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広開土王の生きた時代 [┣公演内容の考察・検証]

「太王四神記」の主人公、タムドク(談徳)は、実在の人物で、その諡=広開土王=が示す通り、その治世の間に、高句麗の領土を飛躍的に広げた王だった。
宝塚作品の中では平和的に描かれている、関彌城平定も、対百済の対外戦争だし、しかも圧勝だったし、ホゲのせいになっている契丹行きだって積極的に征伐に出かけ、これを撃退している。
もちろん、当時の価値観では、戦争がすべて悪ではなかったはずだし、隣国を攻め、領土を拡大することこそ、王の仕事であるという時代だったと思う。特に朝鮮半島は、すぐ先に中国という大国が迫っているから、国力を増強し、軍備をととのえておかないと、いつ攻められるかわかったものではない。この辺り、海に囲まれた日本とは、戦争に対する意識の違いというのは、すごくあると思う。
で、当時の戦争、勝つと、奴隷を連れて帰ったり、負けた国に朝貢(貢物)を約束させることができたようだ。奴隷や人質は、後に物資と交換することができるので、要は、勝てば国が富み栄えることになるわけだ。
で…ここから先が朝鮮半島の国々の賢さ、というか、生活の知恵なのだが、朝貢するということは、柵封体制の内側に入るということで、隷属する代わりに、他国からの侵略の際は、助けてもらえることを意味する、本当は。でも、彼らは2国、3国に対して平気で朝貢を約束したり、約束したくせに払わなかったり…ということもやっている。そうでなければ、弱い国が生き残るのは難しいのだろう。
高句麗は、朝鮮半島の、上の方、半島だけでなく大陸に近い部分をも領土としていた。だから、周囲は新羅・百済だけでなく、中国北方民族にも囲まれている。
タムドクの父・ヤン王の生まれに疑いがある…と言われた、母の人質事件は、中国北方民族の鮮卑との戦争に敗れたかららしい。鮮卑が前燕という国家を作った頃のことのようだ。

広開土王は、374年生まれ412年死去というから、38年の短い一生。その大半は、戦に費やされたようである。

こうして、高句麗の国土は飛躍的に広がり、広開土王の死後、250年に亙り繁栄する。そんな高句麗が滅亡したのは(668年)、天智天皇の即位した年だった。
一見無関係に見えるが、実は、少しだけ関係がある。

それまで三国が鼎立し、戦が絶えなかった朝鮮半島。その一国である、新羅に金春秋という英雄が誕生する。春秋は、王になると唐と結び、その力で百済、高句麗を滅亡に追い込む。(春秋自身は、高句麗滅亡前に死去)
先に滅亡した百済は、王子・余豊璋が日本に留学中であったため、これを帰国させるとともに、軍を派遣したのが、皇太子時代の中大兄皇子。しかし白村江で歴史的な大敗を喫し、倭国は敗走する。
心機一転、再び国力を増大させるために、都を内陸の大津に遷都し、天智天皇が即位する。その辺りの物語は、「あかねさす紫の花」の背景を彩っている。(女好きなだけの天皇ではなかったのですよ)その天智天皇もまた、即位の4年後には死去している。享年46歳。古代の王というのは、激務だったんだなぁーと思う。


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