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「アドルフに告ぐ」ドイツ篇 感想 [┣Studio Life]

日本篇については、こちらをどうぞ。

では、ドイツ篇感想です。

ドイツ篇には、アドルフ・ヒットラー(甲斐政彦)が登場する。そして、全部持って行く[exclamation×2]
初演の時は、さすがに膨大なストーリーなので、“全部持って行く”は、なかった。が、日本篇、ドイツ篇と分けることによって、ドイツ篇におけるヒットラーの重みが増した。
それに、甲斐の怪演は、ヒットラーが乗り移っているのではないか、というくらい。カリスマ性があり、偏執狂的で、さらにどんどんおかしくなっていく。でも、エヴァ(深山洋貴)が彼を愛するのは、なんか分かる気がする。一人の男としては、どこか少年性を感じるというか、純な部分があるから。
そんなヒットラーに、ナチス党員として傾倒していくカウフマン(山本芳樹/松本慎也)。ヒットラーの思想を信じることは、ドイツ民族ではない、最愛の母を下等な民族だと思うことであり、親友だったアドルフ・カミル(奥田努/緒方和也)を劣等民族だと信じることになる。
でも、カウフマンは、内心では揺れている。ヒットラーへの敬愛と自分の家族や友達への愛情の間で。
カウフマンがヒットラーの方へ大きく傾くのは、同胞を救うために日本を出国、海外で逮捕されドイツに強制送還されたカミルの父の処刑に加担したことから。ユダヤ人が『劣等民族で、ウソツキの犯罪者で、処刑することは正義である』と考えなければ、親友の父親を殺害してしまった事実と折り合いがつかない。
こういうところの作り方が、手塚治虫の上手さだなーと思う。

で、こんなカウフマンが恋をする相手が、ユダヤ人一家の娘、エリザ(久保優二)だったりする。カウフマンは、エリザだけは助けたいと、日本のカミルに手紙を書き、亡命後のエリザを託すのだが、エリザが日本でカミルと婚約したことを知ると、怒り狂ってエリザを強姦し、カミルと絶交する。ちなみに、この時点でカウフマンは既にカミルの父を殺害している。どう考えても、カウフマンの方が悪い。
それが「あり」だと信じ込めるのは、『ドイツ民族は優秀で、ユダヤ人は劣等民族である』という間違った仮説をカウフマンが信じている、いや、信じ込もうとしているからだろう。
この辺りの描写は、日本篇とドイツ篇でかぶっている部分で、ドイツ篇だけの設定は、カミルの父親が逮捕され、強制送還されるまでのいきさつが詳細に描かれている部分(リトアニアの同胞を助けに行くが、マゲン神父から、一部の人間だけが助かるのでは困る、と拒絶される辺り)。そして、カウフマンがスパイを逮捕するという手柄を立てる辺り。それにヒットラーとナチス党内、ドイツ軍のやり取り、ヒットラーの最期などは、ドイツ篇だけで描かれる。
手塚作品のスターシステムにより本作にも登場するアセチレン・ランプ(倉本徹)も、ドイツ篇の方が圧倒的に重要な登場人物となっている。第三帝国の崩壊を目の当たりにする、というカタルシスを感じるのもドイツ篇ならでは[exclamation]という気がする。

ざっくりしたことを言えば、ドイツ人とユダヤ人の物語である「アドルフに告ぐ」を日本と絡めて描いた「日本篇」は、峠草平を中心とするフィクション部分の面白さが描かれていて、このドイツ篇は、ナチスドイツという「史実」を「日本篇」にも登場するおなじみの人物が体験するという、史実ありきの面白さがある。
で、どっちが面白いか、と言われると、今のところ、ドイツ篇なのだ。
「ヒットラーにユダヤ人の血は流れていない」
これが事実だとしても、ドイツ篇の面白さは決して揺らがない。物語とは、本来そういうものだ、と思っている。

次に再演する時には、日本篇とドイツ篇の重複部分をもっと減らし、日本篇ではできるだけ、ドイツ国内で起きた出来事は省いてほしいものだと思っている。そして、峠草平を中心としたストーリーにしてくれたら、私はきっと日本篇も好きになれると思う。


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