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享保の改革 [┣公演内容の考察・検証]

ケミ取り法から定免法への変更により、豊作だろうと凶作だろうと一定の年貢を納めることになった。
これは幕府にとって、毎年の予算を一定に組めるという点において有効であるばかりか、お代官様の差配次第なケミ取りは賄賂の温床となり、結果、税が中間蓄財されてしまうという弊害にNOを突きつけたことも大きい。
しかし、農民にとっては、この変更がよくなかった。
お代官様への差配部分はさておくと、これは、定率から定額への変更である。
三日月藩のような、土地の貧しい藩の農民は、もちろん、年貢を納めたら自分達の食べる米がない=餓死するしかない…という悲劇を産むが、もっと多くの米が取れる藩の農民も裕福にはなれなかった。
農民が、年貢を納め、自分達が食べる分を確保したら、余った米はどうするか。売ることになる。
年貢は、藩の武士たちの扶持(給料)になる。農民は、自給自足。残る工商身分の人々は、市場から米を買っていた。
ケミ取り法時代は、豊作の時は年貢も多く取れるので、それらは藩の倉庫に納められ、凶作の時用に備蓄された。
しかし、定免法となると、豊作でも一定量しか年貢に取られないので、残りの米が市場に出る。豊作だからといって工商の人々の人口が突然増えるわけではないので、当然、需要<供給…供給過多となった米の相場は下落するのだ。
というわけで、定免法下では、すべての農民が等しく貧乏になってしまった…らしい。貧しい農民は、凶作でも年貢を納めるため、満足に食事ができない。裕福な農民は、豊作でも米が高く売れないので貯えが遺せない…[爆弾][爆弾][爆弾]
江戸時代の三大改革は、この調子ですべて失敗に終わっている。
そもそも、贅沢を慎む(倹約する)という改革方法なので、幕藩の財政はそれで健全化するかもしれないが、市民の生活は、悪化してしまう。幕府や諸藩は冗費を抑え、その分、商業を活性化させて金回りをよくすればよかったのに[ひらめき]
できなかったんでしょうね、お侍さんは清貧で、商人は羽振りがいいなんて、幕府としては許せなかったんでしょう[ダッシュ(走り出すさま)]
今、日本の学校では、「士農工商」を教えないんだとか。士⇒農⇒工⇒商というカースト制度があったような印象を与えないため、(実際には、士⇒農・工・商という並立関係だったという研究結果がでているとか)だそうですが、こういう政策の失敗を見るにつけ、その原因に「士農工商」は絶対にあったと思うんですよね、私は。そこを教えるためにも、「士農工商」は外しちゃいけないワードだと思う。だいたい、「士農工商」を教えないと、「四民平等」も出てこないじゃん。
こういう改革を考える人の頭の中に(お芝居で言えば清興の中に)、士の次は農、という考え方があるから、まず農業改革に行く。で、工と商を意識しないから、経済が歪む。工・商があるから、貨幣経済が必要なんですよ。武士と農民しかいなかったら、物々交換でも成り立つんだから。でも実際には、この人たちの衣食住には、工・商は不可欠だったはず。家にも住まなきゃならないし、着物も着るでしょ?だけど、そこに目を向けない。だって、「下だから」。カーストではない。越えられない壁はない。でも、「農民の方が商人より上」っていうランクはあった。江戸時代の改革の失敗は、商業軽視が原因で、それは、「士農工商」という考え方に起因する、と、ここで大声で主張したいです。
商業の大切さは、明治時代になってようやく世間の認知するところとなり、日本は近代国家への道を歩み始める。もちろん江戸時代にも、先見の明があった偉い人もいるにはいる。が、なかなか周囲の理解は得られなかったようで…
享保の改革下、尾張藩主の徳川宗春は、商業を重視し、城下を豊かにすることに成功したものの、吉宗に蟄居を命じられてしまったとか。
士農工商というピラミッドで統治することにより、国家の安定化を図った徳川幕府は、その拠所を儒教(朱子学)に求めた。国の安定には役立ったかもしれないが、質素を重んじる儒教精神が、現実を歪めてしまったのかも…。
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