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「住所まちがい」観劇 [┣演劇]

「住所まちがい」


原作:ルイージ・ルナーリ 
上演台本・演出:白井晃
翻訳:穂坂知恵子、溝口迪夫
美術:松井るみ
照明:齋藤茂男
音響:井上正弘
衣装:安野ともこ
ヘアメイク:国府田圭
演出助手:豊田めぐみ
舞台監督:小笠原幹夫
宣伝美術:近藤一弥
宣伝写真:二石友希


作者はルイージ・ルナーリだが、上演時の自由度の高い作品になっていて、基本的な部分を押さえていれば、いろいろ変えることができるらしい。台本の10分の9以上は作りこもうとしてはいけないという但し書きまであるそうで、演出家や俳優に10%程度の裁量権がある…つまり、上演の数だけ、違う「住所まちがい」が存在する、ということになる。ちなみに、タイトルの「住所まちがい」からして、原題とは似ても似つかない。(原題は、「シーソーの上の三人」みたいな意味)
作品的には、イタリアの「コメディア・デラルテ」の手法が使われていて、その定番キャラクターを代表するような人物が、ひとつところに集まり、やがて彼らが、自分たちは死を迎えようとしているのでは?という疑問にかられ、右往左往する物語となっている。


上演台本・演出を担当した白井晃は、まず、場所と登場人物に手を入れ、そこが日本で、登場人物の名前が、俳優と同じ「渡辺」「田中」「仲村」だということにしている。しかも、俳優の本当の名前とずらした形で。(さらに終盤どんでん返しで、本当の名前を全員が隠していたことが判明、最終的には俳優本人と同じ姓をあらためて名乗る設定。)まあ、最終的に全員が本名を名乗っていないことが発覚するせいか、彼ら同士の中では、職業でお互いを呼んでいる。仲村トオルが社長で、渡辺いっけいが警部で、田中哲司が教授というように。
これは、たまたま三人の姓が日本でわりとポピュラーなものだったという偶然が、演出家をその気にさせたのだろう。(その上で「ナカムラは一般的な中村ではなく、にんべんがつくんです」というセリフで笑いを取る。)


冒頭、まず社長の仲村が、客席から登場する。客席登場なので、感染対策からマスクをしている。そして、舞台に上がるところで、エアーのドアを開け、そこでマスクを外す。本来なら、室内でこそマスクは必要だと思われるが、仲村が客席から登場したことで、「客席登場はマスク→舞台上はノーマスク」という「2022年演劇の当たり前」が発動、次に登場する警部の渡辺が同じ行動を取っても不思議に感じなかった。こういうの「演出の妙」だなーと感心する。
まず仲村が客席からエアードアで登場し、次に渡辺が下手のドアから登場、だいぶ遅れて田中が上手のドアから登場する。社長(仲村)は、恋人と待ち合わせ、警部(渡辺)は備品の発注のために、教授(田中)は出版予定の本のゲラを受け取りに。三人が到達した場所は、まったく違う住所。なのに、同じ場所にたどり着いてしまった。
そして、今日は、大気汚染の警報ベルが鳴る日(意味不明)で、夜間は外に出られない。何が起きたか、把握できぬまま、朝、警報が解除されるまで、彼らは一夜を共にすることになる。
冷蔵庫に入っているものが、開ける人によって違うものになったり、不思議な掃除婦(朝海ひかる)が現れて、もしかしたら、この人こそ聖母マリア様なのでは[exclamation&question]と思わせたり、だんだん、三人は、自分たちがもう死んでいて、最後の審判を待っている状況なのでは…という疑問を感じ始める。
三人の哀しくも可笑しい奮闘の一夜が明け、警報解除のサイレンが鳴る。
もう二度と会うこともないと安心した三人は、自らの正体を明かしつつ、陽気にそれぞれのドアから退場する。(どういうわけか、彼らは、自分が入ってきたドア以外からは、出ていくことができない。)が、外の世界に繋がる階段下のドアが開かず、三人は元の部屋に戻ってくる。もう二度と外界に戻れない=やはり、自分たちは死んでいるのか…と、絶望しながら。


いや、もう、めちゃくちゃ面白かったです。
チケットを取って普通に一度観劇していたが、別の日に、田中哲司ファンの友人に会うため、劇場近くで待ち合わせをした時、「当日券あったら、観ようよ」と言われ、ついつい3階席で再度観劇してしまった。
席に着いた時、そういえば、今日はメガネもオペラグラスも持っていなかった…と気づいて、あちゃー[ふらふら]と思ったが、表情は見えなくても、声と動きだけで、彼らの心情がハッキリと伝わってきた。顔が見えなくても、何も問題はなかった。オペラグラスの民なので、観劇の時は、「顔が見えなかったらオペラグラス」と当たり前のように思っていたが、全体を見る…ということの大切さにあらためて気づかされたりもした。
(一度はちゃんと顔を見て満喫したからこそ、こんなこと言っている部分はあります。)
情けない三人の男たちの姿が面白すぎて、そこに登場するコムちゃんの存在感が見事で。この掃除婦のおばさんは、ルナーリさんによると、「実際にありがちな粗野な印象を与えないこと。どこかミステリアスで、どこか普通とは違う感じ」というイメージらしいが、朝海の掃除婦は、田舎のおばちゃん口調なのに、本当にミステリアスでどこか普通と違っていて、本当に聖母マリア様なのでは[exclamation&question]と思えた。


こういう作品に出合えると、演劇が好きでよかった、と思う。幸せな時間だった。


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