&question]
たとえば、ローマ市内の地図を背景にするとか、そういう方が、作品に合っていたんじゃないだろうか。
登場する背景同士に親和性が低かったこと、カーテン前的に使われた画像がピンボケだったこと、など画像の背景使用については、まだまだ問題点が多い。書き割に比べて安価で持ち運びの必要がないなど、画像を使うメリットは多いが、それであれば、セットを使うシーンとの絵的親和性を高め、同じ画像を使いまわしたりせず、シーンごとに細かく使い分けるなどの配慮は、今後していく必要があると思う。
もちろん、なんでもかんでも画像を背景に使用しなくても、カーテン前で屋外のシーンをやったって問題ないと私は思う。でも、画像を使うなら、ちゃんとした画像を使ってほしい。宝塚の観客は、オペラグラスを上げっぱなしだってこと、スタッフの皆さんは、理解してるかしら[exclamation&question]

さて、今回のミュージカル作品、「脚本・演出=田渕先生」と言いつつ、シーンの9割は映画から持ってきている。
そして、残りの1割、映画と変えた部分がすべて、つまらなかった。
あ、このニュアンスいいな~と思ったら、すべて映画にある場面だった。
それだけ、素晴らしい映画なのだろうと思うが、ちょこちょこ変えているせいで、そもそもの設定が死んでしまった部分も多かった。
たとえば、ジョーがぴーぴーで、アーヴィングがお小遣いに困っていなくて、ジョーにすんなりお金を貸すところ。事件の夜、賭けポーカーでアーヴィングが大勝ちして、ジョーはそれを見て知っている…というエピソードをカットするから、なんとなく腑に落ちない場面になっている。
また、そもそもアメリカに帰りたくて、トップ屋稼業をしている「こじらせ」設定が、子供からカメラを奪い取ろうとしたり、アーヴィングにカフェであれこれやってしまう場面から、笑いを奪う。
ジョーは、ローマ生活を楽しんでなきゃ、だめなんだ…[ひらめき]
観劇後、家で「ローマの休日」映画版を見直して、思ったことは、それだった。たしかに、彼は、独占インタビューに成功したら、アメリカへの片道切符だ!と言っている。でも、嬉しそうだったし。こじらせてる人は、もっと必死だよな、と。
その必死な部分が、早霧の役作りにはあって、それは、この脚本からはものすごく正しくて…でも、子供からカメラ取り上げようとしたらダメだろう…[爆弾]と。いや、むしろ、こここそ、差し替えるべきシーンだったんじゃないだろうか。
取材となると我を忘れてバカなことも真面目にやってしまう…という記者らしいエピソードで、こじらせてない映画のジョーは、子供をなだめすかして、ちょっと借りるだけ…と言ってカメラのストラップに手をかけるが、現れた教師を見て、すごすご引き下がる。その叱られた子供のような姿が、グレゴリー・ペックだけに、なんとも可愛い[かわいい]
だが、そもそも現代感覚では、行き過ぎ[バッド(下向き矢印)]どう見ても泥棒だよ、これ[爆弾][爆弾][爆弾]
また、アーヴィングにアンの正体を知らせるまでの場面も、すべてが映画通りなのに、もやもやしちゃう[あせあせ(飛び散る汗)]
まあ、これは、男性の俳優が演じるのと、男役が演じるのでは違う、というのもあると思う。男役が演じると、注意喚起というには、あまりにも乱暴すぎるように思ってしまうのだ。
微妙に変わっていた部分として、ダンス酒場のシーンがある。アーヴィングが持ち込んだ大きなカメラに対して、映画では、ショーは撮影に協力するのに、宝塚版では既にここから取材を諦めている。ひとつ前の場面では、アーヴィングに現像に行くことを促したのだから、突然の変心である。
なんか、重たいカメラを持ってきたアーヴィングが気の毒[たらーっ(汗)]
ジョーは、アーヴィングを尊重してないのかしら…という気分になってしまった。
と同時に、田渕先生は、ジョーがアンを愛するようになるポイントをどこだと思ったんだろう[exclamation&question]と気になった。この脚本だと、ジョーとアンが二人きりになった「祈りの壁」ということになるのだろうが、それってすごく観念的な恋愛だな、という気がした。

そうそう、先ほど尊重という言葉を書いたが、尊重といえば、田渕先生は、鳳翔大を超尊重している、と思った。
私は大ちゃんが好きなので、まったく無問題だけど、大ちゃんに2曲もソロがあるなんて、ちょっとビックリした。編集長が、ジョーの特ダネに気づく場面はたしかにあった方がわかりやすいけど、歌までなくても…[あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)]
でも、漫画チックなデフォルメの多い芝居の中で、鳳翔は、ほとんど唯一と言っていい「ハリウッド映画的=ガイジン的」デフォルメの表現をしていた男役だった。二枚目としての矜持がそうさせたのかもしれないが、「伯爵令嬢」が少女マンガそのまま、「るろうに剣心」が少年マンガそのままだったことを考えると、感覚的な「つかみ」が的確な人なんだろうなーと思う。
でも、なぜにナイトフィーバー[exclamation&question]
田渕先生、自分が生まれる前は、50年代も70年代も一緒[exclamation&question]

さて、王女が帰った後は、物語を収束させるだけ…なためか、王女が去る⇒ジョーの歌、大使館での王女⇒王女の歌、翌朝の編集長とのドタバタ⇒アーヴィングの歌、王女の記者会見⇒ジョーの歌…と、シーンごとにソロがあって、ブチブチ話が切れる印象。
アーヴィングのソロもいい歌なので、あの位置に持ってきたいのはわかるが、すでに「また歌なんだ…[たらーっ(汗)]」の印象。
そして、ジョーと王女が重ねて同じ曲を歌うのも芸がない。それなら歌い継ぎの方がいいのに、頑なに「芝居⇒歌」の順を守るのは、何のためなのか…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]意味が分からない。

とは言うものの、ラストシーンのジョーの歌と、そこに登場する思い出の“アーニャ”とヴェスパの絵面はとてもよかったと思う。あれで、よかったね[揺れるハート]という気分になる。そこは、装置の大橋先生の力が大きいんだろうな。さすがです[ひらめき]

大橋先生の参加について確認しようと、プログラムを開いたら、田渕先生の演出者コメントのタイトルが、「ジョーとアンを探して…」だった。あ~もしかしたら、田渕先生は、「レディー・アンを探して」をやりたかったのかもしれない…と、ふと思った。「ローマの休日」をやりたい、ネームバリュー重視の劇団と、今の時代に合わせた展開を考えたかった田渕先生の意向のすれ違い…この舞台には、そんな側面もあるのかもしれない。本当は、オードリー・ヘップバーンをもっと前面に押し出したタイアップ企画があったということを、後になって知った。そういう梯子を外された状態で、なお、60年前の映画、でも今も生き続けている映画を現代によみがえらせる難しさがあったんだろうな…と改めて思っている。

私がせっかちなのだろうか、最近、芝居を観る時、すごく思うのは、エンディングはさっくりと終わってほしい、ということ。
他の舞台でも、終わりが冗長だと、せっかくの感動に水を差された気分になる。今回も、クライマックスの終わった後に、長々とソロが続いたことに「いつまでやってるんだ[exclamation&question]な気持ちになって、余韻のある終わり方に感じなかったのかもしれない。
これは、私の個人的な感覚なのか、色々なご意見をお聴きしたいところだ。

それでは、軽く出演者感想。
まず、この人がいなければ、この作品は完成しなかっただろう、という人から。
アン王女を演じた咲妃みゆ60年前の映画から本物のアン王女が飛び出してきたかのような、実在感が素晴らしかった。かといって、オードリー・ヘップバーンに似ていたか、というとそんなことはない。それでも、この物語のアン王女として、ちゃんと1950年代のローマに生きていた。もう、それが、この作品のすべてと言っていい。
咲妃のアンがあるからこそ、私的に残念な舞台化であっても、その精神が届いたのだと思う。
ただ、王女の持つお茶目なところとか、まだ若い王女のわがままなところとか、もっと表現できる場がほしかったな。最後に、公務をこれまで通りやるから配慮はいらないと言った王女に、本当にそれでいいの[exclamation&question]と思ってしまった。映画のアン王女は、たった一日に人生のすべてを燃焼しつくしたのだと思えたけど、舞台版では、まだまだおとなしくて。ま、それが宝塚の娘役が演じるアン王女なのかもしれない…[ダッシュ(走り出すさま)]
ちなみに、かの名台詞、「Rome. By all means Rome」については、「なんと申しましても」という訳になっていた。英語のイディオムを暗記する時、“とりわけ”で覚えていたけど、口語、しかも王女が語る言葉としては、「とりわけローマです」は変ですものね[わーい(嬉しい顔)]

ジョー役は、早霧せいな
思った以上に難しい役なんだなーと、実感。
本物の男性の質感が足りない。重さ、というか。
しかも、こじらせ設定が追加されているし。
話し方のクセも強くて、初めて、私、ちょっと苦手かも…と感じた。そうなると、歌もアレだし、一気に引く。
でも、たぶん、初見で友人たちにぼろくそ言ったのは、早霧がグレゴリー・ペックタイプではなかった、だけかもしれない、と今では思っている。
もし、もっと、早霧咲妃に似合う「ローマの休日」を作ってくれたら…もっと爽やかで、もっと切ない「ローマの休日」になっただろうな、と思う。

ビジュアルが初公開された日、一番期待したのが、彩凪翔のアーヴィングだった。
映画版のアーヴィングにそっくりだったから。
期待値が高すぎて、なかなか、彩凪のアーヴィングを認めるのに時間がかかったが、前回の武田観柳からのいい流れで、しっかり役をものにしていたと思う。ジョーがこじらせてしまった分、彼の優しさが、この作品を支えていたように思った。

マリオ役は映画とはかけ離れたキャラクターにされてしまったので、月城かなとは、いろんなものをかなぐり捨てて、この難役に挑戦していた。すごくはっちゃけて楽しそうだった。
が、前の記事にも書いたとおり、出てくるイタリア人全部がDisられた描き方だったので、私は引いた。
月城のせいじゃないけど。ごめんなさい。

鳳翔については本役は既に書いたので、スターの方について。いやー、スターでした[ひらめき]キラキラでちゃらくて、でもホントは怖くて…冒頭の場面をひとりでさらっていた印象。ほんと、好きだわ。
真那春人の演じた将軍もデフォルメされてしまったキャラクターの一人だったが、コミカルさの作り方が「伯爵令嬢」と同じ漫画チックだったところが残念。芸達者だから、別の抽斗も見たかった。
フランチェスカの星乃あんり。役を膨らましてもらっていてよかったし、華があってキラキラしていたが、ジョーの新聞社の面々にまで知られているって、彼女、何者だったの[exclamation&question]
でも、いつの間にか大人の女性も演じられるようになって…。今こそ、彼女がヒロインの別箱公演を観てみたい。
カフェの店員から、某国のエージェント、記者会見を仕切る幹事メディアの記者まで、大活躍の透真かずきカフェの店員が超イケメンでした。
桃花ひな真地佑果の凸凹コンビが、うざい男をガン無視する美女設定で面白く、今後、二人がどうなるのか…という興味までわいてしまった。(たぶんどうにもならん[爆弾]
沙月愛奈、千風カレンもしっかりと印象を残していた。
しかし、いかんせん、役がないよな[爆弾][爆弾][爆弾]
そして、主な配役以外の出演者の扱いが雑。とりあえず、モブで踊らせておこうってのは、どうかと思う。こちらも、「ドン・ジュアン」を観た直後では、出演生徒が可哀想になってしまって、ポイントを下げた。

これを書いている間に、田渕先生の大劇場デビューが決まった。
不安はあるものの、若い才能の未来を信じて、次は大成功してもらいたい、と願っている。
大劇場では70名の出演者を光らせなければならないことを肝に銘じてほしい。

“今日は何の日”
【7月24日】
宇野宗佑首相、退陣表明(1989=平成元年)。

私はコレ(小指)で首相を辞めました、ってヤツですね。


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