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「円生と志ん生」1 [┣大空ゆうひ]

こまつ座 第119回公演
「円生と志ん生」


作:井上ひさし
演出:鵜山仁
音楽:宇野誠一郎
美術:石井強司
照明:服部基
音響:秦大介
衣裳:黒須はな子
ヘアメイク:西川直子
振付:新海絵理子
歌唱指導:満田恵子
落語指導:三遊亭鳳楽、金原亭馬生
宣伝美術:安野光雅
演出助手:生田みゆき
舞台監督:増田裕幸
制作統括:井上麻矢


今回の公演、ゆうひさんは、なんと5役を演じることに。
そんなわけで、感想も、5つの役に分けて書いていきたいと思う。


舞台後方ホリゾントに満洲の地図が描かれている。
これがあるので、芝居の中に出てくる地名がとても分かりやすかった。


まず、国民服姿の男がリュックを背負い、風呂敷を持って客席から舞台へ上がり、リュックから楽譜を出し、風呂敷から太鼓を出す。彼がピアニストの朴勝哲(パク・スンチョル)さん。ピアノだけでなく太鼓を叩いたり、出演者と無言のやり取りをしたり、彼もまた出演者の一人と言える。
朴さんの太鼓を出囃子の代わりにして袖から円生師匠(大森博史)が登場して座布団に座り、高座を一席という形で、物語の突端を語り出す。途中から志ん生師匠(ラサール石井)も現れ、高座に擬して円生を満洲に誘う場面を再現する。
二人には、志ん生・円生両師匠の孫弟子に当たる、三遊亭鳳楽師匠と金原亭馬生師匠が落語指導をしてくれたとか。
特に石井は、志ん生師匠の声色も使って、客席を煙に巻く。それにしても、二人とも、見た目から両師匠に似ている。


二人は関東軍の兵隊さんの慰問興行の一環で、昭和20(1945)年5月、1ヶ月間の満洲巡業の旅に出る。ところが、この1ヶ月で戦況は大きく変わる。枢軸国のドイツが5月に降伏したため、アメリカの潜水艦が東シナ海へ移動、危険のため、日本行きの船は出ない。しょうがないので、二人はさらに3ヶ月、巡業を続ける。
8月15日、二人は、大連の宿屋で終戦を迎えた-
二人の最後の巡業の噺が、円生=『三人旅』、志ん生=『居残り佐平次』だったこともさり気なく入れておき、最後に、二人が「大連に居残り」というところで笑いを誘う。うまいな。


ここで、「桃太郎気分でネ」という曲となる。
これは、天地総子さんの「悪魔ソング」という曲の歌詞を書き換えたもので、作詞/井上ひさし、作曲/宇野誠一郎。
日本が戦争に向かってまっしぐらに進んでいく様を「桃太郎気分」と評し、最後に焼け野原になって「浦島太郎気分」というオチ。
女性キャストはここで初めて登場する。で、この時、実は次の場面の衣装を着ている。(これは脚本指示)
大空ゆうひ、前田亜季は、着物+羽織に姑娘(中国娘)みたいな髪形。太田緑ロランスは、黒っぽい着物で髪は普通に纏めて。池谷のぶえは、使用人らしい着物姿。この四人と、円生・志ん生の4人がレビューのように歌い踊る。


舞台が暗くなると、ラジオの音声。
いきなりソ連の国家が流れる中、ラジオアナウンサー(大空)の勇ましい声が聞こえてくる。時報と同時に今度は、聴いたこともないような優しい声で音楽の案内をする。役者やのぉ~[揺れるハート]


大連の旅館、「日本館」の二階に寝泊まりしている円生師匠と志ん生師匠。
円生がいくら起こしても志ん生は起きない。昨夜、円生が管理している財布からお金をくすね、博打をやった志ん生に、円生は怒っている。しかし、事態はそれどころでは済まないことに。
関東軍の現地妻二人(大空・前田)が金にものを言わせて、この部屋の相客に乗り込んでくる。女将は、失礼のないように、と二人に釘をさすが、密航船で日本に帰ろうとする金持ちの二人に一緒に連れ帰ってもらおうと卑屈に芸を披露する二人の師匠の姿は逆効果。とうとう、部屋を追い出されてしまう。
ここで、登場する音楽「さらば大連」は、「ひょっこりひょうたん島」に出てきた曲の歌詞を変えたものなんだとか。


着物に羽織の正装ながら、髪形は両サイドに髪の毛をぐるぐる巻きにしている姑娘姿のゆうひさん、超可愛かったです[黒ハート]それでいながら、君香姐さん(役名)、超イケズ。
大連花街で名声を轟かせた後、関東軍のお偉いさんの現地妻になり、しっかり蓄財して、敗戦後は、密航船で帰国を企てるという、したたかな女性像。30代にはなっているのかな。
着物姿で、踊ったり、マイムで寝姿になったり…と動きが激しいが、裾からチラリと見えるふくらはぎ、など上品なお色気がステキ。所作が綺麗で上品だと思う。
前田は、妹分の可愛さが炸裂していた。意外と梅香さん(役名)の方が、しっかり者なのかもしれない。
若い太田の女将役が意外と嵌まっていて、しかも、キリッとしてかっこいい。池谷は、部屋係の女中役で、冒頭から達者さが際立つ。
最初から、女性にしてやられっぱなしの、両師匠の今後がとても心配になる展開で、つかみはバッチリの第1エピソードだった。


<ここから、とりとめのないメモ>
その1…国民服に種類があるなんて初めて知った。
円生師匠は、そのまま着るタイプで、志ん生師匠は、下に襟のあるシャツを着る開襟タイプを着ていた。
調べてみると、「国民服」は、昭和15年に制定されたもので、デザインに変遷があったものの、終戦頃は、下にシャツなどを着る甲号と、そのまま着る乙号の二種類があったとのこと。そのまま軍服として使用することも可能だったとか。この辺、兵と民間人の間がすごくファジーだったんだなーということの一つの裏付けかな、と思った。
(沖縄戦などで、民間人が間違って撃たれたというのも、国民服と軍服が似ていたため、と、Wikiに書いてあった。)

その2…志ん生さんの落語をそのまんま生きているような生き方と、円生さんの生真面目な性格は、たぶん、とても噛み合わないのだろうけど、なにしろ、他に頼る人がない外地、だから600日という長い時間を二人一緒に過ごすことになったんだろうな…そして、そういう経験が二人の芸の肥やしになったのは間違いない。
内地にいたら、芸のためだったとしても、噛み合わない人とずっと一緒にはいられなかっただろう。
志ん生さん、絶対に、プライベートでは近づきたくないけど、この人の回りにはいつも笑いがあるんだろうな。
円生さん、理屈っぽいけど、たぶんとても男前。
観れば観るほど、二人の噺家さんを好きになる舞台。

その3…もしかしたら、あまりこの辺の歴史に詳しくない人もいるかもしれないので、ちょっと補足。
1945年8月9日、つまり長崎に原爆が落ちた日、ソ連軍が突然満州に攻め込んで来た。日本とソ連は、日ソ不可侵条約というのを結んでいたので、これは条約破りなんだけど、とにかく攻めて来た。一方、攻められた満州。ここには、日本の「関東軍」という名前の部隊があって、(中国大陸の関東州という地域のことであって、日本の関東地方ではありません)アジア最強の軍隊とか自称してたんだけど、ソ連が侵攻してきたと聞いて、脱兎のごとく逃げ出した。跡形もなく。
ほぼ勝敗が決した後で、後出しジャンケンみたいに攻めて来たソ連もアレだけど、受けもせずに逃げた関東軍も相当なもんです。
旧満州国には、多くの日本人が居住していた(満洲国は一応、国家ということになっていたが、国民は一人もいなくて、居住者はすべてもとの国の国籍のままだった。なので、満州に住んでいた日本人は、すべて日本国籍を保有していた。)が、ソ連に占領されている間は、身動きが出来なかった。昭和21年5月から順次引き揚げが開始されたが、多くの日本人が故国の土を踏むことなく亡くなったり、子供を置いてきたり…。
私の祖父母と母は引き揚げ者でした。祖父が団長を務めた引き揚げ隊は、一人も欠けることなく日本に帰国することができ、だからそれほど大変なことだと、長いこと思っていなかった。でも、調べてみたら大変な事態だったのね…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


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