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ちょっとだけ古事記4 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

「ちょっとだけ古事記」、いよいよヤマトタケルの登場です。前回記事はこちらです。

神の時代から、有限の命を持った天孫の時代へ。
邇々芸の命(ににぎのみこと)の子、日子穂々手見の命(ひこほほでみのみこと=山幸彦)は、580年間、高千穂の宮にいて、亡くなる。その子、鵜葺草葺不合の命(うかやふきあえずのみこと)から、神倭伊波礼毘古の命(かむやまといわれびこのみこと)が生まれる。
彼が、後の神武天皇である。
神武天皇は、はじめ高千穂の宮にいたが、天下の政をもっと平らかに行うため、兄と相談して東へ行くことにする。神武東征である。
東征は、長い戦いの旅であった。兄も戦死するが神武は戦い続け、とうとう白檮原(かしはら=橿原)の宮において天下を治めることになる。
その神武から下ること12代、大帯日子淤斯呂和気の命(おおたらしひこおしろわけのみこと=後の景行天皇)は、身長199センチ、足も長かったらしい。(だから、越乃リュウさんが演じたのですね!)
彼には、多くの妃と80人の子供があった。
ヤマトタケルは、小碓の命(おうすのみこと)、またの名を倭男具那の命(やまとおぐなのみこと)といった。彼には、同腹の兄がいた。名を大碓の命(おおうすのみこと)といった。彼は、父天皇がお召しになる予定の娘と勝手に結婚してしまい、別の女をその娘と偽って天皇に差し出した。しかし天皇はそのことを知っていたので、偽って差し出した娘とは結婚しなかった。
そういう状況であったので、天皇と大碓は仲が悪かった。ある日、天皇は、朝夕の食事に現れない大碓のことを、弟の小碓に、お前から“ねぎらい訓(さと)しなさい”と言った。
しかし、まだ大碓が食事に出てこないので、どうしたのかと、再び訊くと、“とっくにねぎらいおしえました”との返事。なんと、夜明け、厠に入った時に待ち受けて、手足を引き裂いてコモに包んで投げ棄てたと言うのだ。
涼しい顔で恐ろしいことをする小碓に対して、天皇はどう思っただろうか?
当然のごとく、この辺りは、『MAHOROBA』ではカットされている。

天皇から、西の辺境に熊曽建(くまそたける)という乱暴者の兄弟がいるので、退治して来い、という命令が下ったのは、その後すぐのことだった。
まだ少年の髪形をしていた小碓は、叔母の倭比売(やまとひめ)から与えられた衣裳を着て、女の振りをすると、熊曽建はすっかり魅せられたようだった。宴たけなわになった頃、小碓はおもむろに剣を取り出すと、兄の熊曽の胸に刺し通した。
弟は逃げ出したが、小碓は背中を掴むと、剣を尻から刺し通した。
その状態で、弟が名を問うので、小碓はこう答えた。「私は、纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮に坐す、大八島国を知らす大帯日子淤斯呂和気の天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)の御子(みこ)、名は倭男具那の王(やまとおぐなのみこ)である」
それを聞いて、「私ども以上に強いあなたさまに、御名をたてまつりましょう。今から、倭建の御子(やまとたけるのみこ)と名乗りなさるがよい」と弟は答え、そして、斬り殺される。
こうして、彼は、倭建命(やまとたけるのみこと)となったのである。

なお、この後、大和へ凱旋するまでに、彼は、山の神、河の神、河口を守る穴戸の神、すべてを平らげたという。(あひちゃん、るいすん、まいちゃん辺りでしょうか?)ちなみに、これらの神々は、言向けた、とあるので、武力によってではなく、平和的な外交手段による平定ということらしい。

続いて出雲に入った倭建命は、ここに勢力を張る出雲建(いずもたける)を討つ。
その討ち方は、いわばだまし討ちのようなもので、最初は友好的に近づき、盟友の間柄になっておいて、偽の刀を帯びて水浴びに出かけ、再び着物を着る時に、刀を取り替えようと言い出し、刀を帯びると、今度は剣を合わせようと勝負を挑む。ところが、出雲建が帯びた倭建命の剣はニセモノで抜けないので、彼は剣を抜かないまま、斬り殺されてしまう。
ちょっと後味悪い話なので、ここも『MAHOROBA』ではあっさりカットされた。

このように活躍した倭建命であるのに、天皇は、「東方の十二道には、まだ荒ぶる神、まつろわぬ人々がいるので、これらを言向け和し平らげよ」と命令を下した。
これには、さすがの倭建命も泣き言がでる。
伊勢の倭比売のところに行き、「いったい天皇は、私に死んでしまえというのでしょうか」と愚痴を言っている。泣きながら訴える命に、倭比売は、草那芸(くさなぎ)の剣をお与えになり、嚢(ふくろ)を渡して、なにかあったら、この嚢の口を開けるように、と教えた。
十二道に深い意味があるかどうかは、わからないが、本居宣長の『古事記伝』によれば、十二道とは、伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総(上総・下総)・常陸・陸奥の十二だという。

『MAHOROBA』では、嚢の件は、あっさりとカットになっているが、それは、草薙の剣大活躍のシーンが割愛されているからである。
次回は、その辺りから書いてみようと思う。

参考図書は、こちら(↓)

神と歌の物語―新訳古事記

神と歌の物語―新訳古事記

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 単行本

【去年の今日】
かしちゃんのお披露目も見ないうちから、発表された宙組トップ人事。
寂しいことだが、さすがにこの時期までには発表しないと、いろいろ差し障りもあったのだろう。
トップが決まって一年、まだちょっとタニトップというものが明確に見えないような気がする秋の夕暮れ。


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ちょっとだけ古事記3 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

またまた時間が経過してしまったが、「ちょとだけ古事記」の続きです。前回は、こちら

こうして天孫降臨を果たした、日子番能邇々芸の命(ひこほのににぎのみこと)は、笠沙の岬で美しい娘に出会う。その娘は、大山津見の神(おおやまつみのかみ)の娘、木花の佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)。
大山津見の神は、あひちゃん(遼河はるひ)が演じた神様ですね。話は少しズレますが、宝塚の専科にも木花咲耶(このはなさくや)さんという女役さんがいらっしゃいました。植田紳爾先生の作品によく出演していたような…。
大山津見の神は、娘と邇々芸の命の結婚をたいそう喜んだ。そして、木花の佐久夜毘売に、その姉、石長比売(いわながひめ)を副えて奉った。
邇々芸の命は、かなり率直な性格だったようで、たいそう醜い容貌の石長比売は、送り返してしまった
それを知った大山津見の神は、邇々芸の命に言った。
「石長比売をお側にお使いくだされば、天つ神の御子の御生命は、たとえ雪が降り風が吹くとも、その名のように、つねに石のごとく、いつまでも固く、常盤であり、また木花の佐久夜毘売をお使いくだされば、木の花の栄えるごとく、いつまでも栄えるでしょう。しかし、ひとり、木花の佐久夜毘売だけをお側にお留めなされたので、天つ神の御子のご寿命は、木の花の咲く間だけ、ということになりましょう。」
永遠の命を持つ神の子孫である、邇々芸の命。
その子孫である天皇家の人々の命が永遠でないのは、邇々芸の命が、美女・木花の佐久夜毘売の不器量な姉を送り返したこと、が原因のようである。とすれば、ヤマトタケルの死も、元はと言えば……おそるべし、大山津見!

さて、恐るべしなのは、美女・木花の佐久夜毘売もである。
その一夜の契りで、懐妊したことを伝えると、邇々芸の命は、そんな1回くらいで妊娠するものか、どうせ国つ神の子であろう…とか、超失礼なことを言ってのける。すると、木花の佐久夜毘売は、産屋に火をつけ、本当に天つ神の子であれば、この中で無事に出産できるはず、と次々に子供を生む。
ひぇぇぇぇぇ~

こうして生まれた長男の火照の命(ほでりのみこと)は、別名を海幸彦という。弟の火遠理の命(ほおりのみこと)は、別名を山幸彦という。間に火須勢理の命(ほすせりのみこと)というのがいるらしいのだが、その話は出てこない。
この山幸彦、兄の仕事に憧れ、道具を交換したいとしつこく言う。
しょうがないから、兄はほんの少しだけ、と道具を交換し、山幸彦は、海に釣りにでかける。
ところが、そこで、山幸彦は、釣り針をなくしてしまう。
それで、自分の剣を壊して、釣り針を作ろうとするが、許してもらえない。あの針を返せ、と兄は言い張る。

山幸彦が、困り果てて海辺で泣いていると、塩椎(しおつち)の神が来て、
「虚空津日高(そらつひたか)、空の高い日を仰ぎ見るように貴いあなたが何を泣いているのですか?」
と聞くので、山幸彦は、事情を話す。
塩椎の神は、山幸彦のために舟を用意してくれる。
その舟に乗ると、綿津見の神の宮に着く。
えりさん(嘉月絵理)の宮、ですね。
そこで、綿津見の神の娘、豊玉毘売の命(とよたまびめのみこと)と出会い、結婚する。
ちなみに、虚空津日高は、山幸彦の別名らしい。天津日高日子穂々手見の命(あまつひたかひこほほでみのみこと)という別名もあるらしい。
で、3年も幸せに暮したあげく、山幸彦は思い出した。
そういえば、兄さんの釣り針をなくしたんだった。あれがないと、兄さんは困るだろうなー。
困るどころじゃないと思いますが…

話を聞いて、探してみると、咽喉に針がささって苦しいと言っている鯛がいたので、海の神は、その針を取り出して、山幸彦に返す。その時に、兄には呪いの言葉とともに返すように言う。そして、兄が攻めてきたら、こうしろとか、いろいろと知恵を授ける。
で、その結果、最後には、海幸彦は、山幸彦に隷属することになる。

なんか、「古事記」って、姉が不細工だったり、兄がなんにも悪いことしてないのに酷い目にあったり…そんな話が多いような…。なんとなく、納得がいかないのは、私が長子だからかもしれない。
海幸彦は、隼人の阿多の君の祖と言われている。

参考資料は、こちらです。次回から、ようやくヤマトタケル登場の予定です。
(↓)

神と歌の物語―新訳古事記

神と歌の物語―新訳古事記

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 単行本

【去年の今日】
「あかねさす紫の花」の瀬戸市公演を観劇。あれから1年が経過したとは、信じられない…。


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ちょっとだけ古事記2 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

前回書いてからだいぶ時間が経過してしまったが、「ちょっとだけ古事記」の続きです。前回記事は、こちら

前回は、火の迦具土の神(ひのかぐつちのかみ)を出産したことで陰部に火傷を負った伊耶那美の命(いざなみのみこと)が亡くなった話を、その後のエピソードを交えて書いた辺りで終わったと思う。
この火の迦具土の神は、『MAHOROBA』では、「燃ゆる島」の中でクマソたちに祀られている。
クマソはYAMATO(大和朝廷の前身的な意味合いなのかな?)に反抗している地方勢力だから、YAMATOの神は信仰していないはず。だから、火の迦具土の神は、YAMATOを追われた神という設定で、ここに登場するのかしら?などと考えながら、この場面を見ていた。

少し話が前後した。
三貴神が登場すると、古事記は、伊耶那岐の命(いざなぎのみこと)から三貴神へと代替りしていく。特に、天照大神(あまてらすおおみかみ)は、高天原(たかあまのはら)を治める最高神となる。
ここで、少し気になるのは、伊耶那岐の命・伊耶那美の命が、天の神から全権を委任されて降臨し、大八島(日本)を生んだという前段の話と、伊耶那岐の命の生んだ天照大神が天空(高天原)の支配者になるという物語が矛盾している点だろう。
伊耶那岐の命は、大八島では、一番えらいかもしれないが、天空には伊耶那岐の命を送り込んだ全能の神が存在しているのではないか?伊耶那岐の命が委任できる権利は、大八島の統治権だけではないのか?
その辺りも含めて、この段の物語はあっさりと割愛したいところだが、少しだけ書いておくと、伊耶那岐の命は、天照大神に高天原を治めさせると、自分は、淡海(近江)の多賀に鎮座してしまう。(=現多賀大社)
高天原を天照大神に、月読の命(つくよみのみこと)には、夜の食国(よるのおすくに)、つまり夜の世界を、そして建早須佐之男の命(たけはやすさのおのみこと)には、海原を治めよ、というのが伊耶那岐の命の命令だった。
えーと、大八島は、誰が治めるんですか?
伊耶那岐の命は、もしかしたら、大八島のことを思うと、その国を生んだ愛する人(伊耶那美の命)を思い出すから、忘れようとしたのだろうか?
建早須佐之男の命が神々から追われ、地上に到着し、櫛名田比売(くしなだひめ)を助けるために、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した話は、「スサノオ」でも語られたので、繰り返すのはよそう。が、この時、大蛇の一本の尾から、太刀が現れる。後に建早須佐之男の命はこれを、天照大神に献上し、それが『MAHOROBA』にも登場する草薙の剣となる。
大国主の命は、櫛名田比売を妻とした建早須佐之男の命の六世の孫である。建早須佐之男の命は、父・伊耶那岐の命の命令に従わず、乱暴が過ぎたので、高天原を追放されて地上に暮すことになり、神々を次々に生んでいった。
そして彼らの子孫である大国主の命が、80人もの兄弟たちを退けて、この国を治めることになった。大八島を生んだ父から疎まれ、姉である天照大神や八百万の神々に追放された、建早須佐之男の命の子孫が普通に大八島を統治する…これも不思議な話である。
さて、長い時が過ぎた後、突然天照大神は、大八島の統治に乗り出す。
豊葦原の千秋の長五百秋の瑞穂の国(とよあしはらのちあきのながいおあきのみずほのくに=大八島)は、我が御子、正勝吾勝々早日天の忍穂耳の命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の治める国である」と突然宣言したものの、既に、大八島は、大国主の子孫である「国つ神」たちの統治下にあった。
ここで、高天原の神と国つ神の間に、おそらく戦争のようなものがあったのだろうが、その辺りはうまくぼかされていて、有名な「国譲り」が行われる。以来、大国主は、出雲大社に祀られ、この国は天照大神の子孫によって治められることとなった。
最初に来ることになっていた、天の忍穂耳の命は、すったもんだの間に、自分より相応しい子供をもうけていたので、その子供、つまり天照大神にとって孫である、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸の命(あめにきしくにきしあまつひたかひこほのににぎのみこと)が豊葦原の水穂の国に使わされることになった。
その時、分岐点の地に一人の神が現れた。
天照大神は、天の宇受売の神(あめのうずめのかみ)を召して、先にその神に対峙させた。すると、その神は、自分は国つ神で名を猿田毘古の神(さるたびこのかみ)、そして天つ神の御子が天降られると聞いて先導するためにお迎えに来たと伝える。
猿田毘古の神は、先に鎮圧された国つ神の一族ではなく、海人(あま)族という別の勢力の神であり、この場面は、彼らが天つ神に服属したことを表現する場面とも言われているらしい。
日本書紀によると、その時、天の宇受売の神は胸と下半身をむき出しにした状態で猿田毘古の前に現れたとか。その上、多くの猿田彦神社では、天の宇受売を彼の妻として祀っているので、この時に二人の神は結ばれ、その子孫がサルメとサダルになったのだと考えていいのだろうと思う。
天照大神は、邇々芸の命に八尺の勾玉(やさかのまがたま)、鏡、草薙の剣を託し、この3つを私だと思って祀るようにと命じる。なお、邇々芸の命とともに降臨した五人の神々(伴の緒)のうち、天の児屋の命(あめのこやねのみこと)は、中臣の連の祖先だと書かれている。鎌足の祖先ということですね。天の宇受売の神は、猿女の君(さるめのきみ)らの祖先。サルメ一族については、「花のいそぎ」にも登場する巫女の系譜。伊斯許理度売の命(いしこりどめのみこと)は、作鏡の連(かがみつくりのむらじ)の祖先とあるが、これは、「あかねさす紫の花」に登場する額田女王の父や銀麻呂たちの一族の祖先であろうか?
こうして、邇々芸の命は、天の浮橋にすっくと立った後、筑紫の日向の高千穂の峰「久士布流多気(くしるふたけ)」に天降る。「ここは、対岸に韓の国が見え、朝日がただちにさす国、夕日の照る国、たいそうよい土地である」と、邇々芸の命は喜んだようだ。突然、対岸の朝鮮半島(韓の国)が登場するので、それが彼のふるさと、つまり高天原=韓国という説もよく聞かれる。
そして、先導してつかえてくれた猿田毘古の大神に感謝し、天の宇受売の命に、猿田毘古を送るように命じ、その名をいただいてお仕えするようにと指示する。天の宇受売の命の子孫が猿女(サルメ)と呼ばれるようになったのは、ここから来ている。

ちなみにサダルの名は、古事記には登場しない。

参考文献(↓)

神と歌の物語―新訳古事記

神と歌の物語―新訳古事記

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 単行本

【去年の今日】
次の日ケロリの本の話。これ、本当によくできていて、何度読んでも癒されます。大好き!
で、おととしの今日は、10万ヒットだったみたい。それがもうすぐ70万ヒットだなんて…すごいことだなー。10万だって到達したときは、驚きだったのに…


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「MAHOROBA」上演記念ちょっとだけ古事記1 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

月組公演「MAHOROBA」をより深く理解するために、「古事記」の本を読んだので、公演に関係のあるところを抜粋してみようと思う。
参考にしたのは、こちらの本です。

神と歌の物語―新訳古事記

神と歌の物語―新訳古事記

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 単行本

舞台は、まず、イザナギ・イザナミの二神による、「国造り・神作り」から始まる。
舞台センターからイザナギ(瀬奈じゅん)、上手のスッポンよりイザナミ(彩乃かなみ)がセリ上がるが、それ以前、舞台には天女役の娘役たちが踊っている。
実際には、神世七代と言われる神々が、イザナギたちに先行して存在している。
最初に現れた神の名は、どうやら天の御中主の神(あめのみなかぬしのかみ)というらしい。天の中心にあるというこの神は、実体が見えない。ここから下るにしたがって、神々は実体を表し、そして男女神に分化し、同時に生殖を行うようになる。
こうして、生まれた、イザナギ・イザナミは、神々から使わされ、天の浮橋の上で、混沌の中に「天の沼矛(あめのぬぼこ)」を突き刺す。そして泥の中から滴った雫から、オノコロ島が誕生する。
天の沼矛は、この一度しか使用されない。
だから、瀬奈は沼矛を放置して、彩乃と踊り始めるのだ。
芝居の中で、幻想的なデュエットダンスが踊られたら、それは、男女の営みである…という宝塚のお約束通り、オノコロ島に降り立った二人は結ばれ、次々に国を生んで行く。
淡路島、伊予の島(四国)、隠岐の島、筑紫島(九州)、壱岐の島、対馬、佐渡島、そして豊葦原の瑞穂の国、つまり本州である。この八つを大八島(おおやしま)と呼ぶ。(北海道は含まれていないらしい。)
二人は、その後も小さい島を生んでいくが、舞台は、神々の創造へと進んでいく。
二人は、まず三十五柱の神を生むが、舞台では、今後の展開に必要な神に限定されているようだ。
海の神・大綿津見の神(おおわたつみのかみ)、水戸(みなと)の神・速秋津日子の神(はやあきつひこのかみ)、妹速秋津比売の神(いもはやあきつひめのかみ)。
そして、風の神・志那都比古の神(しなつひこのかみ)、木の神・久々能智の神(くくのちのかみ)、山の神・大山津見の神(おおやまつみのかみ)、野の神・鹿屋野比売の神(かやのひめのかみ)、
最後に火の神である火の迦具土の神(ひのかぐつちのかみ)を生んだ時、イザナミは陰部を火傷して、命を落す。
…と、ここで、重大なことに我々は気づく。
生む、という言葉を普通に書いてきたが、どうやら、本当に国や神を出産していたらしい、ということに。
本州まで産むとは…イザナミ、どんだけ、でっかいんだ…

そして、亡くなったイザナミを追って、イザナギが黄泉の国に行った話に繋がるのだが、ここは、ロマンチックな話ではないので、舞台ではあえなくカットされている。

簡単に書けば、黄泉の国において、決して姿を見てくれるなと言ったイザナミとの約束をやぶって、つい、イザナギが見てしまったら、既に蛆のわいた化け物のようになっていて、イザナギは千年の恋も冷めて逃げ帰った。それをイザナミは追いかけて、よくも恥をかかせてくれた、許せない、と激怒。それで、この地上の人間を毎日千人殺してやるとイザナミは言い、それなら毎日千五百人生んでやるとイザナギは言い、こうして、地上の人間は生まれ、そして死んでいくようになった。

黄泉の国の穢れを落すため、イザナギは禊をする。
左の目を洗うと、天照大神(あまてらすおおみかみ)、右の目を洗うと、月読の命(つくよみのみこと)、そして鼻を洗うと、建速須佐之男の命(たけはやすさのおのみこと)が生まれた。これを三貴神と呼ぶ。

少し先になるが、クマソ征伐の場面で、クマソの神として、火の迦具土の神(青樹泉)が登場する。
なんで敵の神に?と思うが、実は、彼の誕生によって、イザナミが死んだため、怒ったイザナギは生まれた火の迦具土の神の首を刎ねてしまう。
この時、刀や血から多くの神々が生まれたが、刀の柄に付いた血から生まれた神が、闇淤加美の神(くらおかみのかみ)と闇御津羽の神(くらみつはのかみ)、龍神であったり水神であったりする。
ショーでは、普通に速秋津日子の神らの次に紹介されていたが、実はこんなエピソードと共に生まれてきたのである。

【去年の今日】
「あかねさす紫の花」全国ツアー、前半の感想。
すごく細かく調べて、いろいろ検証しているが、つまるところ、中大兄皇子素敵!という内容なところが、我ながら、相当イタい…。


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「パリ空」に最後のつっこみを [┣宝塚作品関連本等の紹介]

ようやく、借りていた本を読み終えた。

ギュスターヴ・エッフェル―パリに大記念塔を建てた男

ギュスターヴ・エッフェル―パリに大記念塔を建てた男

  • 作者: アンリ ロワレット
  • 出版社/メーカー: 西村書店
  • 発売日: 2001/09
  • メディア: 単行本

エッフェルさんの評伝である。
内容は、エッフェルさんの一生とその数々の偉業について、なかでも、エッフェル塔の建設について、本人の著書や同時代の著作物、とりわけ多くの写真も利用しながら、19世紀末という時代と、その中に生きた「鉄の魔術師」エッフェルが浮き彫りになるように、注意深く書かれている。
客観的な記述が多いのだが、その中で、鉄の時代の芸術性を引き立てたのが写真だったという一文が印象的。この時代は、石の文化から鉄の文化への端境期。そして、絵画に対して写真というものが一般化した時代。
当然、石側、絵画側は、新しい鉄や写真を攻撃する。
21世紀、石と鉄、絵画と写真は共存している。しかし、それは結果であって、新しい技術が生まれた時、古いものは「とって代わられる」恐怖を禁じ得ない
事実、絵画と写真は共存したが、ビデオとDVDは共存できなかったのだから。
そして、鉄の芸術性は、同じく新しい文化である「写真」が伝えることになる。「写真」は事実を等身大に伝える。大胆なデフォルメはできないが、一瞬の構図を切り取ることができるから、絵画ではありえないアングルが可能になる。
そして、どんな細かい情報も一瞬で切り取る写真だからこそ、幾何学の中の芸術性が浮かび上がる。
もちろん、エッフェル塔を描いた絵画にも素晴らしいものがあるのだが、最初にその芸術性を気づかせたのが、写真だったというのは、なるほど!と思わせるものだった。

さて、「パリ空」関連の新しい情報。

エッフェル塔の設計者について。
よく、エッフェル塔の設計者は、モーリス・ケクランとステファン・ソヴェストルで、エッフェルは建設会社の社長などと書かれていたりする。
そうすると、エッフェルさんは、土建屋のオヤジみたいな印象を持たれてしまうだろうが、根本的にエッフェルさんは技術者である。ただ、彼は経営のできる技術者だったのだ。
彼はさまざまな技術的発明を行なったし、橋の建設においては、革新的な方法をいくつも考案している。図面も書くし、構造計算もやる。
鉄の橋をいくつも造り、そういうエッフェル社に彼と同じような技術者が多く集まった。そんな社員の中から、1889年の万博用のモニュメントとして鉄塔を作る、という案が持ち上がった。エッフェルさんは、社員のアイデアを買い上げ、引き続き研究させ、短い期間で建設するためのさまざまな手段を考案し、万博に間に合うように引き渡した。
エッフェルだから、コンペを無競争で勝ち上がったのだし、エッフェルだから工事は成功したのだし、第一、下に書いたように、エッフェルが資金を調達したのだ。
この塔は、エッフェルのみによって建設された塔ではないが、やはり、エッフェル塔と呼ばれるのが一番相応しいという気がする。

エッフェル塔の建設資金について。
「工事の費用として、博覧会予算から150万フランと、博覧会開催中および1890年1月1日から20年間の塔の営業収益がエッフェル氏に代償として与えられる。」
という契約が結ばれていたらしい。
この150万フラン(決して1500万フランではなく)は、3回に分けて支払われた。
2階まで完成したところで50万フラン、3階まで完成したところで50万フラン、そして仮引渡しで50万フラン。かなりケチくさい払い方である。
一方、収益権は、1910年に70年間に延長され、1980年にパリ市が株式の大半を所有するエッフェル塔経営新会社に引き継がれたという。
結局、90年間に亙って収益を受け続けたのだから、「もうかりますよ~」は間違いなかっただろう。
が、どうやら、一般株主はいなかったらしい。
エッフェル氏の計画によると、当初の工事費は650万フラン。
ここから助成金の150万フランを引いた、500万フランを捻出しなければならなかったエッフェル氏は、「500フランの株1万株からなる資本金500万フランの会社設立を計画」したらしい。
フランスワイン業界だけで買い占められますな!
と思ったら、なんと、株の半分はエッフェル氏が所有したという。つまり自己資金を250万フラン拠出したわけですね。
そして、残りの250万フランは、3つの銀行がつくる「企業連合」が取得したらしい。
やるな、アルベール…
実際の建設費は、745万フラン強。(7,457,000フラン)
そして万博期間中の収益は、651万フラン弱。(6,509,901フラン80サンチーム)
期間中の償還は難しかったが、その後、短期間で全資金は回収されたようだ。

さて、「パリ空」最大の突っ込みどころは、言わずと知れた嵐の夜の場面である。
300メートルの塔を血だらけになりながら支えたって…身長高くても2メートル弱の人間が?
支えるもなにも、足元2メートルあたりじゃ揺れもしませんから!ってところだろう。
建設中の塔なら、足場がある。
エッフェル塔の足場は木造だった。
だから、たとえば足場が崩れる、とか、崩れそうな資材置き場とか、リアリティのある設定にできなかったんだろうか?と思う。そういう事故の可能性なら、十分にあったはずだから。
でも、塔が倒れる可能性は万にひとつもなかった。
どこかの一級建築士なんかよりずっと緻密な計算で、この塔は造られている。風で倒れないように、途中で傾かないように。
「パリ空」は、最近の植田先生の作品の中では、わりと好きな方だ。
だから、リアリティがない、っていうことへの不満があるわけではない。
ただ…たぶん、エッフェルさんや、ケクランさんや、ソヴェストルさん…みんな、風で塔が揺らがないか、それを一番気にして、細心の注意を払ってこの塔を設計したと思うのだ。なのに、そのことにリスペクトが足りないのはすごーく残念だなぁ~と、そこだけ、もう一度だけ突っ込んでおきたかった。
そう思える詳細な記録が書かれたかなりマニアックな本だった。

【去年の今日】
フィッツジェラルド紹介の続き。
それとは別に、去年の「去年の今日」の記事で、祐飛さんの別格3番手を認めてほしいということを書いているらしい。
そのことを書きつつ、今の祐飛さんは、路線方向に向いている、と書かれている。
1年経って…路線方向っていうのも、どうだろう?という気持ちになってきた。
でも、出版物では路線扱い、舞台の扱いもよくて、でも路線じゃない、でも、すごくファンが多いイメージがある。(観劇後、出を待つファンは多いなぁ~と、思う。)
あーつまり、そうか、only oneってことか。


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「エッフェル塔ものがたり」 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

「パリの空よりも高く」を観劇するうち、エッフェル塔建設に関する疑問が山のように出てきたので、エッフェル塔が出来るまでの真実を調べたい、と思うようになった。それでいくつかの本を図書館で借りてみた。
ひとつ読み終わったので、「パリ空」の真実の世界をご紹介したい。

エッフェル塔ものがたり

エッフェル塔ものがたり

  • 作者: 倉田 保雄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1983/01
  • メディア: 新書

こちらの本の著者は、通信社の特派員として、パリに住んでいた方。

設計者がギュスタブ・エッフェルである、など、いくつかの事実誤認があるのだが、エッフェル塔にまつわる、あれやこれや様々なエピソード集といった感じで、気軽に読めた。

まず、エッフェル塔とパリ万博は不可分の関係だが、なぜ万博か、というと、それは当時のフランス及びヨーロッパの国情に大きな理由があったようだ。
みつきねこさまのブログにもあるように、エッフェル塔が誕生した年、ルドルフ・ハプスブルクが自殺して(もしくは暗殺されて)いる。
当時のヨーロッパは、オーストリー(オーストリア=ハンガリー二重帝国)の凋落とドイツ(プロシア)の台頭が顕著であり、フランスは対独戦争(普仏戦争)で苦渋を舐めていた。また、戦争直後にパリ・コミューンの革命騒ぎが起きている。
そんな中でもフランスは万博を開催している。オテル・ド・サン・ミッシェルにとっては思い出したくない閑古鳥の万博だったらしいが、第3回のパリ万博は1610万人の観客を集め、国力の回復に一役買っている。
ちなみに、当時、万博は「やりたい」と言えば、どこでも誰でもやれたが、やりたいと言うところはそう多くはなく、何度も開催しているのはパリだけだった。

<万博と開催地の一覧>

開催地 入場者数
1851年 ロンドン 600万人
1855年 パリ(第1回) 516万人
1867年 パリ(第2回) 1100万人
1873年 ウィーン 726万人
1876年 フィラデルフィア 1017万人
1878年 パリ(第3回) 1610万人


どうして、フランスが万博に力を入れたか、というと、武力でドイツ(プロシア)を圧倒するよりは、産業立国としての実力で勝負した方が、まだ勝算があったためらしい。現実主義のフランス人らしい選択である。
パリ・コミューンの動乱期にあっても万博を開催したフランスが、「革命100周年」の年(1889年)に万博を企画したのはむしろ当然の成り行きだった。
あとは万博の目玉を何にするか?だけの話である。

ここから、物語は、「パリの空よりも高く」とは少し違ってくる。
第3回の万博でトロカデロの丘に宮殿を作った建築家のブールデが、アンバリードの広場に高さ366メートルの石の塔を造る計画を発表する。その名も「太陽の塔」。もしこれが採用されていたら、岡本太郎氏の「太陽の塔」は造られなかったかもしれない。
ただ、この計画に担当大臣であるロクロワ商工相は難色を示す。石の塔の重量と風圧への抵抗のふたつの点において。
なんだ、最初から「風」のことはみんな気にしてたんじゃないか!
さらに、「石積みには高さに限界がある」はずだが、その限界はエッフェル塔の高さよりも高かったらしい…。
同じ頃、一紙だけがギュスタブ・エッフェル設計の「鉄の塔」についてすっぱ抜いた。ロクロワはこの案に乗り、ブールデの石の塔を落とすために、コンクール開催を提言、既に人気建築家だったエッフェルは、いまさらコンクールなんて!と腹を立てたものの、実際は出来レースで、構想説明に行った先で、口々に「おめでとう」と言われたエッフェルは当惑したという。

さて、エッフェルさん、実は、この時50代のおっさんだった、ということは既にあちこちに書かれている通りだが、「独身」ではあった。30代でやもめとなったエッフェルさん、その妻に操を立て、生涯再婚はしなかったのである。
もしミミと結ばれていても、一応、問題ない設定ではあった。たぶん偶然だが。
彼は、ドイツ系移民の子孫であり、エッフェル塔建設の10年前までは、エッフェル-ベニックハウゼンという長い姓を使用していた。もし、姓を改めていなかったら、当時の独仏事情を考えると塔の名は彼の名を使用しなかったかもしれない。

1886年7月に塔建設の仮契約。
ここで政府からの助成金150万フランが決定。
え?150万フラン?
植田先生、ケタが違ってるじゃん!!!
あ、ちなみにエッフェルの最初の試算によると、塔の建設費は650万フラン
残り500万フランは、エッフェルが自分で調達しなければならない。
とはいえ、万博という公のイベントであるため、エッフェル側の収入源である塔の入場料には、政府から枠が決められた。
1887年1月28日 鍬入れ
1887年6月11日 基礎工事完了(4本の足の台座)
1887年7月1日 第2期工事開始。工事はプレハブ工法によるもので、あらかじめエッフェルの作業場で鉄骨を準備し、現場では組み立てるだけだった。
1888年3月 1Fプラットフォーム完成。別々に組み立てられた4本の足に梁を渡し、その上にプラットフォームを構築。ここに、レストラン4軒が入ることになる。
1888年6月12日 2Fプラットフォーム工事着工。
1888年7月13日 2Fプラットフォームより花火を打ち上げる。
ここで過酷な労働に対し、作業員がストライキを敢行。エッフェルは、作業員解雇も辞さず、という姿勢でストライキを回避するが、後日、1889年3月末までに工事が完成した場合にはボーナス支給(一人100フラン)を約束し、さらに作業員のハートを掴んだらしい。
1889年2月24日 3Fプラットフォーム工事着工。実は、エッフェル、ここに居を構えることにしたようだ。
エッフェル塔は、当時実用化されたばかりの電気も通っていたし、(照明はガスと併用)電話機もあったらしい。各階の行き来は水圧式エレベーターを使用。ただし、5月26日から運行開始…ということは、万博初日には間に合っていない。
なお、階段は頂上まで1710段とのこと。

1889年3月30日。予定通り工事は終了し、エッフェル塔は、高さ300メートルで正式に完成した。
翌、3月31日午後1時30分から、ティラール首相ほか各界のお歴々を招いて、盛大に落成式が行なわれた。(5月15日ってなんだよ?)
エレベーターは未完成だったので、参加者は、階段で塔を登らざるをえなかった。1F、2F、3Fとプラットフォームに着くたび、参加者は減り、3Fプラットフォームで国歌斉唱・国旗掲揚に参加できたのは、35名(うち女性1名)だったそうだ。(首相は1Fでギブアップ)
地上もお祭り騒ぎで、作業員がギュスタブに、白百合の花束を贈呈、ギュスタブはその花を、古参作業員の一人の妻にプレゼントしたそうだ。

1889年5月6日 第4回パリ万博が開幕。
ただし、この日、エッフェル塔に登ることはできなかった。エレベーターが動いていないので、来場者が混乱する、というのがエッフェルの見解だった。
5月15日、待望のエレベーターが完成した。
が、テストがまだだったので、運行はできない。しかし、新聞がエッフェル塔になにか問題があるのでは?と煽ったため、とうとう、エレベーターなしで、この日、エッフェル塔は一般に公開された。
そう、エッフェル塔に初めて一般人が登った日、それが5月15日だったんですね。ちなみに最初の10人は無料サービスだったそうだが、無料でも1700段は…
ちなみにエレベーターは5月26日から運行している。

万博の会期は6ヶ月と決まっているが、エッフェル塔が好評だったため、数日延長して11月8日閉会。
なお、エッフェル塔株式会社は、資本金510万フランだったらしい。
1900年の第5回万博までの間に、この会社が支払った配当金は135万フランに達したという。いいお小遣い稼ぎになったでしょうね、みなさん。

エッフェル塔のその後の運命についても少し書いておきたい。
エッフェル塔は1900年のパリ万博にも参加したが、1909年に賃貸借契約が切れるのを期に、取り壊される可能性があった。が、軍の無線電信用のアンテナ設備に使える、ということで、取り壊しを免れた。
ここでの無線傍受により、マタ・ハリも逮捕できたらしい。
さて、エッフェル塔は、気象観測などの施設にもなっている。ギュスタブが、地上300メートルだからこそできる、学術研究のために場所を提供したのだ。
また、ギュスタブは、風の制御に関する研究を行い、その成果が、現在の航空力学に繋がっている。1909年、ギュスタブは、エッフェル塔の下に、風力研究所を造り、人口風を自由に送り込むことが出来る、エッフェル型風洞を完成した。(航空力学にはてんで疎いのでわからないが、どうやら、風洞で空気抵抗を調べることによって、飛行機がどんな風に飛ぶか、あるいは飛べないのか、がわかるらしい。)
ちなみに、エッフェル塔は、秒速50メートルの風に抵抗出来得るもの、と、想定してあのシルエットで設計されているので、どんな嵐が来ても大丈夫なのだ。まあ、これまでに測定された一番強い風の時、12センチほど揺れたらしいが。
その後、エッフェル塔株式会社は、塔の側面に広告照明を点けることを提案、1920年代から30年代にかけて、シトロエンのイルミネーションがエッフェル塔を彩った。
リンドバーグによる大西洋無着陸横断飛行、「翼よ、あれがパリの灯だ」の「あれ」はシトロエンのイルミネーションだったと言われている。もしそうなら、飛行機の発展に貢献したエッフェルだけに、因縁めいた話だ。

1940年、ドイツ軍によるパリ占領。エッフェル塔は前年50周年を迎えたところだった。この時、ドイツ軍のパリ入場とともに、エッフェル塔のエレベーターは、一斉に動かなくなった、という。
戦局はやがてドイツに不利に転換していく。
パリ撤退前、ヒットラーからコルティッツ占領軍司令官への命令は「パリを破壊せよ」だった。
このあたりのことは、ぜひ「螺旋のオルフェ」のビデオを見ていただくとして、結局、「パリは燃えているか」の答えはNOだった。コルティッツは、激しいレジスタンス活動、自由フランス軍戦車部隊、米軍部隊の入場を知りながら、ヒットラーの命令に従わなかった。
1944年8月25日正午、エッフェル塔に再び三色旗が翻った。旗を掲げたのは、1940年6月13日、ドイツ軍の占領を前に三色旗を降ろした消防隊員サルニゲだった、とか。
ちなみに4年間動かなかったエレベーターは、一人の老人がエレベーターの機械室でいくつかのネジを締め、復活させたという。おそらくは、動かなくなったのも彼の仕業だったのだろう。

かの詩人、ギョーム・アポリネールは、エッフェル塔「羊飼いの娘」にたとえる詩を書いたり、「エッフェル塔」という名の、塔の形に描いた詩を書いたりしている。こちらも、興味のある方は、「1914」のDVDを観て下さい。いや、その詩は出てきませんけど、とても麗しいアポリネールさんが出てきます。

【去年の今日】
某打ち上げに参加。
芸能人っていっても普通の人なんだなーと思う反面、おなじ人間とは思えない滲み出る美しさ、オーラに唖然とする。いい経験だった。
(素のタカラジェンヌもお茶会とかで見るけど、あの方たちは、どういうわけか普通の人に思えないんで…)


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フィッツジェラルドの短編 [┣宝塚作品関連本等の紹介]

「フィッツジェラルドの短編のファンも多いですわ」
青葉みちるちゃんのセリフがまだ耳に残っている。

というわけで、長編「華麗なるギャツビー」を読んだあとは、短編をいくつか読んだりしている。
たしかに、長編とは別に「短編ファン」がいる、というのはわかる気がする。
最初に読んだのは、「フィッツジェラルド短編集」。野崎孝氏が訳したもので、「氷の宮殿」「冬の夢」「金持ちの御曹司」「乗継ぎのための三時間」「泳ぐ人たち」「バビロン再訪」の六編が収められている。

フィツジェラルド短編集

フィツジェラルド短編集

  • 作者: F.S. フィツジェラルド
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1990/08
  • メディア: 文庫

それから、村上春樹氏の解説つきの本を読み始めている。恐ろしいことに超ベストセラー作家の村上春樹氏の本を読んだのは、これが初めてだったりする。

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1991/04
  • メディア: 文庫
バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉

  • 作者: スコット フィッツジェラルド
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1999/09
  • メディア: 文庫

マイ・ロスト・シティー

マイ・ロスト・シティー

  • 作者: 村上 春樹, スコット・フィッツジェラルド
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1984/01
  • メディア: 文庫
この3冊の文庫に出てくる作品は、「自立する娘」「金持ちの青年」(上記「金持ちの御曹司」と同作)「ジェリービーン」「カットグラスの鉢」「結婚パーティー」「バビロンに帰る」「残り火」「氷の宮殿」「悲しみの孔雀」「失われた三時間」(上記「乗り継ぎのための三時間」と同作)「アルコールの中で」「マイ・ロスト・シティー」全部読んだら、かなりのフィッツジェラルド通になれそうだ。
村上氏の本は、「村上春樹が紹介するフィッツジェラルド」的色彩が濃いので、彼の解説を受けて小説が展開する。なので、最初から、村上氏の影響を受けた状態で読んでいるのだが、「THE LAST PARTY」を観た後では、その影響も受けた状態で読んでいるので、かなり色濃い先入観付きの読書になってしまう。
そういう状況で見ると、「自立する娘」などは、大空スコットが「そっちの希望どおり書き直す。甘ったるいハッピーエンディングにね」と言った作品なんじゃないか、としか思えなかったり…。
…というわけで、私、フィッツジェラルド短編のファンです
最後に、1940年には人々に忘れ去られたフィッツジェラルドでしたが、その後、見直されたのは本当で、今では、米国で最もスタンダードな文学として受け入れられており、その普及率はヘミングウェイをはるかに凌いでいるようです。
【去年の今日】
さえちゃんのお茶会に行った。
綺麗で幸せそうなさえちゃんに酔った。
やっぱり、さよなら公演は、悲しくて美しいな。
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フィッツジェラルドの午前三時⑥ [┣宝塚作品関連本等の紹介]

スコットとアルコールについては、これ以上書くこともないだろう。
けれど、次のエピソードだけは、個人的に外せなかった。

“ある夜、ハンフリー・ボガートがハリウッドのクローヴァー・クラブで経験した驚きは想像に余りあるものだ。フィッツジェラルドシーラ・グレアムを連れてバーに入ってきた。そして、しばらくボガートのテーブルに同席したので、ボガートはフィッツジェラルドに一杯飲まないかと勧めた。すると、このときスコットはにっこりと笑って、いや結構、といったのだった。”

シーラが献身的に尽くしたおかげで、スコットは禁酒をして「ラスト・タイクーン」の執筆に取り掛かる。このエピソードがその頃のことか、それとも、それ以前のアル中時代のまれなエピソードかはわからないが、スコットの断り方に注目!である。
「いや、結構」(おそらくは、“No, thank you.”の訳)
これこそ、ラスパ千秋楽で、アーネストに「食べるか?」と聞かれた祐飛スコットのアドリブ。
このエピソードを読んでいたのか、それともスコットになり切っていたのか、どちらにしても、とても嬉しいエピソードだった。

 さて、前にも触れた通り、フィッツジェラルドは気に入った作家が自分の評価以上に世間に知られていないと、なんとかして売り出してやろうと、あれこれ協力するタニマチ的キャラクターだったようだ。
ただ、このタニマチ(ヅカファン的には“オバサマ”?)、業界のネットワークは使うものの金は出さない。(出す金がない。困窮するヘミングウェイにおごったことはあるようだが。)そして、口は限りなく出す。
作家たちもスコットの善意の助言には辟易していたようで、それとアル中にうんざりして、だいたい仲違いしてしまったようだ。

特にヘミングウェイとの関係はこじれにこじれた。けれどこの二人、仲違いしながらも文通を止めなかったようで、奇妙な関係ではある。
こじれた原因は、以下のようなものだった。
① アーネストは、ゼルダが諸悪の根源だと思っていた。ゼルダはスコットの仕事に嫉妬し、スコットをスポイルすることに情熱を燃やす女だ、というわけ。
“きみが酔っ払いなのはもちろんだが、(ジェイムズ)ジョイスやほかのすぐれた作家の大部分よりも酔っ払いだというわけではない”
問題は「酒」でなく「女」だというわけだ。
② スコットは自分の人生に沿った物語を創作する作家であり、またあからさまに私生活を書いたエッセイをも執筆しているが、他人に自分の窮状を書かれることには我慢がならなかった。つまり自虐ではあるが、被虐趣味はなかったのだ。アーネストはそれに気づかず、「キリマンジャロの雪」のような小説を書いた。このことで、スコットはかなり傷ついた。
③ 二人はユーモアに対するセンスが徹底的に違っていた。両方とも、アメリカ人らしいセンスなのだが、タイプが違う。ヘミングウェイはスラップスティック的プラクティカルジョークを好み、フィッツジェラルドはシニカルなブラックジョークを好む。そしてヘミングウェイの攻撃はブラックジョークを含んで他者に向けられ、フィッツジェラルドはそれを真に受け、内に籠り、時に卑屈に反撃する。(スコットのブラックジョークは、ほとんど自虐のオチを常としていた)
④ フィッツジェラルドは純粋に心からヘミングウェイを賞賛したが、ヘミングウェイは、フィッツジェラルドを認めないことで、自らの地位を不動のものにした。スコットは死ぬまでアーネストを意識していたが、アーネストは死者に鞭打つように「ラスト・タイクーン」を批判した。
蝶は死ぬまで羽をばたばたさせ続けていましたが、その羽からはとうの昔に鱗粉が全部剥げ落ちていたのです』

しかし、アーネストはその後マックスに次のように語っている。
“ぼくは、体のがっしりした子供が、ひ弱だが才能に溢れた子供にそうするように、スコットにたいしていつでも、ひどく愚かで、ひどく子供っぽい優越感を抱いていました”
ひ弱だが才能に溢れた子供は、そんな風に思われていたことは、まったく知らなかっただろう。
ただ、彼は、アーネストもまた万能ではないことを知っていた。
“アーネストはぼくとおなじくらい傷ついているが、その表現方法は違っている。彼の性質からしてそれは誇大妄想になり、ぼくの場合は憂鬱症になる”

「THE LAST PARTY」に関係ある部分だけを引用して、この本を6回に亙って紹介してきたが、ここに引用した以外にもローラやシーラに関する逸話など、かなり興味深い部分もあるので、フィッツジェラルドの生涯に興味を持たれた方はぜひ一読をお勧めしたい。

フィッツジェラルドの午前三時

フィッツジェラルドの午前三時

  • 作者: ロジェ グルニエ
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1999/03
  • メディア: 単行本


ただ、植田景子先生は、あの作品のスコットのイメージの多くを村上春樹氏の著書から構築しているように思った。そちらに興味のある方は、こっちですね。

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1991/04
  • メディア: 文庫
【去年の今日】
ラスト・デイに大劇場の大階段を下りる衣装の考察をしている。
トップ・スターは、紋付・袴以外の衣装で下りられるようだが、かつてのトップさんはどんな恰好で下りているのだろうか、という一覧。
これは①ということで、続きを書かなきゃいけないのだが、まだ書いていない。
…というより、これ以降、誰が何年に退団したか、あまり覚えていない。
記憶の減退…やばい…な…
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フィッツジェラルドの午前三時⑤ [┣宝塚作品関連本等の紹介]

『ゼルダの病院へ向かう細い道のうえで、ぼくは希望をもつ能力を失った』
と、スコットは書いている。
1930年、スイス、レマン湖のほとりにあるサナトリウムで、ゼルダは精神分裂症の診断を受ける。(月組ファンにとっては、たまらない偶然ではある)
診断によれば、発症は5年前で、スコットはその発病を遅らせることはできたかもしれないが、遅かれ早かれゼルダはこうなる運命だったと言われる。

『なぜ、自分が作ったこの悲しみの家庭の請求書の支払いをするために働つづけるのだろう、と自問していたことを思い出す』
1930年夏、とうとう投函されなかった手紙をスコットは大切に取っていた。
『ぼくたちは道を失ったが、正直いって、ぼくたちがお互いを失ったと思ったことは一度もない』
その頃、ゼルダが書いた手紙が、ラスパに登場するあの感動的な手紙だ。
『この世に正義があるのなら、あなたは幸せになれるでしょう』

ただ現実のフィッツジェラルド夫妻は、ドラマよりもずっと自己破壊的だったらしく、その辺はさすがに植田景子先生も、筆を弱めたのだろう。
関係者のこんな証言がある。
“スコットがゼルダを監視しているときの、彼の顔に浮かんで消えた悲劇的な恐怖の表情をわたしはけっして忘れないだろう。彼らは愛しあったことがあるが、いまやそれは終わりを告げた。しかし、彼はいまだにその愛を愛しており、その愛を棄てることを嫌っているのだ。彼が大事に面倒を見て、慈しみつづけていたのは、その事実だったのである”
現実は、ドラマほどやさしくはない。

フィッツジェラルドは、自らの破天荒な行いを恥じたのか、青年になってからは教会を避けて生きていた。
が、その精神は、かなり保守的であり、デビュー作の中に性的な魅力溢れるヒロインが登場しはするものの、実際のスコットは、奔放な女に惹かれながらも、性を謳歌する女性を軽蔑するところがあったようだ。
それもまた、スコットの分裂的傾向である。
彼の好みは派手な、時代の先端を行き、旧来の体制を打ち壊すような女性だった。にもかかわらず、性的な意味では、カトリックの教義を必死に守ろうとし、そういう女性を求めた。
スコットにとって女性とはなんだったのか。
スコッティーが生まれたとき、彼が思わず口にした言葉は、そのままノートに書き込まれ、「華麗なるギャツビー」に引用されている。
『女の子のこの世でいちばんの取り得は―ばかで、きれいなことだから』

では、きれいな男の子というのは、取り得になるのだろうか?
実は、フィッツジェラルドは、プリンストン大学での相互投票で「いちばんきれいな男子」部門で第一位になっている。
「これは名誉なんかじゃなく、屈辱の平手打ちだった」とスコットは語った。

1936年のフィッツジェラルド。
「ニューヨーク・ポスト」の新聞記者がインタビューにやってきて、フィッツジェラルドのありのままの姿を暴露している。当時、彼は鎖骨を骨折していて、風邪とリューマチを併発していた。
“ベッドから飛びおり、またそこに戻る苛立たしげな様子、たえず行ったり来たりする行動、両手の震え、引き出しに酒瓶の入った書き物机のところまで頻繁に足を運ぶこと”
この記事が発表された時、発作的にスコットは自殺を図っている。
『30年代には、友人が必要だった。40年代になると、友人は愛と同様、われわれを救ってくれないことに気がついていた』
とスコットは書いた。40年代の最初の1年がスコットの人生最後の1年になってしまうのだが。

スコットは寂しがり屋な人間の常として、友人をとても大切にした。大切にしすぎて、時におせっかいとも思える助言を行ないもしたが…。
そんな友人の一人に、リング・ラードナーという男がいる。彼はスコットより少し年長で、記者あがりの物書きだった。スコットは彼の短篇をスクリブナーズ社から出版する手伝いをした。
ラードナーもまた、アルコール中毒の男で、1933年に48歳で死んだ。スコットが雑誌に書いた追悼文は、実に見事なものだった、という。ドロシー・パーカーは“かつてこれ以上感動的な文章を読んだことがない”と断言した。
スコットの“友人”は、ほかに、アーネスト(ヘミングウェイ)、トマス・ウルフ、ジョン・オハラ、アンドレ・シャンソン、ジョン・ビショップ、モーリー・キャラハン…その多くはスコットがスクリブナーズ社に紹介し、契約した作家たち。
が、スコットは友人を裏切らなかったのに、この友人達の多くはスコットを裏切った…とスコットは感じていたようだ。(アル中の酔っ払いにくどくどと自分の小説への助言をされ続けたら、たいていの作家は、少なくとも積極的に付き合いたい気持ちを失うだろうが。)

“友だちがしてくれるのは奇妙なことです。アーネストは「キリマンジャロの雪」に無礼なことを書き、あの哀れなジョン・ビショップは「ヴァージニア・クォータリー」誌にエッセーを載せ(彼の文学的経歴を高めるためにぼくが十年も務めてきたことへの素晴らしい返礼です)、またハロルドはいちばん苦しい時期に突然ぼくを放り出し、その結果、彼らは友だち以下のつまらぬ存在になりました”
ヘミングウェイが、ゼルダへの軽蔑を夫であるスコットに振り向け、「キリマンジャロの雪」という作品の中にスコットを登場させたのはあまりにも有名な話だ。(マックスは、最初実名で書かれたこの登場人物の名前を変更させることに注力した)
ビショップは、プリンストン時代のスコットが金持ちに追従したとエッセーに書いている。
そして、ハロルド・オウバーは、この時期、スコットからの「前借り」の依頼を初めて断ったのだ。

あと1回くらいで終われそうです。

【去年の今日】
とうとう組長から始まらない「おとめ」が発行される、という事態について書いた記事。恐ろしいことに翌年も当たり前のようにそういう「おとめ」が発行された。そして、前代未聞の伝説を増やしながら、もうすぐ退団公演の大劇場千秋楽になる…。


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フィッツジェラルドの午前三時④ [┣宝塚作品関連本等の紹介]

スコットは自分の作品を評して、歯医者で30分つぶすには好適という言い方をしているが、その一方、どんなものを書いても自分の作品がまったくだめだったことは一度もない、とも語っているそうだ。
自分の作品への冷静な視点と、自分の才能に対する自負と矜持を感じる。

「THE LAST PARTY」には、スコットがフェイ神父という人物に傾倒した少年時代の記述は見当たらない。しかし、このエピソードはスコットの伝記に必ず登場する。おそらく、神父が1919年、つまり「楽園のこちら側」出版の前に亡くなっているからラスパからは省かれているのだろう。「楽園のこちら側」は、フェイ神父に献げられているが、スコットはその名のつづりを間違っているらしい…。ちょっと微妙。

「楽園のこちら側」出版に関するエピソードは、だいたいラスパの通りだったようだ。「ロマンティック・エゴイスト」第1稿は、スクリブナーズ社に断られるが、この時、出版に好意的だったマックスウェル・パーキンズが建設的な批評を添えた。こうして、「ロマンティック・エゴイスト」第2稿が完成、またもスクリブナーズ社に拒否される。そしてこれを改訂した「楽園のこちら側」が送られてきた時、マックスは辞表を手に出版を勝ち取ったという。

さて、フィッツジェラルドの登場の仕方、日本で考えると誰なんだろう?と考えた。そして思いついたのが田中康夫、古くは石原慎太郎だった。
今は政治家の二人…では、スコットも政治への関心があったりしたのだろうか?どうやらスコットは「空想的共産主義者」だったらしい。このあたりが、「ラスト・タイクーン」にも反映しているかもしれない。
が、スコットは親友エドマンド・ウィルソンに対して、“1920年、ぼくは政治を君と君の仲間に任せた”と手紙に書いている。しかし、政治思想は持ち続けていたようで、生涯に亙り民主党に投票し続けたという。

スコットの若き日の夢、それは、「大都会での成功」と「ロマンス」
これは「マイ・ロスト・シティー」という作品に登場する。スコットは、ニューヨークを二つのシンボルに凝縮する。即ち征服と勝利を意味するフェリーボートと、若い娘、すなわち
しかし、ここに登場する第三のシンボルについては、ラスパには登場しない。「ラスト・タイクーン」を編集・出版したエドマンド・ウィルソンこそ、スコットの理想像だったのだが。これは、もしかすると、バニー(エドマンド・ウィルソンの愛称)こそ宝塚の男役らしい、かっこいい役になってしまうからかもしれない。

ラスパのスコットは、酒とパーティーに酔いしれながら、一方で自分の小説への批評を残らず読み、指摘された欠点を認めている。そういう二面性について、バニーは次のように評している。
【アイルランド人の例にもれず、フィッツジェラルドはロマンティックな人間だが、同時に、愛に関して冷笑的な態度をとり、有頂天になると同時に苦い幻滅にひたり、叙情的であると同時に冷淡でもある。プレイボーイの役をみずから引き受けるが、つねにプレイボーイを嘲笑している】
この二面性は、時に彼に分裂的行動を取らせる。
“親愛なるスコット、調子はどうだい?きみに会いたいと思っていた。ぼくはアラーの園に住んでいる。スコット・フィッツジェラルドより”
と、書かれた絵葉書が残っている。
「アラーの園」というのは、ハリウッドにあるホテルで、スコットはここにシーラ・グレアムと共に住んでいた。そう、ラスパ冒頭でスコットに届いたハガキのモデルはここだったのだ。

今日はこの辺で。

【去年の今日】
祐飛さんの「別格3番手」を認めてほしい、と熱く語っている。
その後、祐飛さんのポジションは限りなく路線方向に向かっている。劇団がどういうつもりなのか、問い詰められるものなら、聞いてみたい今日この頃である。


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