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多賀城 [┣百名城]

星組全国ツアーを仙台に観に行ったので、ついでに、多賀城まで足をのばした。


仙台から、東北本線で20分ほどの場所に多賀城市はある。奈良時代、東北の蝦夷(「阿弖流為」でおなじみの…)に対する備えとして建築された鎮守府兼政庁。戦線が北上するに従い、鎮守府の位置も北上していくが、政庁機能は多賀城に留まった。言ってみれば、九州の太宰府と大野城が合体したような施設ですね。


多賀城‐1.jpg多賀城市の駅から、20分弱かな。
最初にやってきた施設は、「壺の碑」。
江戸時代の初め頃に発見された石碑で、政庁・多賀城の位置や由来が記載されている。
にせ物説もあったらしいが、現在は、一応、本物ということで落着しているそうだ。
発見されてからしばらくの間はふきっさらしになっていたそうだが、現在はこのように建物の中に安置されている。(格子の間から碑を見ることができる)


多賀城‐2.jpg壺の碑からさらに歩くこと3分ほどで、政庁・多賀城に到着する。
多賀城は、数奇な運命に翻弄されたみちのくの一大政庁。蝦夷の鎮圧の最前線にして、懐柔策の本拠地。「阿弖流為」に登場する伊治呰麻呂(壱城あずさ)のように、蝦夷の武将ながら、朝廷に認められた領主となることもある。


多賀城‐3.jpgというわけで、こちらが、その政庁跡でございます。
手前に、だいたいこんな感じで建物が建っていたようです…という模型がありますが、なんか、太宰府政庁の模型と似ているかも[exclamation&question]
西の太宰府と北の多賀城、そこに備えを置くことによって、平城京は、ようやく安心して、梅をかざし、歌を詠むことができたのだろう。


多賀城‐4.jpgさらにこちらの写真は、政庁の正殿を復元したもの。まあ、建物全体じゃなくて、足場の部分だけのようだけど。
この周辺では、ボランティアガイドさんに、たいへんお世話になり、長時間説明して頂きました。「阿弖流為」のせいか、色々興味がわいてしまい、あれこれ質問してしまいました。本当にお世話になりました[黒ハート]


この後、日本百名城のスタンプを押しに行き、さらに周辺の遺跡を回り、気がついたら、2時間半も経っていました。食事も忘れて…[あせあせ(飛び散る汗)]


多賀城‐5.jpg奈良時代に藤原氏は、その力を確固たるものにしている。藤原氏の勢力の伸ばし方は、後継者問題に悩んでいた天皇家に近づき、特に女帝の信頼を得ることで、政権中枢に入り込んだと言われている。
蘇我入鹿がやろうとして道半ばで斃れた方法ですね…[爆弾]その入鹿を倒した鎌足の子孫がおんなじことやってたってわけですね…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
(女帝の信頼を得る…とは言っても、全員が女帝とやましい関係になって…という意味じゃないですよ)
藤の花は、他の木に絡みついて成長する。藤原氏もまた…ということで、多賀城市の藤の花は、とても元気に大きな木に絡みついて成長しているようでした。
例の、「壺の碑」によると、天平宝字6(762)年に藤原朝狩が大規模に修造したとか。この藤原朝狩は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の息子(四男)。時の大権力者の息子の力が、こんなところにも…[あせあせ(飛び散る汗)]


多賀城‐6.jpg帰りの電車を待つ駅のホームから、こんな建物が見えた。
「東北歴史博物館」…最初にここで学んでから、多賀城に行くべきだったかも…。
また来てみたい場所なので、その時は、必ず博物館にも寄りたいと心に誓っております。


 


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