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「華麗なるギャツビー」 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

「THE LAST PARTY」に関連して、フィッツジェラルドの最高傑作、「華麗なるギャツビー」を読んでみた。

華麗なるギャツビー―The great Gatsby

華麗なるギャツビー―The great Gatsby

  • 作者: F.S.フィッツジェラルド
  • 出版社/メーカー: 講談社インターナショナル
  • 発売日: 1994/09
  • メディア: 文庫

この作品は、1991年に宝塚歌劇・雪組で上演されている。
演出は、小池修一郎。彼にとっては、大劇場3本目の作品。バウデビュー作「ヴァレンチノ」の時に、この作品とどちらを発表するか悩んだ、というから、小池にとっては、かなり思い入れのある作品であり、作者だったのだろうと思う。
その後発表された「失われた楽園」という作品は、フィッツジェラルドらしき人物まで登場し、ストーリーも「ラスト・タイクーン」を下敷きにしたような作品だった。

1990年代前半の小池作品は、しばしばひとつの欠点を指摘されている。つまり、因果応報を否定する作品作りだ。問題のある主人公が、報いを受けずに幸せになる。
今思えば、現実の世界は、もちろん因果応報ではないわけで、小池は、その空しさをフィッツジェラルドから学び、そういう舞台を好んで制作してきた気がしている。

小説を読んでいると、小池がいかにこの作品に傾倒していたかが、手に取るようにわかったし、読みながら、舞台のシーンを思い出すことも多かった。
というわけで、当時のキャスティングも盛り込みつつ、読み終わったギャツビーの物語を考えてみたいと思う。
ドラマは、すべて、ニック・キャラウェイ(一路真輝)の一人称で語られる。ニックは、ギャツビーの隣人であり、デイズィの親戚である。そして、彼の存在がギャツビーとデイズィを再会させてしまうことになる。
語り手であるニックの物語になってしまわぬように、小池は彼をナイスガイに設定しているが、実際のニックの語り口は少々シニカルなものだった。
さて、この作品が書かれたのは、1924年。スコットは1896年の生まれだから28歳ということになるが、この小説のラスト近くで、ニックが30歳になって呆然とする場面が出てくる。スコットは年を重ねることに、この時点で既に絶望していたのだろうか?

ニックは、いろいろな事情があって単身NYに出てくる。そして、ロングアイランドのウェストエッグにこじんまりとした家を借りる。隣には、豪勢な邸宅があって、そこには、ジェイ・ギャツビー(杜けあき)という青年が住んでいた。
一方、ニックは、NYに知り合いがいた。大学時代の友人、トム・ビュキャナン(海峡ひろき)が、ニックの親戚の娘、デイズィ(鮎ゆうき)と結婚して、同じロングアイランドのイーストエッグに住んでいた。
ニックは、デイズィの友人にしてプロゴルファー、ジョーダン・ベイカー(早乙女幸)と知り合い、また、トムと愛人であるマートル・ウィルスン(美月亜優)の秘密の部屋に招かれたりする。
ギャツビーは、週末になると、盛大なパーティーを開いていた。
そこには、招待されていても、いなくても、知人であっても、なくても、とにかくおおぜいの客が訪れ、全員が派手に騒ぎ、正体をなくして酔いつぶれていた。
ニックは、なかば呆れながらそのパーティーに参加し、そこでようやく主人であるギャツビーと知り合う。ギャツビーは、この街の誰よりも「まとも」に見えた。

やがてギャツビーは、ニックがデイズィの親戚であることを知り、デイズィをこの家に連れてきてほしいと、熱烈に頼み込む。デイズィは、ギャツビーがかつて結婚の約束をした娘だった。が、二人の結婚は許されず、デイズィは、金持ちのトムと結婚した。
デイズィと再会したギャツビーは、二人の失った時間を取り戻そうとする。そして、夫トムと対峙する。
ここで、ラスパに登場したセリフが出てくる。「奥さんはあなたを愛していません。これまでも愛してなかった。奥さんは僕を愛しているのです」
この言葉はトムを逆上させる。が、デイズィをも追い詰める。
「かつてはトムを愛してた―でも、あなたのことも愛してた」
精一杯のデイズィの言葉を、ギャツビーは否定する。
「あなたは、トムを愛したことなどない」と。
ギャツビーが求めたものはいったいなんだったのだろうか?
この世にないものを、あると信じて求めていたのだろうか?
追い詰められたデイズィは、動転している。彼女はギャツビーの車をハイスピードで運転し、マートルを轢き殺した。
というのも、マートルの夫は、自動車の修理工場を経営していて、トムはそこの上客だった。夫は、妻の行動を不審に思ってはいるが、まさか上客のトムの愛人をしているとは気づいていない。
そして、ギャツビーが珍しい車を持っていたので、上記の三者会談が行なわれる直前、友人としてトムはギャツビーの車を借り、ウィルスンの店を訪れていたのだ。そして、その時、マートルは不倫を嗅ぎつけた夫に監禁されていた。
それがトムの車だと信じて飛び出したマートルを、デイズィが轢き殺す。(ある種、因果応報)
ギャツビーはすべてを闇に葬ることにした。が、マートルの夫、ウィルスン(古代みず希)は、トムから、その車の持ち主がギャツビーだと聞いていた。トムもまた、陽気なマートルの復讐をしたかったので、聞かれて素直に教えたのだ。(トムは運転していたのが妻だとは知らない)
ウィルスンはギャツビーを射殺して自殺する。

ギャツビーの哀しい人生を目の当たりにしたニックは、彼の葬儀を請け負う。
が、あれだけ多くのパーティー客は、誰一人ギャツビーの葬儀に来なかった。ギャツビーと共同で、危ない橋を渡って金を作ってきたウルフシェイム(高嶺ふぶき)でさえも。
ギャツビーの父親、ヘンリー・ギャッツ氏(岸香織)が、故郷から葬儀のためにやってくる。悲しみの中に、彼は誇らしげだった。息子がひとかどの成功を収めたと思っているからかもしれない。
埋葬の帰り、パーティー客のひとりが、彼の家の門のところに弔問に来ていた。誰一人、立ち会わなかったと聞いて、その客は呟く。
「かわいそうなやつめ(Poor son of a bitch!)」
あまり上品な言葉ではない。それだけに悲しみを誘う響きだ。
そして、フィッツジェラルドの遺体を前にして、ドロシー・パーカーという人が、この言葉を呟き、顰蹙を買ったそうだ。その場にいた人は、もう誰もこのギャツビーの一場面を覚えていなかったから。
が、ギャツビーの葬儀は、十数年後のスコットの葬儀を予知したようなものだった。「僕には将来を見通す力があるんです」きらきらした瞳の青年を思うと、切なく、哀しい。

ギャツビーの物語を、今、フィッツジェラルド自身と重ねずに読むことは難しい。
スコットは、「金持ちになること」を自分に課したプリンストン時代の思い出をギャツビーに重ねている。デイズィには、金持ちでないばかりに失恋した初恋の娘、ジネヴィラ・キングを。
が、執筆中のリヴィエラで起きた、ゼルダとエドゥアールとの情事は、作品に別の光を当てる。即ち、スコットは、トム・ビュキャナンにも感情移入をしている。そのことが作品をさらに生き生きとさせているし、不思議な客観性も生まれている。
歌劇の最後の方で、デイズィはギャツビーの埋葬に姿を見せる。そのことが作品の翻案を許可した遺族を怒らせたとか、長年の作品ファンを幻滅させたとか言われている。
たしかに、この物語の成り行きでは、デイズィは埋葬に現れる筈がない。(そのためには、マートルを殺したのが自分だと、夫に告白しなければならないからだ。)
それでもあの場面は、たくさんのカラーシャツが放り投げられる場面での無邪気なデイズィと同じくらい、カタルシスを感じる場面だった。だから、あれは、幻…すべての人が現れてほしいと思ったデイズィの幻なのだ、と、解釈したい。それほどに、無表情に赤い薔薇を投げるデイズィは美しかったから。
最後に、悲劇を共有したゆえに、自然消滅してしまうジョーダンとニックについては、皮肉なエンディングが用意されている。ニックは、決してナイスガイなんかではなかった。が、そんなニックの人間臭さが、この物語を「かわいそうなおとぎばなし」から救っている。でも、宝塚では、あの終わり方が相応しかったな、これだけは。

【去年の今日】
「ブロードウェイ・ガラコンサート」について、またまた語っている。
大浦さんの「NINE!」は本当に素晴らしかった~!
それにしても、劇団は和音ちゃんをどうするつもりなんだろう?これだけのシンガーを、なぜもっと本公演でフィーチャーしないんだろうか?(素朴な疑問)


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コメント 5

aiai

歌劇のギャツビーは思い出深い作品です。(映像でしか見てませんが)
私は本を読んでいなかったのでとても興味深かったです。
>それほどに、無表情に赤い薔薇を投げるデイズィは美しかったから。
私もあのシーンは大好きです。
ギャツビーの悲しさを浮き立たせていてしんと胸に響きます。
この作品ではトムに共感するところを表現していなかったので
ラスパを見て少し驚きましたが
この記事を読んで納得がいきました。
そして私も和音ちゃんには活躍して欲しいです。
私は、可愛いと思ってるんですがねー(^-^;
(ちなみにシャツを放り投げてたのは
ギャツビー自身だったように思います。。。)
by aiai (2006-04-18 02:13) 

でるふぃ

私も録画で観ました。もう、大分前なので、覚えているのは杜さんの寂しそうな後姿、あのテーマ曲。
最後に埋葬に来るデイズィ、でも、あれは原作にはなかったのですか・・・あのシーンはそこだけキラリ!と光る珠玉のシーンでした。
観た当時は一路さんファンだったから、ニックはやたら忙しい割には、インパクトのない役でお気の毒なんて思ったけど、
そうでしたか、少々シニカルなタイプね、それで作品が引き締まりますね。今頃、その点については救われた気がしています。
フィッツジェラルドの葬儀についてのエピソードもありがとうございます。
なんか、哀しくて深いですね・・・

映画も良かったです!ロバート・レッドフォードもギャツビーそのものに見えました。細かくは覚えてないんだけど、素敵でした。
読みたい本が多くて、うれしいんだか、困ってるんだか・・やっぱり、うれしいわ!(^^)
by でるふぃ (2006-04-18 07:59) 

夜野愉美

aiaiさま
和音ちゃん、可愛いですよね~
でも最近のヒロインはたぬき系じゃなくてキツネ系が流行りかもしれない…。
さて、そうでした!シャツを投げたのはギャツビーなんですよね。思い出しました。(人の家のシャツは投げないですよね)
訂正しておきます~!ありがとうございました。

でるふぃさま
私は映画のギャツビーを見ていません。今度は映画を見ようかな?
次の大劇場まで、まだ1ヶ月ありますからね。しばらくフィッツジェラルドに嵌まりそうな勢いです。
by 夜野愉美 (2006-04-18 22:44) 

msy

夜野様、今晩は。

いったい何年前の記事にコメントしているんでしょうか・・・
花組の「ラスト・タイクーン」を観て、どこまでが原作にあるエピソードなんだろう?と検索していたらこの記事にたどりつきました(笑)
以前」にも読んだ記憶がありますが、当時はまだコメントする勇気がなかったんですね・・・

最後の薔薇のエピソードを、旧宝塚大劇場公演の初日に観た時の感動と、デイジー役の鮎ゆうきさんの美しさは今も覚えています。
当時まだ二十歳になっていない子供だった私には、事前に知った内容では、余りにもギャツビーが哀れに思えたからです(今なら来ないのもまあ納得出来ます)
「あ、デイジーが埋葬に来てくれた・・・」と思ったのをハッキリ覚えています。
この作品、その後、ムラ、東京、中日と通って、合計50回は観たので、最後は涙も出なくなってしまいましたが・・・
今もう一度観れたら号泣するでしょうね、やっぱりいい作品だったんだなぁ。

by msy (2014-02-19 00:23) 

夜野愉美

msyさま
コメントありがとうございます。
二重にコメントがアップされていたので、後の方を残しました。ご了承ください。
あの作品の鮎さんの美しさは神がかっていましたね。本当に素敵でした。
そして、私は、その後再演された「グレート・ギャツビー」より、一幕ものの雪組版の方が好きです。
by 夜野愉美 (2014-02-19 22:24) 

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