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「美しき生涯」最大の突っ込みどころ [┣公演内容の考察・検証]

「美しき生涯」をラストから逆に見ていくと…
関ヶ原合戦。
東軍の徳川家康と西軍の石田三成、彼らが挙兵してまで雌雄を決したかったのは、「徳川による天下」か「秀吉亡き後も豊臣による天下」か、ということだろう。
「…だから徳川には任せられない」という政治的・論理的な理由ではなかった。
秀吉が死んだ時、後継者秀頼の後見人という立場を逸脱してあたかも天下人であるような行動を取り始めた家康に対して、「簒奪許すまじ」として挙兵したのが三成だった。彼が主張する「豊臣による天下」とは、「秀頼を主君として豊臣家による支配を継続させる」ことにほかならない。それが忠義であり正義であると。

でも、秀頼が三成の子であったら、三成こそが、お家乗っ取り、天下簒奪者になってしまう。
秀吉の子でない(かもしれない)秀頼をそれでも立てなければならない理由は、「秀吉が後継者に指名した」ことだが、それを大義名分として戦う総大将として、唯一、実父だけは相応しくないだろう。7歳の秀頼が天下を取った時、彼を補佐するのが実父なら、それは秀頼を傀儡とした、事実上の天下簒奪だ。正義の戦いにはならない。
たとえそうしなければ、「主君秀頼の生母」としての淀が生きていけないのであっても、そのために戦うのは、「義」ではなく「愛」のためということになってしまう。
また、もし、この芝居のテーマ曲通り「愛」に生きることだけが二人の夢なのであれば、(=政治的な欲はない)家康に逆らう必要はない。豊臣政権下で織田氏は生き残った。家臣として。同じように徳川家臣としてであれば、秀頼には生きる道があった。そこで親子三人、ひっそり生きていけばいい。
もし、「秀頼を秀吉の後継者として、家康を含むすべての武士たちの主君として君臨させなければならない」、それを義だと主張するなら、秀頼は秀吉の子であると、三成が信じていなければならない。
ということは、あの「契りを交わした夜」以外、茶々と三成は触れ合っていてはならない。あの時代に、父親を判定する科学的な手段がない以上。

また実際問題として、「あの夜」は、おねが全面的に信頼して茶々の側に置いた“さぎり”が疾風によって眠らされていた。
そのさぎりが殺された後、いくら疾風が茶々付になり、その時点で邪魔な“たつの”を追放できたとしても、おねが次の手を繰り出さないわけがない。そして、なんらかの証拠を見つけたら、おねは決して茶々を許さなかっただろう。
しかし、おねには証拠は見つけられなかった。茶々の産んだ子は「かわいくない」から、徳川に付くとしか言えなかった。秀吉に似ていないという以外、証拠はなかったのだ。

だから、ストーリーとして、すぐに死んでしまう鶴松は三成の子だったかも?という設定でもいいと思う。しかし、秀頼として成長する第2子までも三成の子にしてしまうような諸設定は、彼の「美しき生涯」を汚すものにしかならない。
死んだ主君の後継者に自分の実子を就けるなんて、どこが「美しき生涯」なの?
だいたい、あの、天下のプレイボーイ、光源氏だって、父である天皇を裏切って義母に自分の子を産ませてしまったかも?と気づいた時、そりゃもう取り乱す。臣下である自分の子が天皇になってしまう恐怖…そういうものが全然ない臣下なら、「義」の心もないことになる。
もし、茶々が三成の子を産んだのであれば、そっちの悩みの方がよっぽど山伏登場のカルマシーンに相応しい。

にもかかわらず、物語は、この方向で進んでいく。

鶴松に代わる子ができるまで、茶々の悲しみは癒えない、自害するかもしれない、と疾風は主張し、三成を煽る。
だから、もう一度、子を作れ、と。
しかし、鶴松が三成の子であったとしても、次に生まれる子がまた一夜の契りで出来るとは限らない。疾風の言に従うということは、子ができるまで、子作りに励まなければならない、ということだ。そして、子ができるということは、逢瀬をやめるということでもある。
(不義密通の証拠を挙げられれば、子供は殺されるかもしれない。リスク回避のためにも、三成は淀に一切近づかないことが求められるだろう。)
疾風、言ってることが鬼畜!
茶々にしてみたら、「一夜の契り」は、覚悟ができていた。軽蔑していたサルの側女になるには、心を殺して生きるしかない。そんな茶々の心の支えは、「愛する石田三成の義のためにそうした」という決意であり、そのモチベーションを維持するために「一夜の契り」は有効だった。「たった一夜」であればこそ、そこにすべてを燃やし尽くし、一生分の思い出にしようとする。
でも、子作りしろって言われて、愛する人にほぼ毎晩逢えるとしたら、

  • 秀吉に対して拒否感が生まれる。⇒覚悟をもって側女になった茶々だけに、その変貌に対して秀吉から不審に思われる可能性がある[爆弾]
  • いつ最後になるかもしれない三成との逢瀬を思うだけで、気が狂いそうになる。⇒情緒不安定になり、秀吉から不審に思われる可能性がある[爆弾]
  • 懐妊がわかった時点で三成との逢瀬が終結する。⇒子供ができて幸せなはずなのに、憂鬱に日々を暮らしている。⇒鶴松懐妊時との違いに、秀吉から不審に思われる可能性がある[爆弾]

というわけで、いくら疾風が巧みに機会を作っても発覚の危険性が高い。しかも相手が、義に篤く、不器用な生き方しかできない三成でしょ?無理、無理!絶対、無理だと思う。
それに、溺愛する対象となる新しい子ができれば、鶴松を失った悲しみを忘れることができる、と疾風は思っているようだけど、三成への喪失感をどう癒すのか?って問題については考えてるんでしょうか?疾風は。
いろいろ考えると、頑固で不器用な三成をけしかけるより、茶々を眠らせて、三成が行くと思わせて自分が…(どこの風吹?)って方がよっぽど、簡単ではないかと?
むしろその方が、疾風の苦悩が出て、私的には好みな話だ(笑)

話、逸れてしまったが、というわけで、秀頼が三成の子、というのは、彼の正義からいっても、状況や心情からいっても無理な設定。そういう設定を作るにはキャラクターから変えなければいけないし、その秘密に対する苦悩を描かなければおかしい、というのが、私の主張なのです。
今、上演されている「美しき生涯」における苦悩は、せいぜい、一夜の秘密をもってしまった、程度の苦悩でしかない。そして、それで充分じゃないか、と思うのです。三成と茶々の秘密は。

秀吉に百人の側室がいたのに子ができないとか、子供が秀吉に似ていないとか、そういう状況証拠を積み重ね、さらに疾風にけしかけさせて、三成に罪を重ねさせ、しかも、その苦悩を描かないというのは、大空祐飛主演作として、本当にもったいない作りとしか思えない。
そして、愛する女が産んだ、主君の子供、その命を助けるために、一命を賭す…そういうのが、本当のかっこいい男の姿なんじゃないか!と私は思います。
だから、「若き日の唄は忘れじ」が好きなんです。青天、上等!むしろあれを上演してほしいくらいだわ[むかっ(怒り)]

大昔、まだ子供の頃に読んだので、正確ではないが、「今宵一夜」というのは、女性が好むエロティシズムだという評論が漫画版のベルばら特集本の中にあった。子供ゆえに本当の意味がわかっていたわけではないが、なんとなく強烈に記憶に残っている。
そして、たしかに、そういう劇的な愛は素敵に見える、と今も思う。だらだらと続く子作りは、その対極にあり、ドラマとして想像したくない。そんなことも、納得いかない底辺にはあるような気がする。
大石静先生は、その辺、どんな風に思われて、この作品を書かれたのだろうか?


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薫

全く同感です。一度目の観劇では祐飛さんのビジュアルと歌声で満足しましたが二度目からは????が。今宵一夜じゃないの?三成自分の子って知ってて秀頼をたてるの?私達に別に三成じゃなくて戦国時代の姫と家臣の悲恋でいいような気がしました。そんなこと思いながら祐飛さん見たさに東京行きます!!
by 薫 (2011-06-23 09:13) 

夜野愉美

薫さま
コメントありがとうございます。
ま、結局、観るんですけどね(笑)

by 夜野愉美 (2011-06-23 22:44) 

でふふぃ

夜野さま
興味深い記事、ありがとうございます。
私はその秀頼の件はあまり気になっていないので、どうしてかなと
考えました。

まず、疾風の言っていることはすごく矛盾が多いですが、
彼はある種、狂ってます、彼が見てるのは茶々だけ。
その茶々が愛している男なので、自分も三成に引き寄せられていく。
抱け!という言葉はあまり綺麗ではないですが、インパクトありなので、
この人は常識の人ではないから、問題なし。

それから、私は秀頼は三成の子ではない、という検証を信頼しているので、
おそらく、これはないだろう、と心の底では思ってます。
だから、舞台でそれをにおわせていても、よくやるわ~と、まずはそれだけで、スルー。

あえて、祐飛さんが演じる立場に心を持って行くと、
彼は、秀頼は自分の子というより、茶々の子供、豊臣の後継者としてみなしている。
茶々とは、あの一夜だけですよ。あとはずっと、プラトニックな両想い。
だからこそ、強い絆、ピュアで永遠なのです。
ある意味、罪深い。だから、苦しむ。

三成は、豊臣秀吉の行った暗黒の事件に必ず名前が出ている。
それが事実かどうかはわからないけど、
徳川の策略かもしれないけど、
あえて汚名を着てまでも、秀吉を守った男。
秀吉の実子がいないとしたら、正妻は無理でも、
強力な第2夫人、茶々の子どもがいるのだったら、
その子を一番に考えよう。

たまたまその時の激情でできてしまった結果でも、
主君のために捧げる。捧げる忠義愛。
あえて、汚れ役は覚悟の上で。
女も子供も秀吉のもの。秀吉も、それはわかっていたのかもしれない。
それを疑いつつ、茶々に対する愛もあり、ときに三成にあたる。
三成はすべてを受け入れ、他のいくつかの事件のように自分を汚れ役にして、
ただ、忠臣として行動する。

本当の気持ちは隠して、心で茶々を支えよう。
豊臣家を守ろう。
ときどき揺れつつも、そうやって自分を律して生きたからこそ、
美しいのでは、と。

美しいって、いくつもの汚いものが混ざり合って、その中で沈殿したり、
昇華したり、
そうした美しさの方が、より貴いこともあるかな、と思います。
祐飛さんの清らかな美しさは、それを信じさせてくれる力がある気がします。
熱く語ってしまいました、すみません!
by でふふぃ (2011-06-24 08:59) 

r

こんにちは
こっちにもコメントしてみました。
私は疾風は三成の分身だと思ってます。大石先生は三成を清廉に描きたいために彼の中の汚れ役的な要素を抽出してさらに脚色して疾風という役に作り上げたのだと思います。なので、三成と疾風の場面は三成の自問自答の場面だと思うのです。祐飛さんと似た雰囲気をもつテル君だからこそ成功したキャスティングだと思います。
さて、茶々ですが最初は三成との今宵一夜を思い出に一生生き抜こうとしたと思うのですが、子が出来たと知ったとき直感的には彼女は三成の子だとわかったはずです。そして、三成の過ちを隠すため、そして父母を奪い三成とのなかを引き裂いた秀吉への最大の復讐のため、家臣の子を秀吉の子として仕立て上げることを覚悟したのだと思います。
期せずして茶々の復讐の片棒を担がされた三成ですが、子供の死に直面し、秀吉の死後茶々を守る方策を考えざる得なかったと思うのです。種無し馬の秀吉に子ができるはずがないと考えた三成は秀吉の忘れ形見のご生母として茶々を守ることを考えたのではないでしょうか?秀吉の子供だったらこんなにも悩まなくてすんだと思うのですよね。
生き残るため親子兄弟でさえ切って捨てる時代において、三つ成すことを貫き潔く散っていった三成の人生は十分美しい生涯だったと思います。
判りやすく言うならば美しい三成の潔き生涯ですよね。
予断ですが、茶々と疾風の密談が観客を混乱させる要因だと思いますよね。疾風は三成だけでなく茶々の心の内をも映し出す鏡の役目をしていると思われるので・・・
みっちゃん以下本当に書き込まれてなくて申し訳なく思いますが、作品としては首尾一貫としてよい作品だと私は思います。
by r (2011-06-24 13:02) 

夜野愉美

でるふぃさま
久しぶりに長文のコメントありがとうございます。
私も最初の何回かは、こんなことあってはいけない!と思って、色々なことをそっち方向で思いこもうとしました。
「二人の我が子 ひとりでも 守り抜く」という歌詞を、“二人産んだ我が子が一人になってしまっても”という意味だろうと思ってみたり…。
でも、うまくできているのですよ、そういう意味では、この脚本。
もう一度子を作れ!と迫る疾風の本心に気づいた三成が納刀し「お主の心、信じよう」と言って銀橋の歌があって、次には子が生まれている。これは、三成の納得の結果なのだ、と言わんばかりに…。

あまりにうまい展開なので、私も、とうとう4回目位の観劇で、諦めました…。最後まで頑張れなかった自分が悔しいです。
ただ、史実では絶対に秀頼は秀吉の子なんだと、思ってます。あんなに子供ができなかった人が、あそこまで信じ、秀頼を溺愛したからには、必ず根拠があると思うのです。(おそらく、秀吉には夭逝したにせよ、何人か実子がいたのではないかと思っています。そういう文献もあるようですし。)
万が一そうでなくても、三成は無実なんですよね。ちょうど朝鮮に行っていた時期かなんかで。

そんなわけで、史実の三成の無実と、祐飛さんの清廉な魅力で、私は大空祐飛演じる石田三成は好きですし、ほかの役を演じているほかの出演者たちも大好きです。
なので、東京も楽しく観劇したいと思っています。
by 夜野愉美 (2011-06-24 21:45) 

夜野愉美

r さま
でるふぃさまは無罪、r さまは有罪…
(あくまでも、秀頼の父親であるかないかに対してです。)
同じページのコメントなのに、全く反対のご意見が書かれるというのは、とても珍しいことですね。
芝居の中で語られる「事実」について、何度も観劇した観客すら真反対の認識を持つ…これだけで、もうその脚本はダメなんです。これは、大石静さんがすぐれた脚本家であることとか、石田先生がいい演出家であることには関係ありません。今回の脚本がダメだった、それだけです。

そしてダメな脚本を色々な形で脳内補完するのが、ヅカファンの常ですが、私は今回、それもやめました。どんな補完をしても、この作品を補完することはできないんです。さすがすぐれた脚本家の書くものは、こちらの辻褄合わせなんてものともしません。齋藤先生とはわけが違います。

祐飛さんのすごいなーと、思うのは、(これは、私の勝手な感想ですが)
そういう三成のヤバイ部分にはあえて踏み込まず、二人の一夜と、それ以降の完全な主従関係だけに絞って役作りをしていることです。
清廉な三成である以上、この記事に書いたことはすべてなかったことにして、それでもちゃんと三成を成立させている。それは外部の脚本家である大石先生には、宝塚の先生のように突っ込んだりディスカッションができないことをちゃんと弁えた祐飛さんの賢さだなと思っています。
だから、突っ込まないのが、ファンの礼儀だと思いつつ…書いてしまった私が一番愚かなんです、はい。わかってます…

あ、みっちゃん以下が書き込まれてないってことはないと思いますよ。
書かれてなかったかもしれないですが、演出によって七本槍は見事に輝いていると思います。宙組にスターが多すぎること、がそもそも問題なんじゃないかな?と他組を見ると思います。
by 夜野愉美 (2011-06-24 22:25) 

noe

こんばんは。いつも楽しみに拝見しています。
脚本についても、祐飛さんについても同感です。

by noe (2011-06-25 00:00) 

夜野愉美

noeさま
コメントありがとうございます。
今回の作品は、いろいろな見方があって、そういう意味では面白いですね。
by 夜野愉美 (2011-06-25 22:10) 

でるふぃ

夜野さま
数日たって、自分の記事を読むと恥ずかしい。
ひたすら、祐飛三成を弁護してますね~

しかも、名前「でふふぃ」になってるし!
(こんなミスを軽く見逃してくださって、ありがとうございます)

私、まだ、2回しか観てないんです。
まだ、見方が浅いのかもしれません。
東京になったら、私も諦めるのかな・・・わからないです。

すでに、私の友人で、22回観たという人がいて、
地元の下級生ファンですが、このお芝居は内容に不満はあっても、
通えるんですよね。
彼女は疾風は、大谷吉継と島左近を合わせた人物像なのでは・・と
言ってました。
びっくりしましたが、疾風についての考え方で、三成の印象も全然違ってきます。

ある意味、こうやって、大人たちが熱く自分の思いをぶつけたくなる、
語りたくなる・・
(夜野さんの考察、どれも興味深いです)

まだ、半分来たばかりなのに、こうですから、
これは、かなり魅力的な作品なんじゃないでしょうか。
役者さんたちも変わっていくだろうし、
これから舞台もまだ動いていきそうなので、楽しみです。

by でるふぃ (2011-06-26 23:33) 

夜野愉美

でるふぃさま
コメントありがとうございます。
ミスは誰でもやっちゃいますからねー。
私は諦めちゃいましたが、頑張れるだけ、頑張ってみてください。私ももう一度、頑張ってみようかな?
疾風というキャラクターが、いろいろポイントなようですね。ちょっと、大石先生のドリームが入り過ぎて分かりにくい人物になってるかなーと思います。2番手はひたすらかっこよくておいしい役にしたい…と思い過ぎたというか。もっと人間味のある、普通の人にした方が、却って役者の魅力でおいしくできる、2番手ってそういうものだと思うのですが、そこが大石先生の見誤りみたいな部分だと、ちょっと考えてしまいました。
(この辺は、また考察してみたいです。)
場面、場面は好きなところも多いですし、東京公演も楽しみです。
でるふぃさまも、ぜひ、新しい楽しみ場所を見つけて、教えて下さいね。
by 夜野愉美 (2011-06-27 00:27) 

r

コメントありがとうございます。
きゃはは~有罪ですか(笑)
2回目に観たときに直感的に疾風分身説を感じました。
自分の立場に縛られて本音を語れない領主やお姫様の代わりに本音をぶちまける道化みたいな存在です。でも二番手さんに道化をさせるわにはいきませんので、美しい忍びになってますけどね。

>芝居の中で語られる「事実」について、何度も観劇した観客すら真反対の認識を持つ…これだけで、もうその脚本はダメなんです。
だめなんですかね~。私はいつも事前勉強とかしなくてせりふとか舞台から発せられるものから、共感したりこういうことかなあとか思ったりしてます。
夜野さんのコメントから、いつも勉強させてもらって、へーそうなんだとかよく思ってます(笑)。

でるふぃさんも書かれているように
>ある意味、こうやって、大人たちが熱く自分の思いをぶつけたくなる、
語りたくなる・・
舞台から感じることでいろいろなイメージが溢れてきて私的にはせりふのつじつまが合ってるのですよね~。考えていて楽しい。
つっこみどころがあってもトラファルガーとか共感してもこんなに色々考えることなかったですね。まあ、世間の奥様方の顰蹙を買った(笑)ネルソンに対して全面的に共感した人ですから(笑)。

突っ込みコメント楽しみにしています。
by r (2011-06-27 12:58) 

夜野愉美

r さま
「三成有罪説」って書き方はちょっと言い過ぎですね。申し訳ありません。要は、秀頼の父親=三成と受け取ったという意味です。

あと脚本がダメっていうのも、切り捨て過ぎですよね。
今日、本屋さんで、東野圭吾さんが読書嫌いを返上したキッカケとなった本として、「アルキメデスは手を汚さない」という本が紹介されていました。
とっかかりは面白かったのに結末がイマイチで、読後感も悪くて、“これはダメ”と切り捨てた本でしたが、そのことをすぐに思い出せるほど、今でも心のどこかに引っかかっています。
そういう、なんかイヤなんだけど引っかかる…と思わせることは、もしかしたら、成功なのかもしれないな…と、それを見て思いました。
なので、こうしてr さまが引き込まれるってのも当然アリなんだと思います。

私もわりとネルソンに共感しちゃってましたよ<TRAFALGAR
by 夜野愉美 (2011-06-27 20:19) 

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