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雪組バウ・東京特別公演「双曲線上のカルテ」観劇 [┣宝塚観劇]

バウ・ミュージカル・プレイ
「双曲線上のカルテ」
~渡辺淳一作「無影燈」より~

原作:渡辺淳一
脚本・演出:石田昌也
作曲・編曲:手島恭子、中尾太郎
振付:麻咲梨乃
装置:稲生英介
衣装:加藤真美
照明:安藤俊雄
音響:大坪正仁
小道具:福原徹
歌唱指導:楊淑美
演出助手:鈴木圭
舞台進行:表原渉

双曲線とは、私の大嫌いな数学用語。2定点(=焦点)からの距離の差が一定である点の集合をグラフ上に描くと、二つの曲線が対照的に描かれ、決して交わらないんだとか。意味分からん[バッド(下向き矢印)]
石田先生は、決して交わらない二つの線という意味でこのタイトルを考えたそうだ。
原作は、渡辺淳一の『無影燈』。これは、手術室の天井にある、アレのことです。手術開始の時にガッと点灯するアレです。手元が影にならないように、たくさんの光源が一緒になっているけれど、手術室の気温が上がらないような工夫もされているとか。
中居くん主演でテレビドラマ化もされているので、ご存じの方も多いと思う。中居くん初のシリアスドラマだったんじゃなかったかな。
なので、ネタバレ上等で進めます。

物語は、ヒロインのモニカ(星乃あんり)と、サンドラ(桃花ひな)の二人の看護婦がマルチーノ・メディカル・ホスピタルに転勤してきたところから始まる。
原作の「無影燈」は1970年代の日本を舞台に描かれているが、今回の舞台では、それを1983年頃のイタリア、ナポリに移している。(作品中、ローマ法王パウロ6世が火葬しても魂は消滅しないと発言してから20年というセリフがあるため。)
モニカとサンドラは、さっそく婦長(麻樹ゆめみ)の血液型を当てようとして、医師ランベルト(夢乃聖夏)にたしなめられる。笑いを取りつつ、この時代の看護婦にとって医師との結婚が、つまるところ最高の幸せである、といった情報が織り込まれている。
(たしかに日本のドラマ等ではそうだったが、はたしてイタリアでも同じなんだろうか?
突如、救急車が到着し、事前に連絡がなかった等の緊迫したやり取りがあった後、突然、患者(彩凪翔)と救急隊員ら(透真かずき・久城あす・詩風翠・月城かなと)がライフルを取り出し、テロ組織であることを明かす。で、要求を入れられなかったら人質を5分ごとに一人殺すと言って、まず、手近なところにいたモニカに銃を向ける。
そこへ客席から医師フェルナンド(早霧せいな)が登場、自分が人質になると言いだす。
結局、入院していたマフィアのおかげでテロ組織の不意を突くことが出来、一人の犠牲者も出さずに済んだ。フェルナンドの勇気を称えるマフィアにも、助けてもらったお礼を言うモニカにも、「命は使うべき時に使わなきゃ意味がない」とクールに答えるフェルナンド。
モニカはこの一瞬でフェルナンドに恋心を抱いてしまった…らしい。
ちなみに、マフィア達は、刺青が原因でC型肝炎に集団感染して入院していたんだとか。
マフィアって刺青するんだろうか?

ここでフェルナンドによる主題歌披露場面がある。
主題歌なので、恋が盛り上がった辺りで本来は歌われる。なので、始まった時点では歌詞に非常に違和感がある。
でも、これは、ドラマでオープニング場面の後に、タイトルバックに登場する主題歌だと思えば、いいんじゃないかな。「相棒」だったらテーマ曲の場面みたいな感じで。
あ、「相棒」といえば、テロリストが登場する場面は共通してるなぁ。石田先生、こういう設定好きなのかな?
あ、ちなみに、早霧の歌唱力については、私は気にならない。

フェルナンドがマフィアを入院させたことについて、病院では問題になっていた。
が、病院といえども、倒産しないように努める必要があるわけで、病院長の娘、クラリーチェ(大湖せしる)の言う、「病院が倒産したら、ここは無医村よ」という言葉は説得力がある。
一方、病院長(夏美よう)は、地区医師会の会長選挙に出るつもりらしく、もめ事を避けたいらしい。
イタリアにも、日本のような地区医師会が存在するんだろうか?

さて、病院長は、婦長ともアヤシイが、院外にも愛人がいるらしい。ナイト・クラブとプログラムには記載されているが、要はバーのママであるアニータ(夢華あみ)から金の無心をされている。
その店では、フェルナンドが酒を飲んでいる。実は、フェルナンドは夜勤なのだが、こうやって抜け出しては酒を飲んでいるらしい。
院長から「熟女の魅力で若い医師を誘惑するな」と言われているアニータは、それに反発してフェルナンドと踊る。が、足が痛くなって中断し、フェルナンドから痛風と診断される。ほんの1年半前には、ジュリエットを演じていたのに、痛風と呼ばれる研3って…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
と、そこで、学生たち(月城・詩風・凰いぶき)が、中国人留学生のチャン(橘幸)に“一気飲み”を強要していた。フェルナンドが止めるが、間に合わず、チャンは人事不省に陥る。一方、病院でも顔面を血だらけにしたベルナルド(久城)が担ぎ込まれ、当直のフェルナンドが探されていた。
チャンに付き添って現れたフェルナンドは、ランベルトに文句を言われるが、それぞれが役割を分担し、フェルナンドは、ベルナルドをトイレに閉じ込めて大人しくさせ、付き添ってきたウーゴ(透真)をモニカと二人がかりで意気消沈させる。
この時、フェルナンドは、モニカの臨機応変な性格を見て、ちょっと興味を示している。
病院とバーの間で普通電話以外連絡方法がないこと、モニカが通貨単位を“リラ”と言っていることなどから、パウロ6世の話を知らなくても、現代の物語ではないんだろうなーということがわかる。こういう辺りも、石田先生の巧みなところだ。
こうして、ちょっと笑いを取ったところで、話は急展開、急性アルコール中毒で倒れたチャンは、結局蘇生しなかった。三人の学生に対して、フェルナンドは荒れる。「お前ら、就職も結婚も諦めろ!幸せになることは絶対に許さん!」ま、気持ちはわかるけどね…
日本では80年代半ば頃から、一気飲みの危険性が言われるようになった。それまでは、アルコールの強要なんて、男性社会では当然だった、と会社のオジサマに聞いたことがある。(実際それで、お酒に開眼した人もいるらしい。)
しかも、ヨーロッパは土地柄、アルコールに耐性のある人が大多数で、ちょっと飲ませたら死んでしまうような大人がこの世にいるとは思っていなかった可能性がある。なのに、フェルナンドさん、厳しいわ…[がく~(落胆した顔)]たしかに命は大切だけど、過失を償うために一生を犠牲にするのはどうなんだろうか?という気はしないでもなかった。
しかし、モニカは、そんなフェルナンドの激しさを見て、不真面目だと思っていたのに、こんなに真剣に命を考えているんだ!という新たな発見もあり、さらにときめいてしまうのだった。
そういえば、この辺りで、“恋の喜びが愛の苦しみに変わる”とかいうセリフがあったような気がする。『復活』だけでなく、この辺が最近の石田戯曲のテーマになるのかな?

ある日、フェルナンドが以前勤めていたヴァチカンの大学病院の元教授、クレメンテ氏(奏乃はると)がマルチーノ病院を訪れる。彼は、免疫学の権威だったが、妻をガンで亡くしており、今は、イタリアに火葬を普及させる運動をしているということだった。
パウロ6世が、火葬しても魂は滅びないと宣言してから20年というセリフは、ここに出てくる。パウロ6世のこの世紀の演説は1963年のことだったそうで、そこから換算すると、この芝居の舞台は1983年頃のイタリアが舞台ということになる。
それにしても、ヴァチカンの大学病院のエリートだったフェルナンド先生が、どうして、こんな田舎の個人病院に?という疑問に、クレメンテ先生は、「それは、ナポリを見て死ねといいますから」と答える。
この慣用句は、フェルナンドには重い言葉でもあった。
クレメンテ先生は、この地にやってきたフェルナンドのために、治験薬とレントゲン車を用意してくれたらしい。誰も知らないが、フェルナンドは、命の終わる時を宣告された体だった。
「病気の子供を亡くした親が、私が代わってやりたかったと言うのは、代われっこないとわかっているから」とフェルナンドは言う。
こういうところ、石田先生、厳しいなーと思う。
代われっこないとわかっているのも事実だろうが、代わってやりたいというのも、親としては真実だと思うけどなー。

さて、ここにチェーザレさん(朝風れい)というピザ屋の主人がいる。
彼は末期の胃がんで、すでに全身に転移をしていて手の施しようがない。
主治医のフェルナンドは、そんなチェーザレさんと奥さん(千風カレン)に、病気のことは言わず、胃潰瘍だと告げている。
イタリアのことはわからないが、たしかに日本では末期の胃がん患者に対して「胃潰瘍」という病名を告げることがよくあった。私の祖父は、1973年に胃がんで亡くなったが、十二指腸潰瘍という病名を伝えられていた。その時、元看護婦であった祖母は、医師から病名を知らされており、祖父に伝えずに最期を看取った。
が、高齢の夫婦の場合、配偶者にも病名を伏せ、子供にだけ伝えることもよくあったらしい。
1997年に胃がんで亡くなった友人は、告知されなかったし、婚約者も亡くなる直前まで知らなかったらしい。ご両親と職場の上司(部長以上)だけが知っていた。
告知すべきという文化は、少なくとも日本においては、がんの治療法の多様化と、告知することによって、病気と正面から向き合い積極的に闘えること、治療法の選択ができること、から徐々に広がって行ったが、医者がそこまで患者の責任を負いたくないという負のメリットもあるのではないか?という気がする。
チェーザレさんの話は、原作の小説にも登場するようだが、告知しないということは、病気になった本人ではなく、病院側の医者や看護婦にとっての精神的な負担となる。医療スタッフが、そこまで患者に責任を負わなければならないのだろうか?という尤もな意見が今は主流といえる。
が、そこには、病気になった人の精神的なケアの問題は出てこない。お芝居を見ながら、考えさせられる展開だった。

一方、フェルナンド先生は、生活保護を受けている患者の保険の点数をチェーザレさんに横流ししてほしいとも言い出したりしている。
ちゃんと税金を納めているチェーザレさんと、国に面倒を見てもらっている人とが、まったく同じ条件では不平等でしょうと言うフェルナンド先生に、ランベルト先生は鼻白んで、「そういうのは、民生委員とか市の福祉課の仕事でしょう」と答える。
そうなんでしょうか?イタリアでも…
なんだか、単語のひとつひとつが全部日本的で、あと、衣装もすごく日本的で、本当にイタリアもこうなんだろうか?という疑問が、強く残っている。

チェーザレさんの希望で、手術が行われる。もちろん、手の施しようがない末期がんなので、形ばかりの開腹手術だ。
「長い春の果てに」でも登場したオペダンスがここでも再現される。そして手術台にいるのは、患者ではなく、死の影(彩凪)。いつのまにか、手術着の医師は、黒天使のような衣装で踊っている。その影に翻弄されるフェルナンド。
手術が終わった後、無影燈の下で、フェルナンドはモニカをぎゅっと抱きしめる。
フェルナンドの思いも、モニカの勘違い一直線もわかるので、ここは切ない[もうやだ~(悲しい顔)]

一方、院長夫婦は、一人娘のクラリーチェが、既にフェルナンドと深い仲になっているとは露知らず、安全パイのランベルト先生を娘婿にと画策している。
院長夫人の五峰亜季は、深刻になりがちなこのドラマのコメディリリーフ的な役どころを、絶妙に演じている。石田先生は五峰を“ちょっと意地悪そうに見えるが、実は超善良な人”という役どころで使って成功していると思う。
しかし、“ポァゾン-愛の媚薬って感じ”と盛り上がる院長夫人に、「それ座薬ですから」と答えるランベルト先生…[爆弾][爆弾][爆弾]
フェルナンドを挟んでモニカとクラリーチェの対立が表面化する。死を意識したフェルナンドは、モニカに対して、手術の時のことは忘れてほしいと言うが、その一方で、クラリーチェとの関係を清算する気になっている。
「モニカにあって私にないものはなんなの?」と問い詰めるクラリーチェに、フェルナンドは答える。
「違う。持っていないものだ。モニカは疑う心を持っていないんだよ」と。
それって…それって…都合のいい女ってことじゃないのー[exclamation&question][exclamation&question][exclamation&question]

ここで、突然二人の天使(舞園るり・妃華ゆきの)が登場し、恋はハシカと同じ…という歌を歌う。天使を登場させたことの是非は、難しいところかな…。出すなら、最初から出した方がよかったような気がする。
死期の迫ったチェーザレさんは、自分でも自分の病状に気付き始めている。しかし、決してフェルナンドやランベルトにそのことを聞こうとしない。
薄々気づいているが、お互いに知らない振りをする。昔のがん患者と医者の関係は、こんな風だったんだろうな。そして石田先生は、その方がいいんじゃないの?という意見なのかな?という気がした。
それが「死の形を整える」こと。その時、大切なのは、あなたは一人ぼっちじゃないと伝えること、だと言っている。
死期の迫った患者は、より本能がむき出しになって、時に看護婦にセクハラまがいのことをするらしい。そうなったら、抱きしめてあげてほしいと、フェルナンドに言われ、「看護婦は、娼婦でもホステスでもありません」と拒絶したモニカだったが、嵐の夜、「死ぬのが怖い」と泣き崩れるチェーザレさんをぎゅっと抱きしめる。
「チェーザレさん、温かかった」と泣くモニカを、「えらいぞ、よく頑張った」と褒めるフェルナンド。
フェルナンドが、モニカを愛そうとしたキッカケがこの辺だったのかな?という気がした。こんな自分に恋する資格があるのか?と、誰も傷つかない(と思いこんでいる)女遊びを続けていたフェルナンドが、この娘なら自分を赦してくれるのでは?と、踏みこんで行くキッカケというか…。
ずるい男かもしれない。
でも、かっこいいから、許そう。いつも胸元を開けていて、浅黒い肌がセクシーだから許そう
[揺れるハート]

翌日、チェーザレさんは亡くなる。
奥さんは、死後、初めて、チェーザレさんの病気のことを知って、狼狽してフェルナンドを責める。
が、ピザの箱の裏に書かれたチェーザレさんの手紙を読み、奥さんはフェルナンドと病院スタッフに感謝する。
この場面、バウホールで観た時は、もういい加減にしてくれ…という気分だった。
石田先生の現代医療への問題提起だらけで、そういうことは、宝塚の舞台以外でやってくれ、と思っていた。そうしたら、青年館では、この場面で号泣している自分がいた。
芝居というのは、幕があいたら、作者の手を離れるんだなーと思った。
バウで始まった週に観たのと、青年館で観たものは、全然別モノだった。
特に、奥さんを演じた千風カレンの表情のひとつひとつが、素晴らしかった。この場面に出ている皆が、役の人物として生きて、心からの涙を流していたのも感動的だった。
問題提起なんかほっといて、チェーザレさんという患者の最期を、みんなが一生懸命に看取った、ここはそういう病院なんだ、そういう先生なんだ、そういうナースなんだ…という温かい舞台になっていた。
すごいな、舞台って。
…というところで、ニ幕は後日。


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コメント 3

NO NAME

2012年、今年、の11月、汐美さん男役やられますよ。
by NO NAME (2012-08-14 04:20) 

riuna

感想を読ませていただいて、バウで観劇していた時に突っ込みたかった所を的確に書いてくださっていてすごくすっきりしました!
脚本は突っ込みどころやチグハグしたところ満載なんですけど、この作品好きなんです。組子の熱演あってこそのこの作品な気がします。
脚本がフェルナンドをしっかり書き切れていないのでフェルナンドっていう人が曖昧なんですけど、ちぎちゃんのフェルナンドが格好いいので気にしない←

あ、一つ…
顔面血だらけで車椅子に乗った子がベルナルド(久城くん)で、付き添いの友達がウーゴ(透真くん)だと思います…(^_^;)
by riuna (2012-08-14 19:37) 

夜野愉美

お名前のないコメントいただきました方、ありがとうございます。
既に行く気満々でございます!

riunaさま
コメントありがとうございます。
すみません。記述の誤りを教えていただき、ありがとうございます!

フェルナンド、曖昧ですかね?
むしろ分かりやすい人物だと思います。男としてすごく分かりやすい。普通、男ならもう少しかっこつけるもんだと思うんですが、自分の苦しみや悲しみに対して、ストレートで。
そこが母性本能をくすぐるというか、モニカもそれでやられちゃったのね…と生ぬるく見ておりました。
by 夜野愉美 (2012-08-14 23:54) 

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