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「エッフェル塔ものがたり」 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

「パリの空よりも高く」を観劇するうち、エッフェル塔建設に関する疑問が山のように出てきたので、エッフェル塔が出来るまでの真実を調べたい、と思うようになった。それでいくつかの本を図書館で借りてみた。
ひとつ読み終わったので、「パリ空」の真実の世界をご紹介したい。

エッフェル塔ものがたり

エッフェル塔ものがたり

  • 作者: 倉田 保雄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1983/01
  • メディア: 新書

こちらの本の著者は、通信社の特派員として、パリに住んでいた方。

設計者がギュスタブ・エッフェルである、など、いくつかの事実誤認があるのだが、エッフェル塔にまつわる、あれやこれや様々なエピソード集といった感じで、気軽に読めた。

まず、エッフェル塔とパリ万博は不可分の関係だが、なぜ万博か、というと、それは当時のフランス及びヨーロッパの国情に大きな理由があったようだ。
みつきねこさまのブログにもあるように、エッフェル塔が誕生した年、ルドルフ・ハプスブルクが自殺して(もしくは暗殺されて)いる。
当時のヨーロッパは、オーストリー(オーストリア=ハンガリー二重帝国)の凋落とドイツ(プロシア)の台頭が顕著であり、フランスは対独戦争(普仏戦争)で苦渋を舐めていた。また、戦争直後にパリ・コミューンの革命騒ぎが起きている。
そんな中でもフランスは万博を開催している。オテル・ド・サン・ミッシェルにとっては思い出したくない閑古鳥の万博だったらしいが、第3回のパリ万博は1610万人の観客を集め、国力の回復に一役買っている。
ちなみに、当時、万博は「やりたい」と言えば、どこでも誰でもやれたが、やりたいと言うところはそう多くはなく、何度も開催しているのはパリだけだった。

<万博と開催地の一覧>

開催地 入場者数
1851年 ロンドン 600万人
1855年 パリ(第1回) 516万人
1867年 パリ(第2回) 1100万人
1873年 ウィーン 726万人
1876年 フィラデルフィア 1017万人
1878年 パリ(第3回) 1610万人


どうして、フランスが万博に力を入れたか、というと、武力でドイツ(プロシア)を圧倒するよりは、産業立国としての実力で勝負した方が、まだ勝算があったためらしい。現実主義のフランス人らしい選択である。
パリ・コミューンの動乱期にあっても万博を開催したフランスが、「革命100周年」の年(1889年)に万博を企画したのはむしろ当然の成り行きだった。
あとは万博の目玉を何にするか?だけの話である。

ここから、物語は、「パリの空よりも高く」とは少し違ってくる。
第3回の万博でトロカデロの丘に宮殿を作った建築家のブールデが、アンバリードの広場に高さ366メートルの石の塔を造る計画を発表する。その名も「太陽の塔」。もしこれが採用されていたら、岡本太郎氏の「太陽の塔」は造られなかったかもしれない。
ただ、この計画に担当大臣であるロクロワ商工相は難色を示す。石の塔の重量と風圧への抵抗のふたつの点において。
なんだ、最初から「風」のことはみんな気にしてたんじゃないか!
さらに、「石積みには高さに限界がある」はずだが、その限界はエッフェル塔の高さよりも高かったらしい…。
同じ頃、一紙だけがギュスタブ・エッフェル設計の「鉄の塔」についてすっぱ抜いた。ロクロワはこの案に乗り、ブールデの石の塔を落とすために、コンクール開催を提言、既に人気建築家だったエッフェルは、いまさらコンクールなんて!と腹を立てたものの、実際は出来レースで、構想説明に行った先で、口々に「おめでとう」と言われたエッフェルは当惑したという。

さて、エッフェルさん、実は、この時50代のおっさんだった、ということは既にあちこちに書かれている通りだが、「独身」ではあった。30代でやもめとなったエッフェルさん、その妻に操を立て、生涯再婚はしなかったのである。
もしミミと結ばれていても、一応、問題ない設定ではあった。たぶん偶然だが。
彼は、ドイツ系移民の子孫であり、エッフェル塔建設の10年前までは、エッフェル-ベニックハウゼンという長い姓を使用していた。もし、姓を改めていなかったら、当時の独仏事情を考えると塔の名は彼の名を使用しなかったかもしれない。

1886年7月に塔建設の仮契約。
ここで政府からの助成金150万フランが決定。
え?150万フラン?
植田先生、ケタが違ってるじゃん!!!
あ、ちなみにエッフェルの最初の試算によると、塔の建設費は650万フラン
残り500万フランは、エッフェルが自分で調達しなければならない。
とはいえ、万博という公のイベントであるため、エッフェル側の収入源である塔の入場料には、政府から枠が決められた。
1887年1月28日 鍬入れ
1887年6月11日 基礎工事完了(4本の足の台座)
1887年7月1日 第2期工事開始。工事はプレハブ工法によるもので、あらかじめエッフェルの作業場で鉄骨を準備し、現場では組み立てるだけだった。
1888年3月 1Fプラットフォーム完成。別々に組み立てられた4本の足に梁を渡し、その上にプラットフォームを構築。ここに、レストラン4軒が入ることになる。
1888年6月12日 2Fプラットフォーム工事着工。
1888年7月13日 2Fプラットフォームより花火を打ち上げる。
ここで過酷な労働に対し、作業員がストライキを敢行。エッフェルは、作業員解雇も辞さず、という姿勢でストライキを回避するが、後日、1889年3月末までに工事が完成した場合にはボーナス支給(一人100フラン)を約束し、さらに作業員のハートを掴んだらしい。
1889年2月24日 3Fプラットフォーム工事着工。実は、エッフェル、ここに居を構えることにしたようだ。
エッフェル塔は、当時実用化されたばかりの電気も通っていたし、(照明はガスと併用)電話機もあったらしい。各階の行き来は水圧式エレベーターを使用。ただし、5月26日から運行開始…ということは、万博初日には間に合っていない。
なお、階段は頂上まで1710段とのこと。

1889年3月30日。予定通り工事は終了し、エッフェル塔は、高さ300メートルで正式に完成した。
翌、3月31日午後1時30分から、ティラール首相ほか各界のお歴々を招いて、盛大に落成式が行なわれた。(5月15日ってなんだよ?)
エレベーターは未完成だったので、参加者は、階段で塔を登らざるをえなかった。1F、2F、3Fとプラットフォームに着くたび、参加者は減り、3Fプラットフォームで国歌斉唱・国旗掲揚に参加できたのは、35名(うち女性1名)だったそうだ。(首相は1Fでギブアップ)
地上もお祭り騒ぎで、作業員がギュスタブに、白百合の花束を贈呈、ギュスタブはその花を、古参作業員の一人の妻にプレゼントしたそうだ。

1889年5月6日 第4回パリ万博が開幕。
ただし、この日、エッフェル塔に登ることはできなかった。エレベーターが動いていないので、来場者が混乱する、というのがエッフェルの見解だった。
5月15日、待望のエレベーターが完成した。
が、テストがまだだったので、運行はできない。しかし、新聞がエッフェル塔になにか問題があるのでは?と煽ったため、とうとう、エレベーターなしで、この日、エッフェル塔は一般に公開された。
そう、エッフェル塔に初めて一般人が登った日、それが5月15日だったんですね。ちなみに最初の10人は無料サービスだったそうだが、無料でも1700段は…
ちなみにエレベーターは5月26日から運行している。

万博の会期は6ヶ月と決まっているが、エッフェル塔が好評だったため、数日延長して11月8日閉会。
なお、エッフェル塔株式会社は、資本金510万フランだったらしい。
1900年の第5回万博までの間に、この会社が支払った配当金は135万フランに達したという。いいお小遣い稼ぎになったでしょうね、みなさん。

エッフェル塔のその後の運命についても少し書いておきたい。
エッフェル塔は1900年のパリ万博にも参加したが、1909年に賃貸借契約が切れるのを期に、取り壊される可能性があった。が、軍の無線電信用のアンテナ設備に使える、ということで、取り壊しを免れた。
ここでの無線傍受により、マタ・ハリも逮捕できたらしい。
さて、エッフェル塔は、気象観測などの施設にもなっている。ギュスタブが、地上300メートルだからこそできる、学術研究のために場所を提供したのだ。
また、ギュスタブは、風の制御に関する研究を行い、その成果が、現在の航空力学に繋がっている。1909年、ギュスタブは、エッフェル塔の下に、風力研究所を造り、人口風を自由に送り込むことが出来る、エッフェル型風洞を完成した。(航空力学にはてんで疎いのでわからないが、どうやら、風洞で空気抵抗を調べることによって、飛行機がどんな風に飛ぶか、あるいは飛べないのか、がわかるらしい。)
ちなみに、エッフェル塔は、秒速50メートルの風に抵抗出来得るもの、と、想定してあのシルエットで設計されているので、どんな嵐が来ても大丈夫なのだ。まあ、これまでに測定された一番強い風の時、12センチほど揺れたらしいが。
その後、エッフェル塔株式会社は、塔の側面に広告照明を点けることを提案、1920年代から30年代にかけて、シトロエンのイルミネーションがエッフェル塔を彩った。
リンドバーグによる大西洋無着陸横断飛行、「翼よ、あれがパリの灯だ」の「あれ」はシトロエンのイルミネーションだったと言われている。もしそうなら、飛行機の発展に貢献したエッフェルだけに、因縁めいた話だ。

1940年、ドイツ軍によるパリ占領。エッフェル塔は前年50周年を迎えたところだった。この時、ドイツ軍のパリ入場とともに、エッフェル塔のエレベーターは、一斉に動かなくなった、という。
戦局はやがてドイツに不利に転換していく。
パリ撤退前、ヒットラーからコルティッツ占領軍司令官への命令は「パリを破壊せよ」だった。
このあたりのことは、ぜひ「螺旋のオルフェ」のビデオを見ていただくとして、結局、「パリは燃えているか」の答えはNOだった。コルティッツは、激しいレジスタンス活動、自由フランス軍戦車部隊、米軍部隊の入場を知りながら、ヒットラーの命令に従わなかった。
1944年8月25日正午、エッフェル塔に再び三色旗が翻った。旗を掲げたのは、1940年6月13日、ドイツ軍の占領を前に三色旗を降ろした消防隊員サルニゲだった、とか。
ちなみに4年間動かなかったエレベーターは、一人の老人がエレベーターの機械室でいくつかのネジを締め、復活させたという。おそらくは、動かなくなったのも彼の仕業だったのだろう。

かの詩人、ギョーム・アポリネールは、エッフェル塔「羊飼いの娘」にたとえる詩を書いたり、「エッフェル塔」という名の、塔の形に描いた詩を書いたりしている。こちらも、興味のある方は、「1914」のDVDを観て下さい。いや、その詩は出てきませんけど、とても麗しいアポリネールさんが出てきます。

【去年の今日】
某打ち上げに参加。
芸能人っていっても普通の人なんだなーと思う反面、おなじ人間とは思えない滲み出る美しさ、オーラに唖然とする。いい経験だった。
(素のタカラジェンヌもお茶会とかで見るけど、あの方たちは、どういうわけか普通の人に思えないんで…)


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